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マスターと助手  作者: 佐久サク
洗眼
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第四話

「ん?」


 そこで視界が滲んだ。

 おかしいな……と先程とは違う意識で瞬きをすると、それに合わせて涙が零れる。

 なんだ、これ……と思うより早く、今度は両目から滝のように涙が出てくる。


「ああ、ごめん!麻酔が切れて普通の反応になっただけだから、はい、これ」


 慌てたマスターの声にそちらを見ようともするが、それをするにも苦しい程の涙が零れて差し出されたタオルだけ手にして目に当てる。

 先程とは違う薬草の香りが漂う厚手のタオルを目に押し当て続けると、涙は更に溢れもする。

 一度どんなことになっているかと確かめる時間すら与えられずドボドボと目の全体から零れ、眼球がこのまま萎んでカラカラになって無くなってしまうのではと思う程の洪水。

 触手からの液体も相当に混ざっているのか、涙というにはトロトロとした重さのあるものが流れ続ける。


「あー……」


 いつまで続くのか、これは何なんだ……との思いがつい小さく声となって出る。

 しかし、それも説明が欲しいわけでもなく、流れ続けるものにだけ意識を向けてただひたすらに時を待つ。


 その内にまるで水道の元栓を閉めたかのように流れる水分が一瞬にして止まった。

 裏側にあった掌まで湿る程にタオルがぐちゃぐちゃに濡れた事を確認しながら、そこから目を離して前を見る。


 その壁際には本棚があり、読まれる頻度は少ない物が収められている。

 とはいっても、いつ出番が来るか分からないと隅々まで掃除をしてあり、今日もその成果がよく見える……というところで気づいた。

 いつもよりも本棚がはっきりと見える事に、世界の明度が上がっている事に。


 その意識を強くしながら部屋をぐるりと見回すと、麻酔による筋肉の弛緩が無くなり涙が流れきってのスッキリ感があるだけでなく、その視界自体が変化していた。

 明らかに視力が上がり煌びやかにも伝わる世界の中で寝台から降りると、片付け作業をするマスターの隣へと移動する。


「窓を開けて良いですか?」

「いいよ」


 軽く返答して再び薬瓶の確認を行うマスターから目線を外して両開きの窓を大きく開ける。

 やはり鮮やかに目に映る快晴の青空に緑の原っぱ、今はそこに生える草の一つ一つも見分けがつきそうだった。

 吹いてくる風も心地良く、このまま眺め続けていたいような清々しい景観。


 そこでふと気づく。

 自分はこの光景を見た事が無いわけではなかった、と。

 ここにやってきて間もない頃、まだ慣れない仕事をしながら外を眺めた時の姿はこうだったはずだ、と。


 思えば田舎から出てきて生活が変わり、マスターの仕事の手伝いで目や手先を細かく使う事が増え、いつの間にか視力が落ちていたのかもしれない。

 と、外の景色を遠く眺めていたが、そこでマスターが片付けの手を止めこちらを気にしている姿に気付いた。


「何かあった?」

「外に何かあったわけじゃないんですけどね、田舎にいる頃のように目がよく見えると思いまして。最後のタオルにはそういう物を染みさせていたんです?」

「いや、あれはそういう薬草じゃないよ。それまでの施術の結果が今しっかりと表れたんじゃないかな。その効果がきちんとあるのはまず分かったとして、他にも感想はどうかな」


 マスターの問いかけに、それでは今回の仕事に最後まできちんと向き合おうと答えを纏める。

 まずはカチンと窓を閉じきって手を離し、何一つ伝え間違えないように間を置いてから、己の仕事に手応えを得ている事が伝わるマスターの顔へ向けて口を開いた。










「上級者用過ぎると思います」

「えー、不合格?」


 きっぱりと結論を伝えた俺に対してマスターは肩を落としての不満顔。


「マスターを信頼しているから任せられましたけど、他だったら無理ですよ、これ。治療院に取り入れるにしても商売として成り立ちますかね。希望者が集まるのか怪しいし、行う方も大変ですって」

「まあ、それを言われると……。僕も遺物相手とも耳相手とも違う神経を使いもしたし、向こうの人達も鍼治療で慣れているとはいっても、そうもいかない事もあるか……」

「それならもう目じゃなくて耳で提案したらどうですか。それだって他と差別化が図れるでしょう」

「それも当初の考えにあったけれど、助手君としてもそちらの方が良いと思うなら、その方がいいかなあ」


 マスターはそう言いながら手にした紐を小さく回したり振りもして、そのまま暫く考え込んだ後にこちらを向いた。

 思いついた!と、その表情を明るいものにして。


「治療院の方はそれでいいとして、今後は”助手君”ではなしに時々やろうか」

「神経を使うのに良いんですか?収穫物もあってもあんな程度じゃ……」

「目の機能がそれだけ回復するというならさ。君は調子が良くなる、道具は役割を得る、僕としても君が元気に居てくれないと事が滞るしね。ほら、まずは複製案を教えたらまた研究所への誘いとか増えそうで、断りの手紙を町まで出しに行ってもらう事も続きそうであるから」

「……でしょうね」


 すぐに思い出される塔での数々の仕事の内の一つ。

 家事やこうして身体を弄られる程度の事はどうってことないが、マスターを勧誘しに訪れるどこそこの研究室やら学校やらの者達にお引き取り願うのは、マスター自身だけではなく俺も疲れると思う事が過去頻発していた。


「一度断ったら諦めてくれればいいのに、何度でも来る人もいるから困ってしまうよ。と、今日はそんな先の事に悩むのは止めて、せっかく身体が以前のように戻ったというのなら、どこかの店で夕食を食べながら昔話でもしようか。そろそろ君が来て1年にはなるし、偶には振り返ってみるのもどうかな?」

「いやー、もう1年と4か月は過ぎてますよ」

「え、そんなに?」

「そうですよ。細かく覚えておく事でもないとは思いますけど、まさか季節が移り替わるレベルで覚えていないとは……」

「ほら、そこは暑い所寒い所、各地を飛び回ってるものだから、どうも意識が薄いもので……。いや~、そんなに経っていたとは、時が過ぎるのは早いねえ」


 弁明の後はしみじみと、あまりにも時間の感覚が緩い事を流石に拙いと思ったのか。固い笑い顔も付けて誤魔化しに入った者の姿を見る。

 そこには、時には遺跡仕事で身体を酷使し忙しくはありながらも、田舎暮らしの頃よりも気持ちはゆったりとして時が流れていくこの日常が、これからも長く続いていく事を願いもする自分があった。





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