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マスターと助手  作者: 佐久サク
燃え盛る想いの果て
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第三話

 その翌日は更に身体も元に戻りつつあり行動の範囲を広げる。

 畑の珍しい野菜を見せてもらいながら各地から集まった人々の生活を眺めると、彼らの穏やかな表情はこちらの心までが安らぐようだった。

 その後は敷地の奥へ進んでみれば、木々の間の道の先に小屋が建っているのが見えた。

 他に建てられていた物置小屋とは違う雰囲気の小屋について丁度通りかかった人に話を聞くと、それはリンゼさんの寝所となっているそうで、それならば近付かない方がいいだろうと引き返した。


 そうして歩き回り程良く疲れた体で夕食を取っての後、就寝前の包帯の張替えにリンゼさんがやってきた。

 包帯を外してもらうと、金属の歯によりかなり抉られていた傷口にはしっかりと瘡蓋が出来、身体は順調に回復しているようだった。


「この様子ですと後何日かで痛みも引くでしょう。ところでこの辺りにはご旅行で参られたとの事ですが、いつ頃までのご予定だったのでしょう」

「二日後までいるつもりでした」


 明日にヒイナが麓の町に戻る予定で、だからとすぐに互いの住居のある町には戻らず一日分の余裕をとっていた。


「そうなりますと、明後日には町に着くようにしてもらいたいとの事ですね」

「そうしていただけると助かります。何から何までお世話になって申し訳ありませんが……」

「構いませんわ。けれど……」


 と、俺の無事な右足の先にリンゼさんの手が添えられる。

 そのままその手はするりと俺の膝や太腿へと上がってきて、それと共に彼女の身体が俺へと近づく。

 突然の行動に身動きの取れない身体のその至近距離に。

 足を這っていた手はいつの間にか胸元にまで到達し、彼女の顔が俺の目の前にまでやってきた。


「私としては、もっと居ていただきたくもありますけれど……」

「えっ……」


 続いた言葉に更に身体を固めてもしまう俺の目に映るリンゼさんの顔。

 落ち着いた年上女性の色香が染み渡ってくる。

 目を逸らしたい気持ちはあるけれど、意に反して俺の視線は彼女の瞳をまっすぐに見つめてしまう。


「そう、貴方にはここに居てもらいたいと……」

「ここに……」


 リンゼさんに間近に来られて、その香りと体温に俺の頭はのぼせたかのように働きが悪くなる。

 彼女の言葉が脳内で繰り返し響き渡る。

 ここに居て欲しい。

 この集落で暮らして欲しいというのか。

 確かに良い場所で、この世の幸せがあると言える。

 魅力的な空間ではある。

 けれど、しかし、だ。 

  

「あ、あの、これは、困ります……」


 リンゼさんの熱に当てられてぼんやりとした意識から、ようやく呟くように出た言葉。

 それに反応してリンゼさんは俺の傍から離れた。


「すいません。困らせるつもりはなかったのですが……。症状を見るに完治するまで過ごしていただける方がこちらも安心でしたけど、そうはいきませんよね」

「え、あ、はい……」

「貴方の望みは分かりましたわ。では、明後日には帰る事が出来るように薬もより早く回復できるような物を用意しましょう」

「あ、ありがとうございます……」


 そうしてリンゼさんは立ち上がり部屋を出て行った。

 最後の最後まで落ち着かない気持ちを抱えたままの俺を残して。

 彼女の姿が見えなくなった後も先程の事が俺の中でぐるぐると回り続ける。

 

 あれは何だったんだ。

 リンゼさんが最後に言ったように、完治まで居た方が良いとの慎重な見方だった?

