鰯の群れまたは人生について
水族館の鰯の水槽の前には、私一人しかいませんでした。
鰯はぐるぐると時計回りに群れをなして回っていました。
「冷蔵庫の上のリンスとシャンプーのボトルを誰かに見られるような生活はもうしたくないの」
「そんなものを覗きにくるような人っているの?」
「覗くんじゃなくって、そこにあるから、ただ見るの」
「家の中まで入ってくるってこと?」
「わざわざ入ってくるわけじゃなくて、ただ眼に付くだけ」
「変わった生活をしていたんだね」
「普通だよ」
「僕の友達に、あぶらが止まらなくなった女の子がいるんだ」
「意味がよく分からない」
「あぶらとり紙をひっきりなしに使うんだ。一日中パタパタ、パタパタ」
「顔のあぶらが異常に出るってこと?」
「さぁ、よく分からないけど。とにかくチェーンスモーカーのようにあぶらとり紙を使うんだ」
「それは何かの教訓?」
「そういうわけではないよ」
「女の子はなんて言ってたの?」
「ただ、あぶらを取り続けてただけ」
私は鰯の群れをじっと見つめていました。
鰯の群れは止まることなく、ぐるぐると時計回りに群れをなして回っています。
「私、右を向いて眠れないの」
「どうして?」
「そういう決まりなの」
「いろんなルールがあるんだね」
「そうだね」
「うたた寝をするときは?」
「右は向けないの」
「厳しいルールなんだね」
「そんなことないよ。ただ、右を向けないだけなの」
「辛くないの?」
「そういう決まりだから」
水の中に、美しい太陽の光が入ってくるのを、水の中から見つめるのが私は好きです。
全身が光に包み込まれて、地上がゆらゆらと見えます。
太陽の光のない、水族館の鰯の群れは、何も見ることなく、ぐるぐると時計回りに群れをなして回っています。
となりに歩いている人は足の悪い人でした。
その人は、下を向いて歩いていました。
きっと、何かに躓くと危ないから。
本当は前を向いて歩いた方が、うまく歩けるはずなのです。
でも、足元を見ていた方が安心出来るのでしょう。
私は合わせるように、ゆっくり歩きました。
鰯の群れは、ぐるぐると時計回りに、延々と止まることなく回り続けています。
私は毎日たくさん歩きました。
歩けないときは歩かない。
歩けるときだけ歩く。
私には分かります。
私は毎日休みませんでした。
大丈夫ですかって聞かれました。
今は大丈夫です。
もう一度大丈夫ですかって聞かれました。
たぶん、大丈夫です。
もう一度大丈夫ですかって聞かれました。
きっと、大丈夫です。
たぶん、大丈夫じゃないときは、自分からダメですって言うと思います。
水族館の鰯の水槽の前には、私一人しかいません。
鰯の群れは、泳ぎ続けています。
歩けなくなった私は、歩くことをやめました。