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何人も立ち入れぬ森がある。
ユグドラシル樹海。
森全体が大樹の乙女の結界であり、人はその森の姿を目に映すことさえできない。
そんな神秘の森の中心に、一本の巨木がある。
世界樹だ。
天を支える柱のように立つ世界樹の幹からは、幾千もの枝が生えている。
そのうちの一本、枝回り三十メートルはある大枝の上に、一軒の小屋が建っていた。
小屋は苔むしていて、半ば世界樹と同化している。
小屋の前のスペースはバルコニーのように設えられていて、そこで一脚のロッキングチェアが揺れていた。
ロッキングチェアに体を埋めているのはエルフの少年――リィンだ。
木漏れ日の下で微睡んでいたリィンだったが、ふいに薄目を開けて懐を探り始めた。
そしてやっと見つけ出したのは、拳大の巻き貝の殻。リィンは貝殻を耳に押し当て、何やら話し始めた。
「はい、こちらダンジョン工務店。あ、ご無沙汰しております。……はい、罠の再設置ですね。いつ頃お伺いしましょうか。……すぐにでも?わかりました、急ぎ向かいます。……いえいえ!では、のちほど」
リィンは耳に当てていた貝殻をこつんと叩き、再び懐に入れた。
「へー、こんなとこ住んでるんだ」
リィンが背もたれの横から後ろを覗くと、ドワーフの少女――ポポンが歩いてきていた。
起きたばかりのようで、毛量の多い赤毛があちらこちらへと跳ねている。
「悪くないだろう?」
「ん。ちょっとしたペントハウスみたい」
ポポンはときおりあくびしながら、あちこちを覗く。
「眠れたか?」
「ちーっとも。樹の上って落ち着かなくて。地面の下ならよく眠れるんだけどなぁ」
「だろうな」
リィンはひじ掛けに手をかけ、ロッキングチェアから立ち上がった。
そして親指と人差し指で輪っかを作り、口に咥える。
リィンが息を吹き込むと、ピィーッと甲高い音が枝葉を抜けて空へと響いた。
「ん?何事?」
「依頼が来た。お前の初仕事だな」
「へー、そうなんだ」
「寝不足ならやめとくか?」
「まっさか!やる気でカバーするよ!」
「そうか」
そのとき、激しい風が枝葉を揺らした。
風を起こした犯人が、二人の前に姿を現す。
「ク、クリーチャー!?」
ポポンが数歩、後ずさりする。
それは馬の体から大鷲の頭と翼が生えた怪物だった。
「ヒッポグリフだ。仕事の移動はこいつを使う」
「……もしかして、私も乗るの?」
「やっぱり寝ておくか?」
ポポンは一瞬たじろいだが、すぐにぶんぶんと頭を横に振った。
「なら、これを着ろ。上空は冷えるからな」
リィンから受け取った上着をポポンが広げる。
それは背中に大きく『ダン工』と書かれた防寒着だった。
「……ダサい」
「行くぞ、後ろに乗れ」
「え、もう!?ちょっと待って……うう、暴れないよね?よっ、と……」
「出発!」
「うえ?まだ!まだちゃんとまたがって――うっきゃあああぁぁぁ……」
ポポンの悲鳴を撒き散らしながら、ヒッポグリフは大空へと舞い上がっていた。
◇ ◇ ◇
三時間ばかりの空の旅を終えた二人は、岩壁の前に立っていた。
湿り気のある岩壁には植物が生い茂り、その茂みに隠れるように洞窟がある。
「――あ、モッカピンショーさんですか?……はい、到着しました。再設置しながらそちらへ……ええ、はい。では、今から入ります」
リィンが耳から貝殻を話し、ポポンを見下ろす。
彼女は地面に四つん這いになって、呻いていた。
「うええ……ぎもぢわるい」
「吐くなら向こうで吐けよ?ここは客の家の玄関先なんだから」
「吐かないもん。……ここ、ダンジョンの入り口?」
「〈ラライ銀山第14号坑道跡〉。今回の依頼主、モッカピンショーさんの所有するダンジョンだ」
「所有って、もしかして」
「モッカピンショーさんは迷宮運営者。いわゆるダンジョンマスターだ」
「ええー!工務店の仕事って、ダンジョンのボスクリーチャーが依頼主なの!?」
「そりゃあダンジョン工務店だからな。それに運営者がクリーチャーとは限らない。人の運営者もいる」
「うそ!?じゃあ、そのモッカなんとかさんも人間?」
「いや、モッカピンショーさんは邪眼トカゲだ」
「やっぱクリーチャーじゃん……」
「依頼主の種族は仕事には関係ない。行くぞ」
「う~、待ってよう。まだヒッポ酔い治ってないんだから……」
――ラライ銀山。
「この山を手に入れた者は世界を統べる」
ときの権力者にそう言わしめるほどの産出量を誇った銀山である。
今では鉱脈は涸れ果て、銀山を縦横に走る坑道群が残るのみ。
そんな坑道にクリーチャーが住み着き、ダンジョンと化したのが〈ラライ銀山第14号坑道跡〉である。
「ねえねえ」
ポポンが問いかけると、リィンは振り返りもせず答えた。
「なんだ?」
「さっきのって、魔道具?」
「あん?」
「ほら、耳に当ててたやつ」
「ああ、これか」
リィンは懐から貝殻を取り出した。
「これは〈風鳴りの貝殻〉。運営者と遠話ができる魔道具だ」
「高価そうだね」
「ま、それなりにする」
「ふ~ん」
(魔道具持ってるってことは、ダンジョン工務店って儲かるのね。迷宮運営者ってお金持ちなのかな?)
