第一話
国の中心部からは外れた町のその外れ、広場に一つの石造りの塔が建つ。
そこにはかつて栄えた文明の遺跡発掘において有名な若き偉大な魔導士が住んでいる……。
その塔にある第二研究室の窓際に備えられた机の前。
背もたれも無い簡素な木製椅子に座っている俺の視線の先。
その魔導士は特に気合が入っている時に着ける薄灰色のローブを纏ってウキウキと、まるで遊び場に出かける前の子供のようにあれやこれやと準備をしているのだった。
「あ、助手君はそのまま気を楽にしてくれていて良いからね」
「分かってますよ~」
いつもは名前で呼ばれるが、今からは仕事だからと”助手君”と呼ばれる俺は、背後の机を背もたれ代わりにしてその様子を眺める。
この雇い主、俺が呼ぶところの”マスター”の下に来て一年ほど。
賃金は高くはないが、炊事・洗濯・掃除を主として行うだけで食住に困らないというのは、何の学も技術も持たず田舎から都会に出てきた自分にとって、とても恵まれた職場というものだった。
この偉大な魔導士は変わり者としても有名であり、俺も傍に居る事でそれは疑いようがなかった。
しかし、付き合い難い人間でもなく嫌な人間でもなく、それでは何がそうも変わり者かと言えば、この魔導士は何よりも掃除が好き、特定の掃除が大好きだった。
学生時代に専攻していた学問とはかけ離れた、その能力を活かせる各所からの誘いを断り続けもして危険が伴う遺跡発掘の場に身を置く理由は、”掃除が存分にできるから”だそうで。
砂の奥底に埋もれた遺跡を綺麗にしている時、古代遺物を隅々まで磨き再び稼働させた時、それを何よりも楽しいと受け取る人物だった。
研究室で遺物の汚れを取り去る細かい作業をして疲れたのならば、休憩に塔の外壁の溝掃除をして気分転換を図るほどの、掃除のために生きているような存在だった。
そのくせ読んだ本は散らかしっぱなし食器の片づけは面倒と、綺麗にするのが好きでも自ら手を動かしたいのはその一部という事で、苦手な分野を任せる相手として雇われたのが俺だ。
そんな興味の持つ部分が極端なこのマスターは、「見えない場所から見つかる」「綺麗にする事で機能を取り戻す」と、この二つの条件が揃った事には目が無く、それは古代遺物だけでなく生物にも興味が向けられる。
その場合にこの人物が特に注目するのは耳で、この偉大な魔導士は耳掃除が好き過ぎるわけで、俺は試用期間での仕事への評価だけでなく、その代謝の良さにより耳掃除のやりがいがあるとの理由でめでたく正式採用になったのだった。
と、数日前にもしっかりと掃除されて、いくら代謝が良くても取る物は無い俺の耳は出番ではない。
今日の相手はマスターの酒飲み仲間で、長年近くの中規模都市の役所で働いているカーム氏だった。
先祖にあたる北方に住む種族の血が色濃く出て、岩肌のようなゴツゴツとした皮膚と大きな体を持っていて、その身体の作りのおかげで寒さ暑さの温度については強くはあるが、皮膚の感触には鈍いものがあるという。
そして、ある日に音が遠くなった事に気づき、まずは医者に診てもらっての結果、耳の中に砂やら垢やら、これまでの生活の跡が詰まりに詰まっているとは分かったものの、解決には至らなかったそうだった。
なんでも耳の皮膚もゴツゴツとしているために汚れと皮膚との境目が判別し難く、感触が鈍いというのはその部分にも強く存在し、痛みへの強さはむしろ難点になってしまうとの事。
これを問題なく対処するならば中央街でも一番の病院に行く必要があり、それには「耳は気になるが、そこまでする程には足が向かない……」とカーム氏が雑談の中で漏らしたところ、マスターの行動はただ一つだった。
今日の日付にそうする事が決まったと俺に伝えてきた時の喜び様もまた激しいもので、この人へと憧れの眼を向ける魔術学校の生徒達には見せられねえな……と眺めていた俺に、マスターは助手としての手伝いを頼んできた。
その仕事とは、結界を張った部屋で魔力の籠った椅子に座りながら、自分に訪れるも刺激を説明する事。
この日のために編み出された”感覚の共有を行う魔術"を行使し、カーム氏の皮膚に伝わる圧力を俺にも移す事で汚れの場所を判別して欲しいとの事だった。
それには「大袈裟な装置まで使って行う事がこれとは贅沢な……」との感想がまずありつつも、人助けになるものは歓迎で、その頼みはすぐに引き受けた。