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2.おにいとはるちゃんと

「……な、誰だっけ」


 思い出せそうで思い出せない。しかし確実に知っている声だ。淡いピンク色のイメージがする。開いている扉の隙間から顔だけを出して、フロア内を覗き込む。


 バスケットゴールの下に立っている桜ヶ丘学園の制服を着た女の子が、スリーポイントラインの少し外側にいる黒色のハーフパンツに白いTシャツを着た柚香にパスを出そうとするところだった。


「じゃあ、今の忘れないうちにもう一回。軽く、無駄な力は抜いて、アーチは高く」 


「うん」


 頷いた柚香は、パスされたボールをキャッチすると流れるような動作でスリーポイントシュートを放つ。女子特有の両手打ちだ。柚香の手から離れたボールは綺麗な弧を描き、リングに吸い込まれることなくリング手前に直撃した。跳ね返ったボールが俺の方にバウンドしながら転がってきた。ボールを追いかけようとした柚香と不意に目が合ってしまった。


「あ……」


 気づかれてしまった手前、顔だけを出した状態で居続けるわけにはいかない。顔を引っ込めて再度隠れようとするは論外だ。


「……よ、来たぞ」


 軽く手を上げて体育館のフロアに入り、転がってきたボールをキャッチする。


「なべっち監督! 来てくれたんですね」


「柚香が呼んだんだろ?」


 平然を装いながら言葉を返して、目の前までやってきた柚香にボールを渡す。そのボールを大きな卵でも持つように大事そうに抱きかかえた柚香が、目を三日月の形にして俺を見上げる。


「まあそうなんですけどね」


「え!」


 突然の大声に、俺も柚香も言葉を失う。時間が停止する。柚香の練習につき合っていた女の子が驚嘆の声を上げたのだ。リング下にいる彼女に視線を向けると、驚き顔の彼女と目が合った。


「あ……」


 脳内が真っ白になっていく。視線は交錯したまま。ようやく俺は彼女のことを思い出した。


 彼女も俺が誰なのか気づいたようで、一歩だけ足を踏み出し、


「お、おにい?」


 半信半疑の声で呟いてから足元に視線を向けて、踏み出した足を元に戻す。


「え、まさか……はるちゃんか?」


 彼女が戻した足の代わりに、俺が右足を一歩前に踏み出しながら問いかける。


「…………うん」


 彼女はゆっくりと小さく頷いた。


「やっぱり。ってか俺のことをおにい呼びするのなんてはるちゃんしかいないよな」


「うん」


 はるちゃん。本名は桜庭遥。俺が中学を卒業するまで隣の家に住んでいた女の子だ。母親同士の仲がいいこともあって子供のころはよく一緒に遊んだものだ。庭でバスケの練習をしていた時、隣の家の窓から覗いていた彼女を、俺が外に連れ出したのが始まりである。親父が買ってくれたバスケットゴールに向けてシュートの練習をしている時に、はるちゃんは率先してボール拾いをやってくれた。


「ひ、久しぶりだな」


「そうだね」


 緊張で言葉が詰まってしまう。気まずい。すごく気まずい。


「何年振りかな? えっと、俺が高校に上がった時だから、三年?」


「それくらい」


「そっか。なんか、背、伸びたな」


「まあ、三年もあれば」


 あのころよりも大人びたはるちゃんの姿を直視するのが、何というか、とても恥ずかしい。小学六年生までのはるちゃんしか知らないから、脳が記憶を修正するのに、同一人物だと思い込むのに苦労している。大きくくりっとした目とか、少しだけ丸っこい鼻とか、ショートボブの亜麻色の髪とか、当時の面影は残っているけれど、身長も表情も体つきも全てが変わっている。成長している。