 いや、そんな話ではないだろう。

 その言葉だけならともかく、その前の行動に理由が付かない。

 俺だって何も知らない子供ではない。

 あの行動は明らかに誘って来たものだ。

 まさか、もしや、集落の他の人達もこんな風に彼女に言い寄られて、ここに居る事に……。

 そこへと浮かぶのはここで暮らす者の様子。

 そこにリンゼさんとの深い関係を伺わせるものはない。

 彼らの表情はそう思わせるに十分なものだった。

 だとしたら、俺だけがそうされたって事か……?


 いや、それも無いだろう。 

 俺の何が気に留められたというんだ。

 出会ったばかりの女性にいきなり迫られるような経験など過去に一度も無い。

 そんな事が起こる男じゃない事は自分が最も分かっている。

 きっと彼女はただ親切に世話をしてくれただけなんだ。

 さっきの言葉は気になるが、そんなつもりだと思うこちらが間違っているはずだ。


 そこで何度も首を振る。

 一体何を考えていると己を叱咤するようにして何度も何度も。

 けれども身体の熱さは収まらず、先程近づいてきた彼女の香りが今もそこにあるように感じて、身体の内側にドクドクと流れる血の勢いを自覚する。

 

 違う、駄目だ。

 こんな事をしている場合じゃないだろう。

 出来る限りの否定の言葉を繰り広げて行くが、その一方で俺の意識にリンゼさんの顔が入り込む。

 あの瞳、あの唇。

 もう一度近くで見てみたいような、今度はこちらから傍に寄せてみたいような……。

 そうして、彼女と他の人達と共に暮らす日々、リンゼさんの元で何の悩みもない……。

 彼らの幸せそうな顔は今もはっきりと浮かぶ。

 その中に俺が入っての和やかな生活の想像も無限に広がる。

 全てを投げうって彼女と共に、それも悪くないものか……。

 

 そう考えを続けて行く顔は自然と綻んでいる。

 集落での暮らしを想うだけで身体が温かくなり、幸福感が自分を満たしていくのを感じる。

 

 だが、そこに歯止めを掛けるものもある。

 ここに居る事を決めたら他に何をするべきか。

 これまでの生活に別れを告げる事になる。

 今の暮らしも遠出したり忙しいながらも、時々にこうした長い休暇もあって恵まれた生活をしている。

 俺は十分に幸せであるはずだ。

 それと引き換えにしてまで、この集落での暮らしはどうしても手に入れたいものなのか。

 

 その問いには意識せず首を横に一度大きく振っていた。

 思えばこれは旅行では偶にある事だ。

 好ましい場所に足踏みいれた時に「ここにずっといてもいい」、そんな感想を抱く事。

 今回もそうしたものに違いない。 

 一時的に訪れただけの場所なのだから帰らないといけない。

 ヒイナを長く待たせるわけにもいかないじゃないか。


 自然と回り続けた思考がそこまで辿り着いた時、意識がハッと目覚めたかのようになる。

 鈍くもなっていた頭の中の霧が晴れて、身体全体に現実感という物が戻ってきていた。

 そうだ、俺はヒイナと二人で旅行として来たんだ。

 俺は何を変に考えを巡らせているのだろう。

 宿に戻って、ヒイナと合流して、二人で帰る。

 俺がやるべき事はそれだけじゃないか。


 先程まで妙な興奮に苛まれていた身体が急にも落ち着いてきた。

 更に一度二度と深呼吸をすると、頭は冷静さを取り戻す。

 ほんの少し前までの自分を馬鹿だなと蔑む事が出来る程に。

 

 その中でも未だ思い浮かんでくるのはリンゼさんの意外な行動だ。

 あれは本気だったのか、俺をからかっただけなのか、それは全く分からない。

 ただ今はこれ以上ここにいてはいけない気が湧いて来る。

 彼女を見てしまう分だけ意識してしまう気がする。

 あまり長く世話になるものでもないし、早くに戻った方がヒイナに心配を掛けずに済む。

 明日には町へと降りよう。

 そう最後に決めて、今日の事はこれ以上は考えないようにと俺は眠りにつくことにした。


 



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