第四話-助手:☆
ベッドに伏せたマスターの背に右手を軽く乗せる。
この恰好になる前にも確かめたのだが、それはいつになく硬いとの評価が下せるものだった。
仕事も無くお互い好きな事をして余裕のある暮らしをしていたつもりだったが、どうやらそうではなかった。
マスターはこれを機に溜まっていた本の読破を楽しんでいたようだが、身体には気が回っていなかったのだろう。
俺も休息は十分に取れているのだとして疑わず、こんな事になっているとは思ってもいなかった。
これは助手として失態だったと認めながら問題の解決に進む。
この硬い身体を元に戻すにはただ圧力を掛ければいいものではないと、まずは両手の指先だけを背中の下側に乗せて上に滑らせるように動かす事にした。
しゅるしゅるとシャツの上を滑る指先。
下から上に何度も繰り返して行けば、やがて少し指先が身体に沈むようにもなる。
随分と解れたと言える状態であったが、ここではまだ指で揉み込む事はしない。
今度は掌の下側を使って軽く背中へと押し当てる。
ここでも力は入れ過ぎないように手元は優しく、一方で意識は一心に目の前の背中にのみ集中する。
長らく繰り返されたその動きによりマスターの背中は確実に柔らかくなり、この手を深く受け止めるようになってきた。
そろそろ次の段階に移るかと考えは変わりながら手は休まず動いていたが、下方からのピクッと背中が上がる動作とマスターの「ふふっ」との小さな笑い声に一旦それを止める。
そのすぐ後には背後からヒイナから「足を擽ってしまったか」との謝罪の声が届いた。
なんだ、そのせいか……とその反応に納得したが、マスターが動いたのはそれは関係なかったようだ。
この二人掛かりで処置される状態が贅沢なものだと、つい愉快になったとの事。
それもまた納得いくな……と感じていると、ヒイナが「自分もそうだった」と言い出した。
その言葉に俺にも鮮明に浮かぶ思い出。
とある山間の町で仕事をして、すぐには帰らずのんびりしようと山歩きを計画し出掛けた。
奥には温泉が湧き出すとの山を進めば辺り一面の霧。
こんな霧の中を進むのも大変だと後戻りする事も考えていたその時、ゴツンと大きな音がした。
音を頼りに霧を突き進むとそこにあったのは丸く作られた温泉。
その中に沈んだ水着姿の一人の女性。
これは大変だと彼女を湯の中から担ぎ上げ近くの広場に建てた持ち運び小屋へと運んだ。
そうして救いだした雪女のヒイナ。
冷え性でこれから山を下りるのも辛そうだった彼女を俺とマスターとで温めていった。
その事をヒイナが懐かしそうに語り、今のこの時にお返しをしようとやる気を発揮する。
それには俺も乗り気となって再度マスターの事へと集中する。
今度は身体に今も固く存在するコリに親指を当て集中的に崩して行く。
ここでも事態の解決を急ぐ事はせず、意地になって力を込める事はしない。
知らず知らず少しずつ溜まってしまった疲れの山を、今度は身体に負担が無いように順番に外側からほろほろと崩すような意識で進める。
ヒイナの言うように、あれから色々な事があった。
あの時は俺もこうした事にまだ手慣れてはおらず、緊張した面は今よりも強かった。
この足で数々の地域へと踏み入れ、多くの種族と知り合い、世界各地の身体の癒し方の知識も沢山身につけた。
今日も行ったまずはゆっくりと相手の身体に触れる術も、そうした道程の中で得たものだ。
人蜘蛛族による油を使った解し方。
彼女達は油を利用する事で作業の負担を軽くしていたが、俺ならばこの手の力だけでも行けるだろう。
そうして小さな手が背を滑って行った時の感覚を思い浮かべながら、それに倣うように手先を腰から首までと動かして行く。
肩をぐっと掴むようにして振り返るのは岩山の洞窟で仕事をした時の事だ。
その周辺に住む巨人族の者達。
俺が上に手を挙げても届かない程の長身で分厚い肉体を持つ者達。
仕事終わりに疲れを訴えると、その大きな手で身体を揉まれていった。
当然強い力を持つその身体、けれどもその動きは細やかなもの。
肩を掴まれゆっくりと回されると、最初は緊張していた身体も疲労の塊ごと直ぐにも柔らかくなっていった。
あれ程の力は俺には無いが、その時の事を深く思い出しながら出来る限りのこの手を大きく使うようにしてマスターの肩も回していく。
マスターが身体を解す中でも特に好むのは腰。
全体が柔らかくなってからの方がマスターとしても嬉しかろうと後に取っておいた。
ここで使うのは二の腕だ。
それをリザード族の尻尾の代わりに腰へと当てる。
ヒイナの働きもあって、今はもう身体はポカポカと熱を持ち固い部分は殆ど無い。
これが仕上げだと、この部分には力強く腕を押し当て動かして行けば、マスターの口からは「は~」と心地良さが強く伝わる息が吐き出され、それを聞きながらこの腰を解し尽くすように腕をぐいぐいと更に深くへと沈めていった。
◇
気が付けばマスターの身体からは力が抜けきり、ベッドに沈み込むかのようになっていた。
一目見て分かる熟睡具合、無防備に蕩け切ったと言える姿が眼下にとあった。
これで作業の全ては終わったけれど、このまま暫くは寝てもらう方が身体に良いだろうと衝撃を与えないようにしてベッドから下りる。
ヒイナもマスターのその様子には気づいたようで二人でベッドの脇にと移動する。