「はるちゃん。バスケやってたんだ」


「……中学の時はね」


「ストーップ!」


 今度は柚香が大声で会話をぶった切る。


「え? どういうこと? なべっち監督と遥って知り合いなの?」


 俺とはるちゃんを交互に見ながら尋ねてきた。


「まあ知り合いっていうか、近所に住んでたっていうか」


「近所に? そういう関係? え? ってかそれなら話が早いよ!」


 嬉々とした表情を浮かべて両手を胸の前で合わせた柚香は、


「じゃあもっと近づきなよっ!」


 俺の手首をがしっと掴む。ぐいぐいとはるちゃんの前まで引っ張られる。


「ちょっと柚香……」


 はるちゃんはふわりと握った拳を口の前に持ってきて、視線をおどおどさせている。


「お、おい。柚香何を」


 ようやく柚香の手を振り払うことに成功するが、柚香はお構いなしににたっと笑って俺の横に立ち、手を添える。


「この人がね、我が桜ヶ丘学園新設女子バスケ部顧問のなべっち監督」


「なべっ、ち?」


 俺がなべっちと呼ばれているのを初めて聞いたからだろうか。はるちゃんは不思議そうに首を傾げる。俺と目が合う。すぐに逸らされる。ってか俺が逸らした。


「二人が知り合いならさちょうどいいじゃん。これを機会に遥もバスケやろうよ」


「え……、それは……」


 はるちゃんは気まずそうに言葉を濁す。いまいち状況が掴めない。


「ほら、なべっち監督も説得して」


「え、俺も?」


「そうだよ。そのために呼んだんだよ」


「ごめん柚香。私今日は帰るね」


 その声は、それまでとは全く異質だった。妙に穏やかで落ち着いていて、それ故に怒っていると分かってしまう声。はるちゃんはそのまま逃げるように俺たちの横を通り過ぎていく。動き出す瞬間、制服のスカートが少しだけふわりと浮いた。通り過ぎる時、はるちゃんは悔しそうに下唇を噛んでいた。


「あ、ちょっとまって! 遥!」


 柚香が去っていくはるちゃんを呼び止めたが、はるちゃんが足を止めることはなかった。姿が見えなくなって、コツコツという駆け足の足音が遠ざかって、やがて沈黙が訪れる。


 俺はその乾いた足音を茫然と聞いていた。痛々しい静寂がさらに空気を重くしていく。状況がまだ理解できていないといった方が正しいのかもしれない。


「柚香。これは……」


「何でこうなっちゃうんだろう」


 嘆息交じりに呟いた柚香が俺の方を見て、申しわけなさそうに小さく咳払いをする。後悔を湛えた危うげな笑みを浮かべ、


「私はただ、遥ちゃんにバスケをしてもらいたいだけなんだけどな」


 聞いていて切なくなる。彼女のやるせなさがフロアに一気に広がっていく。


 とりあえず、二人の会話を参考に、冷静に情報を整理することから始めよう。


 はるちゃんは中学校の時バスケをやっていた。

 今はやっていない。

 柚香は何とかして、はるちゃんにもう一度バスケをしてほしいと思っている。


 そこまで丁寧に情報を解析して、ようやくとある疑問にたどり着いた。


 どうして柚香は、昨日バスケ部に入部してくれる人の心当たりとして、はるちゃんのことを言わなかったのだろう。


「なべっち監督。私、どうしたらいいと思いますか?」


「どうしたらって……」


「私、もしかしたら悪いことしてるんですかね」


「それは絶対にないから」


 それだけは違うと、強い言葉で否定した。


 もちろん、やりたくないことを強制させようとしているのであればそれは悪いことである。けれどはるちゃんが去り際に見せた顔は、柚香に対して苛立っているというより、自分の内側に向けて怒りを放出しているように見えた。


 俺の言葉に虚を突かれたのか、柚香は口をぽかんとあけてぼうっとしている。何の前触れもなく口をつと開ける。


「……あ!」


 それから人差し指だけを立てた右手を口の前に持ってきて、内緒ねのポーズをとる。


「私が遥をバスケ部に誘ってること、みんなには……これ、ね」


 しかし、それは違うんじゃないかと思った。


「え? どうして?」


 疑問をそのまま口にする。今日俺に助けを求めたみたいに、美玖や知佳や睦月に協力を請うべきだと思ったのだ。和をもって貴しとなすという諺だってある。


「あ、それは私もよく分からないんですけど」


「分からないのに秘密って、そっちの方が俺は分からないんだけど」


「んー、何ていうか……その」


 柚香は言葉を止めてしまった。言えない理由があるのだろうか。信頼されてないみたいで少し悲しい。が、苦しそうな柚香の表情を見ているとそれ以上追及することが悪のように思えてくる。まあまだ二日目だし、これから少しずつ近づいていこう。


 そう思っていたのに、はるちゃんのことが心配で、のみ込もうとした言葉が口から出てきてしまった。


「同じバスケ部の仲間だろ? みんなで協力して説得すれば、それこそ」


「それは! ……それこそが言えない原因っていうか」


「みんなが言えない原因?」


「はい。まあその……つまりは」


 曖昧な返答を繰り返していた柚香だったが、ついに意を決したらしく眉間に少しだけしわをよせる。


「美玖が、嫌がってるんです」


 予想外の一言だった。


「え、それって……本当なのか?」


 天真爛漫で、誰とでもすぐに仲良くなれそうな美玖が嫌っている?