ポポンがそんなことを考えている間にも、リィンは軽い足取りでダンジョンを進んでいく。
周りの様子を確認することなく、まるで散策しているような雰囲気だ。
「ちょっと。ちょっと待って、リィン」
「なんだ?早くついてこい」
「リィンが急ぎすぎなの!ここはダンジョンでしょ?もっと慎重に行こうよ」
「そんな冒険者みたいにチンタラやってられるか」
「罠を踏んじゃうかもよ?あの角からクリーチャー出てくるかも!」
「問題ない」
「はー、そうですか」
(問題大アリでしょ!)
ポポンは頬を膨らませながらも、黙ってリィンの後に続く。
そして無言で歩くこと二時間。
ポポンの心配とは裏腹に、何事もなくダンジョンの中層まで到達してしまった。
「この辺りだな」
リィンが久方ぶりに足を止めた。
「今回の依頼は罠の再設置だ。このルートに冒険者が入り込んで、いくつか罠が駄目になったらしい」
「ふむふむ。あ、罠の跡があるね」
「ああ。そういうところに新たに罠を仕掛けていく。お前は初めてだから、後ろで見てろ」
「……はーい、先輩」
しゃがみ込み、罠を仕掛けるリィン。
ポポンは後ろ手を組み、退屈そうにその様子を眺めていた。
「……あっ」
ポポンの目が、あるものを捉えた。
冒険者なら誰もが望み、求めるもの。
ダンジョンには不可欠のもの。
それは、宝箱だった。
「リィン、宝箱見つけた!開けてくるね!」
「待てっ!」
リィンに手首を掴まれ、ポポンは立ち止まった。
「どうしたの、リィン?宝箱だよ?すぐに開けなきゃ……」
「お前は――」
リィンは立ち上がり、ポポンの鼻を強くつついた。
「バ!」「うにっ!?」
「カ!」「ひゅっ!?」
「か!?」「ふげっ!?」
ポポンは鼻を押さえてうずくまった。
「もう!なにすんのよっ!」
「顧客の家で盗みを働こうとするからだ」
ポポンはハッと目を見開いた。
(そ、そっか。そういうことになっちゃうのか。……でも)
ポポンは鼻を押さえたまま、不満げにリィンを睨んだ。
「だからって何度も鼻をつっつくことないでしょ!潰れちゃったらどうすんのよっ!」
「大丈夫だ。それ以上低くはならない」
「ムッ。じゃあ、言わせてもらいますけど」
「なんだ」
「ダンジョンの宝箱なんてすぐに復活するじゃない!罠だってそうよ!同じダンジョンに再挑戦すると、罠も宝箱も同じ場所にあるもん!なんでわざわざ再設置なんてするの!?」
リィンは深く、そして長いため息をついた。
「あのな、罠や宝箱が勝手に湧いて出るか?そんなの気味悪いだろ」
「えっ、でも……違うの?」
「違う。大抵は手先の器用なクリーチャーか、あるいは運営者本人が宝箱や罠を再設置してる」
「ええっ!?」
~ダンジョンの掟~
罠や宝箱は勝手に復活したりしない
ポポンは巨大なドラゴンが必死に罠を設置している姿を想像し、ぶんぶんと頭を振った。
「だがダンジョンによってはそれが難しい場合がある。手先の器用なクリーチャーは限られるし、たいていの運営者は細かい作業が苦手だしな」
「そうよね、うん」
「そういうときにダンジョン工務店の需要が生まれるわけだ」
「そっか、なるほど」
ポポンの納得しかけた頭に、新しい疑問が浮かんだ。
「でも」
「まだ反論があるのか?」
「反論ってわけじゃないけど。罠はわかるの。でも運営者が宝箱を再設置する意味ってなに?盗まれたくはないんでしょ?」
「そういう決まりだからだ」
「決まり?」
「ダンジョン運営法というものがある。運営者はこれに逆らえない。もし逆らったら――」
リィンは親指を立て、首をかっ切るポーズをした。
「そ、そんなの聞いたことないんだけど」
「だろうな。普通は知らない、裏話の類いだ。……さ、仕事に戻るぞ」