song3〜始まりのとき
ライブハウス「deep mist」の窓からは、夕焼けとともに、針のように細い三日月が見えた。
3日ほど前、天川有希という女性が訪れてきた。自分はレコード会社の者で、noomのライブを視察したいとのことだった。
俺はライブハウスのオーナーとして対応したが、正直複雑な心境だった。聴いてほしいような、見てもらいたくないような、そしてどこまで話そうか。
結局、出会ったときのことは正直に話した。駅前でライブをしていたのを俺が見つけたこと、他のバンドのオープニングアクトでデビューさせたこと、その日がたまたま新月で、そこからnoomのライブは始まった、と。
彼女は新月の夜にしかライブをやらない理由と、普段の二人についてしつこく聞いてきたが、そこはうまくごまかすことにした。それがnoomの二人のためだからだ。
あれから10ヶ月ーー忘れもしない、二人がこの「deep mist」でデビューしたときの衝撃は。
俺がたまたま駅前で二人を見かけた日は、満月がきれいに見えた夜だったのを覚えている。
彼らは人前でライブをするのは初めてだったという。たしかに緊張している感はあったし、粗削りなところがあった。ただ彼らは伸びる、音を聴いてそう直感した。
聞いてみると、二人は大学生だという。ボーカルの女性は川瀬沙夜、ギターの男性は青木霧人という名前らしい。
俺がライブハウスのオーナーで、ステージに立ってみないかと誘うと、彼らは驚いた。無理はない。
だが彼らにとってもまたとないチャンスだと思ったのだろう。オリジナル曲は少ないからすぐには出来ないと言った。
そこで二週間後、まずはオープニングアクトとして一曲だけの披露を持ちかけた。また、二人にはまだバンド名がなかったらしく、当日までに考えてくれるよう、お願いした。
二人が初めてステージに立つその日は、特に霧が濃い夜だった。ライブ前の打ち合わせのとき、沙夜が口を開いた。
「そうだ有明さん。バンド名、考えてきました」
「そうだったな。で、どんな名前でデビューするんだ?」
「『noom』です」
「ノーム?」
霧人がそばにあったパンフレットに「moon」「noom」と書き、説明を始めた。
「今日は月が出ない、新月らしいんです。一般の月のイメージとは真逆だから、逆さに並べてみました。こういう記念日って大切にしたい性格なんで」
さらに霧人は「濃霧」と書き加えた。
「あとは濃霧という意味。それはここ豊霧市で活動したいってことと、ここ『deep mist』にこれからお世話になると思うので、有明さんへの感謝の気持ちも込めて」
俺は「moon」「noom」「濃霧」と書かれた文字を見つめていた。
月の無い夜に、霧が立ちこめるこの街で、か…
「いいだろう。それじゃあ、君たちは今夜から『noom』だ。さぁ君たちの初ステージだ」
そして彼らは、ステージではSAYOとKIRITOと名乗り、素晴らしい演奏をした。
二週間前に駅前で聴いた粗削りなところはなく、洗練され、繊細ながら圧倒的な存在感をもっていた。
観客はもちろん彼らの音楽を初めて聴いたはずだ。だがその音色に、誰もが魅入られていた。演奏後の拍手は、俺がこれまで聞いたどの拍手よりも大きいものだった。その後で演奏したメインの方がすっかり霞んでしまったほどだった。
二週間の間に何かきっかけとなることがあったのかもしれない。だがそんなことはどうでもいい。これから彼らをどう支援していくか、それを考えていた。
彼らは間違いなくプロの世界でも通用する。こんな小さな街の評判で終わらせたくはなかった。
ところがライブ終了後、二人からは意外な要望を聞かされた。
「新月の夜にだけライブをしたい?」
どういう意味なのか、すぐには理解できなかった。だが、本当に文字通りの意味らしい。
「わがままなのはわかってます。他のバンドのスケジュールもあるでしょうし……でも、どうしてもお願いしたいんです」
霧人が頭を下げる。
俺は頭をかかえた。ライブハウスのスケジュールなんてどうにでもなる。
問題は彼らの要望だ。新月の夜にだけ、ここでライブをしたい、それ以外の日、ここ以外の場所ではいっさいライブをしない……どういうつもりだ。
俺は思い切って、自分の考えを述べた。
「正直に言おう。君たちにはプロとして活躍してもらいたいと思ってるし、その実力もあると思ってる。CDを出して、ゆくゆくはもっと大きいステージでライブが出来るように協力するつもりなんだ」
沙夜は申し訳なさそうに言った。
「すいません、でも、えっと……事情があるんです」
「事情?」
「何て言っていいのか、その……」
霧人が割って入った。
「事情はそのうち有明さんの耳に入ると思います。でも、次の新月の夜には必ず来ます。なので、ライブの予定をいれておいて下さい!」
なんだかよく分からないが、とりあえずライブをやってもらえるならそれでもいいと思った。経験を積んでから説得する、そういう可能性も考えていた。
その翌日、俺はその「事情」を知った。
どうすればいいものか、それこそ本当に頭をかかえてしまった。こんなこと初めてだったからだ。
だが次の新月の夜、2人は確かに来た。そして、素晴らしいライブをした。
俺は決めた。それがnoomの願いならば、叶えるのが俺の役目だ。彼らの邪魔は誰にもさせない、と。
この前来たレコード会社の天川という女性はなんとか諦めてくれたようだが、気になることが一つある。
……本当に撮影してないのだろうか。
撮影は禁止だと念を押したが、相手はレコード会社の人間だ。会社に帰って他の人に聴かせることもあるだろう。
もし撮影していたら……noomの秘密がばれてしまう。そうなったら、noomは二度とここでライブができなくなってしまう。
そのとき、ドアをノックする音が響き、男が入ってきた。
「有明さん、こんにちわ。朝倉です」
面倒なことがもう一つあった。「今日はどっちだ。ライブの打ち合わせか?それとも取材か?」
朝倉はおどけながら言った。「今日は出版社の人間として来ましたよ」
面倒だ。窓から外を見ると、三日月は建物の陰に隠れようとしていた。