「……はい。何ていうか、昨日話題になった怪我で無理っていう子が遥なんです」


「は?」


 もうわけが分からない。怪我なら、美玖がはるちゃんのことを好いていようが嫌っていようが関係ない。


「だったら誘うとか誘わないとかじゃなくて、はるちゃんはそもそもバスケが無理」


「違うんです」


 柚香が俺の言葉を悲愴な声で遮った。


「本当は、バスケできるんです。私知ってるんです」


「え?」


 バスケができる? つまり怪我をしていないって、そういうことなのか?


 目で柚香に、なぜ? と問う。柚香はゆっくりと頷いてから、慎重に言葉を紡ぐ。


「私が前に遥のこと部内で言った時、美玖が途端に表情変えて、遥は怪我してるからもうバスケはできないって言ったんです。私、それが本当か一応調べて。そうしたら遥が怪我した原因っていうのが、どうも美玖と練習中に接触したかららしくて」


 真剣さと脆弱さが混じった瞳は、それは紛れもない真実ですと切に訴えかけていた。はるちゃんのためとはいえ、美玖の悪い一面を話してしまうことに柚香は引け目を感じているのかもしれない。


「でも、何ではるちゃんの怪我が治ってると思うんだよ? 同中だった美玖が怪我でプレーはできないって言ってるんだろ?」


「それは私が見たからです。遥がバスケをやっているところを」


 それから柚香は仄暗い表情のまま、けれどどこかいきいきとした声で話してくれた。


 中学時代、練習試合での桜庭遥のプレーに衝撃を受け、憧れていたこと。


 けれど最後の夏の大会に彼女が出場していなかったこと。


 ファッションデザイナーになるために被服科がある桜ヶ丘学園に来てみたら、そこにあの桜庭遥がいたこと。


 不思議に思って彼女をこっそりつけていったら、学校の最寄り駅から遠く離れた駅の近くにある公園のバスケットコートで、一人バスケをしていたこと。


 その動きは柚香が憧れたはるちゃんのプレーそのもので、そこで思わず声をかけて、何とか練習を見てもらう仲になったということ。


「バスケ部新設の話を聞いた時は奇跡だって思いました。遥と一緒にプレーができるって思ったのに、遥は入ってくれなかった。美玖も拒絶っていうか、嫌な顔して嘘ついてるみたいで、私どうしたらいいのか分からなくて」


 相槌すらも忘れて、柚香の話に聞き入っていた。


 中学校時代のいざこざを今も引きずっているために、はるちゃんが大好きなバスケをできないでいる。


 そんなこと、いいはずがない。


「はるちゃんにそんなことが……な」 


 しかしその先の言葉が見つからなくて、開いた口をゆっくりと閉じてしまった。


「うん。遥が入ってくれれば、というより私は遥に絶対に入ってほしいの」


「それは俺も、そう思う。そうあるべきだと思う」


 まだ分からないことだらけだけど、はるちゃんのために動けと心が訴えている。全身全霊をささげろと命令されている。


「本当?」


 柚香の表情がほわっと明るくなる。


「ああ、当然だよ」


 柚香が抱いてくれた希望に応えるように力強く宣言してから、


「好きなものを好きだって言えないなんて間違ってる。好きなものが分かってるのに、それをやらないなんて、自分をないがしろにし過ぎだ」


「なべっち……」


 感嘆を含んだ言葉でしっとりと呟く柚香。


「…………あ、監督」


「柚香お前いま敬称つけるのガチで忘れてただろ?」


「ううん。忘れてない忘れてない! ただちょっと感動して言葉が詰まっただけ」


「本当か?」


「本当だってば」


 二人して笑う。何だろう。わずか二日にして、柚香と心を通わせられたような、そんな気がしていた。


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