第七話
休憩を終えて進むとヴェルフさんの説明通りに奇妙さは減っていて、本棚は整えられて立ち、照明は今も多くは見えるが誤差程度に思えるものだった。
だからと、全てがまともになったわけでもなく、探り探りに進むしかない。
やがて足を踏み入れたのは、左右に分かれる通路だった。
見た所は学校の廊下のようだが、教室に繋がるドアは無ければ窓も無く、天井の照明は薄暗く視界は良くはない。
分かれ道の右側は長く廊下が続いた先に曲がり角があり、左側は短い廊下と突き当りの壁に掛けられた絵画が確認できた。
「こっちに行こうか」
ヴェルフさんが指差したのは左の廊下だった。
どう見ても先に進めないように思えるが、俺には分からない何かがあるのだろうと頷いた。
だが、その壁際まで到着しても、そこは見た通りの行き止まりだった。
壁に触れても何も無いが、ヴェルフさんは何故……と思っていると、後ろから肩をトントンと叩かれた。
「この絵をちょっと見てくれるかな」
壁に飾られているのはどこかの風景画だろうか。
眺めるには顔をくいっと上げなければならない高さにあるそれを見る。
綺麗な絵で、特におかしな様子は無い。
何が求められているのか分からないまま細部にも目を凝らすが、それでも特別に何かを見つける事は出来なかった。
その時、背後から影が出来て視界が暗くなる。
「ん?」とそれを気にした次の瞬間には、身体の両脇に手が伸び、バンッと大きな音をたて壁を叩いた。
少しも予想していなかったものに両肩が一度跳ねて、混乱を残したままゆっくりと背後を確認すれば、その先でヴェルフさんは口角を上げ笑っていた。
俺を逃さないようにか、その両隣を塞ぎながら。
「あの……」
「いいから、いいから……」
ヴェルフさんは壁に付いた手を俺の両肩に掛ける。
俺より背は少し高いが、その両腕は明らかに細い。
それにも関わらず、そこからは想像できない力が肩に伝わり押さえつけられる。
抵抗しようにも何も出来ずに、背負った荷物を壁に引き摺りつつ俺は床に尻をつけて彼を見上げる形になった。
肩への強い力にどうにもできないでいると、彼もしゃがみ込み肩から外した右手で俺の足を雑に伸ばし、そこを跨いで俺へと顔を近づけてきた。
俺は訳も分からずその動きに沿ってしまい、彼と至近距離で見つめ合うことに。
「どうしたんですか……」
「のっぴきならない状況になったというかな」
笑みを絶やさないその口元に牙は出ていないが、その蒼さのあった瞳は今は特別な日の満月のように黄金に輝く。
その間も腕の力が肩に掛かり、今は片手でしか触れられていないというのに、身体を持ち上げようとしても全く歯が立たない。
近い年齢の友人のように話していたけれど、自分が相対していた者は夜に生きる別の存在だったという事を思い知る。
血を吸い生きるだけではない、”鬼”と称される意味を目の当たりにする。
「直はそちらも嫌なんじゃないですか……」
言葉を震わせながら、押し退けようと手を伸ばす。
しかし、まるで硬い金属を相手しているかのように、その身体が動くことは無い。
「四の五の言ってられないんだよ……」
彼は俺の肩に残っていた左手も外す。
しかし、そこが自由になったからと逃げだせる状況ではない。
追い込まれる俺に彼は笑みを見せる。
気怠さもあるその笑顔が今は妖しさを放っていた。
吸血鬼がその本性を現した姿か。
空腹となればなりふり構わずというのは、種族は違えど生物として理解できないわけじゃない。
とはいえ捕食される側にも言い分は当然ある。
「俺は言いたいですけど……」
「そんな気分もいずれ無くなるよ」
「効果が切れたら、その時には何度でも言いましょうかね」
「それなら切らさずにしておこうか。傍にずっと置いておくのも、これもまた一興だよ、助手君。まあ、そう硬くなる必要はないから、身体も気も楽にしてさ……」
何を言っても通じない会話の終わりに、パチンとの音と共にベルトが外された。
そこで脳内に蘇るのは、直で飲む時はそういう行為のついでとの話だ。
しかし、外されたのはズボンのベルトではなく、もう一つ巻いていた物のベルトだった。
それによって床に転がる俺が唯一持つ武器。
目の前の者はそれに目もくれない。
俺も視線を向けないようにしながら、右手をそちらに伸ばす。
上着の裾に上手く隠れていて、それを手にする事は簡単に出来た。
これまで何度も使ってきて、その威力は分かっている。
マスターからは注意を受け、自分でも危険性は知っている。
こんな屋内で使う物ではない。
けれど、これは俺にとってものっぴきならない状況というやつだ。
静かに引き金に手を掛けつつ、腹の上で隠すようにして時を待つ。
「他に方法は無いんですか……」
あくまで弱弱しく懇願するように前を見る。
空いた左手でどうにか押し退けるように力を入れる。
だが、やはり彼は何一つ堪えていない。
又もや怪しい笑みを付けて、自らの右手でその左肩を二、三度揉んでの余裕のアピール。
それ越しにある空間の先は、照明の光が弱まり殆ど見えなくなっていた。
「君だって早く出たいだろう?」
「出たいです、けど……」
この状況を打破できるのは自分のみ。誰に頼る事もできない。
けれども、まだ最後の唯一の武器を出すわけにはいかない。
充填されるまでじっくり待たなければ。
その僅かな時間が何倍にも長く感じ、息継ぎも一つ一つが思わず大きくなる。
「緊張してると、俺もやり難いからさ」
目の前の吸血鬼は宥めるような優しい声を放つ。
輝く瞳に吸い寄せられるように顔を動かし凝視してしまう。
それを意識の外側で冷静に観察する自分も居る。
そいつが「しっかりしろ」と頭の片隅から声を掛ける。
それに反応して目を意識して閉じる。
今やるべき事に集中するために。
「覚悟が決まったってところかな」
ふふっと笑い声を付けて、抱き締めるように背中に手が回された。
左の首筋に熱い息がかかる。
そう、覚悟は決まった。
3……2……1……
最後は頭の中でそう数え、ゼロの合図で俺は右手をスルリと上げた。