この結果はもちろん俺の力だけによるものではなく、多くを担ってくれたヒイナにとそこで感謝の言葉を告げる。
彼女はよく知った照れと嬉しさを表情に出した次には、「今後は一緒に身体を鍛えるといい」との応援の言葉を告げてきた。
それは良い提案だとして受け止める横でヒイナは続ける。
「でも、こうして一度ゆっくり休んだからまた先に進める。これも必要な時間だったって分かってもいるんだろ?」
唐突な言葉であり芯を突いたと言える言葉に返すものが出ずにいると、ヒイナはこちらの反応は気にしないようにして更に話していく。
変わり者と言われるマスターだけれど、いつも誰かのためにと動いてくれる。
その姿が知り合いの雪女の娘と似ているようだった、と。
今この時に何か深く思う事があり、それを自覚し荷を下ろしゆっくり休む事で、また前を向く場を整えもしたのだろうとヒイナは見ていたようだった。
その言葉を受け止めて俺に浮かぶもの。
ヒイナは全てを見通したわけではないが、マスターの変化を感じ取っていたようだ。
俺もそれは分かっていた。
その身に抱えた真実を俺が知ってから、マスターは少し変わったように思っていた。
仕草や言動の何かがと詳細は何一つ言えなかったが、ヒイナの言うようにそれは背負っていた荷物を下ろしたと言えるものだったように思う。
「鋭いっしょ」
今ではもう数か月前の事になるマスターとの出来事を思い出す俺の前でヒイナは胸を張る。
「どうだ、褒めるが良い」との付き合い慣れた姿が隣にあった。
いつもは呆れ半分にも返すものだが、今日はそれに深く頷く。
そうすれば彼女も納得したようで、その詳細を聞きたい様子は見せなかった。
「ああ、鋭い。……ヒイナがいてくれて良かったよ。本当、ありがとうな」
その感謝の言葉の一つ一つをはっきりとさせて伝えると、先程まではこちらを向いていた視線が恥ずかしそうにそっと外される。
褒めそやして欲しい割に、実際に褒められるとまるで慣れていない姿を見せるのもいつもの事。
そんな表情を見るのは嫌いではなく、むしろ今日は見ておくかと積極的にも褒める事もある。
「そんなに褒めても何も出ないけど……」と、過去のいつよりも顔を赤らめていくヒイナ。
その彼女への礼は今日この日だけに向けての改めてのものには収まらなかった。
俺にとってもマスターにとっても、彼女のような者が近くにいてくれて良かったとの心よりの思いだ。
ヒイナはマスターの事情を何か知っているわけでは無いだろう。
どこかで噂の一つでも聞いて確かめに来たようでもない。
ここにいるマスターを見て、それだけのものを鋭く感じ取っていた。
その姿を見て俺にと浮かぶのはユーリ君の事だった。
彼はマスターが誰かの前で異変を見せてしまったあの日に俺と共に居た。
俺とは違い真実を知る事もなく家に帰す事になったけれど、気にかかってはいたようで数日の後にはまた塔へとやってきていた。
俺は同席しなかった場でマスターと話し合っていた彼。
その帰り際には俺とも話したが、好奇心の強い彼ではあっても俺から何かを聞き出そうとの様子は無かった。
「オレもそうですけど、先生にも色々あるのだと思います」
そう語ったユーリ君からはマスターが事実を伝えた様子は受け取れなかった。
けれど、俺とは違い魔力の変化も感じ取れる彼は真実の一端に触れた様に俺には伝わった。
マスターの持つ膨大な魔力、それに気づいたのではないのかと。
彼ならばそれが何を意味するのかと、その先の多く事に考えを巡らせたのかもしれないとも。
「オレはそんな先生が好きですし、これからもお邪魔させてもらう事になりますけど、よろしくお願いします」
ユーリ君が何に触れるのか、真実を隠すためにはどうすればいいか。
そう構えていた俺にと彼から発せられたのは、そんな笑顔での言葉だった。
それは彼はやはり何かに気付いたのだと確信を得るに十分なやりとり。
けれど、それ以上は語らない彼の顔が「それを知る必要はない」と言っているように聞こえて、また一歩大人びた様に感じもしながら、俺も彼に「こちらこそ今後ともよろしく」と伝えるに終わった。
その後の彼は勉強に打ち込み、今は無事に合格した大学の日々忙しい暮らしの便りを時々にここへと届けに来る。
ヒイナもユーリ君もマスターの内に潜む物を今後も見る事はないだろう。
それを望む事もなく、仮に知ったとしてもこの塔に来る事を止めない二人の姿は簡単に浮かびもする。
だからといって俺からこの真実を伝えるつもりはなく、俺もこの胸にある真実の扉を固く閉じたままに思う。
俺はマスターの真実に触れはしたが、マスターが抱え続けるものには何一つ変わりは無い。
これからも何度でもその左手の封印は身体と心を縛り付けて行く。
だが、多くを知らずともマスターという人物を支える者達がいる。
その中にある何かに気付いても、それでいいと認める者達がいる。
俺とマスターとの間には多少の変化が訪れたが、後は何も変わらずこの日常は続いていく。
だから、心配は要らないですよ。
ヒイナと気軽に今後の予定を立て合いながら、ベッドで静かに眠るマスターの姿を一度ちらりと見てそう向けると、「自慢の郷土料理を作るんだ」と張り切った様子で廊下に出て行くヒイナを追って俺も静かに部屋を後にした。
終




