ヘドロ・シンドローム
俺達は体育館に戻る前に、一度部室棟に立ち寄ることにした。遥が着替えるのを柚香と共に外で待つ。そこでさっきのことを内緒にしておくように釘を刺しておいた。
「逆に私はあの日から二人がつき合ってると思ってたので、遅いくらいですよ」
やっぱり私の勘に間違いはなかった。どこか自慢げに胸を張った柚香に、言葉にならないくらい感謝をしていた。
遥の着替えも終わり、三人で体育館に戻る。靴を脱いでバスケットシューズに履き替えている間、遥の表情はずっと固かった。あんな風に飛び出してしまって、どういう顔をして戻ればいいのか分からないのだろう。
「大丈夫だって。みんな優しいから。自慢の部員たちだから」
「うん」
遥は顔を赤くしながら、ゆっくりと頷いてくれた。
「そうだよ。だって遥優しいもん」
柚香が遥の顔を下から覗き込む。じっと二人は見つめ合い、どちらからともなく、くふふと笑い始めた。
「ありがとう。二人とも」
遥の顔に笑顔が戻る。もう大丈夫だな。遥の背中を二度軽く叩いて元気づけた。
「さあ、行こう」
「うん。監督」
遥からそう言われるとなんだかむず痒い。おにいと呼ばれるのが普通だったから、監督、だなんて違和感の塊だ。ってかプライベートで、恋人として会う時は何と呼ばれるのだろう。考えただけで血液が沸騰してしまいそうだ。
三人でフロアに足を踏み入れ、残っていた四人の反応をうかがう。睦月と楓は二人でシュート練習をしており、美玖はフロアの隅で靴ひもをきつく結んでいるところだった。その横にはボールが置いてある。知佳は美玖から少し離れたところで壁に寄り掛かって、心ここにあらずという状態に見えた。何だろう。美玖と知佳の二人から感じられる少しだけ険悪な空気。明らかに微妙な空気が流れている。
「あ、おかえりー。三人とも帰ってきたよー」
俺たちの姿に真っ先に気がついた睦月が、微妙な距離感の二人に声を飛ばしながらこちらに歩いてくる。その顔からは二人を心配するような感情は伝わってこない。むしろ楽観的な雰囲気すら感じられる。
睦月はこの重苦しい空気に気がつけないほど鈍感だっただろうか。睦月の後ろを歩く楓は神妙な面持ちで、ちらちらと知佳と美玖の様子をうかがっている。
「何でこんな気まずいムードなんだよ?」
「そう、ですかね?」
とぼけたように誤魔化す睦月に目で圧力をかける。睦月は、「しょうがないか」とどこか満足げに息をこぼしてから、俺の耳に顔を近づけてきた。
「まあ、今の状況をざっくり説明すると」
「ねぇ」
ちょうどその時、美玖が高圧的な声をこちらに飛ばしてきた。これからタイマンでも張ろうかというくらいの威圧的なオーラを纏い始める。美玖はボールを持って立ち上がり、はるちゃんを鋭く射るような目で見据えている。
俺はその迫力に息をのみ、身構えた。眉間にしわを寄せて、真剣な顔つきでこちらに歩いてくる美玖の後ろを、知佳が不安そうな顔でついてくる。声もかけないし、必要以上に近づきもしない。常に一メートルくらいの間隔を保っている。
「やっぱり戻ってきたんだ」
遥の前で立ち止まった美玖は、一呼吸おいてから言い放つ。
「私、これマジね」
「な、に?」
美玖の迫力に気圧されたのか、遥は言いながら半歩だけ後退る。俺は遥を庇うように二人の間に割って入ろうとしたが、睦月に腕で制された。大丈夫だから、と睦月のさわやかな笑顔が教えてくれる。
「本当にこれ、マジだから」
凄んだ美玖はかっと目を見開く。露わになった大きな瞳にはメ、ラメラと燃える闘志が宿っていた。
「今から私と一対一してよ。本気の本気で。そうしたら認めてあげる」
よく見ると、なぜか美玖の左頬だけが赤く染まっている。恥ずかしそうにしている素振りはない。やっぱり何かあったのだ。 美玖の斜め後ろに立っている知佳が安心したようにふわりと目を細めたのも気になる。
「一対一。……でも私」
言葉を濁して、勝負を避けようとする遥。あれ? この一対一ってバスケのことだよな。喧嘩じゃないよな。
美玖の口角がぴくりと上がる。
「でも、何?」
「え……っと、それは」
「だからするの? しないの? どっちなの?」
眼差しも一段と厳しくなる。
「私、は」
「してみれば? 試しにさ」
頭の後ろで腕を組んでいる睦月が、あっけらかんと笑いながら勝負することを薦める。
俺も何となくだけれど悟っていた。
きっと美玖は決意したのだ。あの時決めきれなかった覚悟に、今ここで、引導を渡そうとしているのだ。
「私たちもちゃんと見てるからさ。全部」
睦月は横にいる楓に目で合図を送る。
「うん。私だって、全部見てるから」
楓も力強く頷いて見せる。
「え、でも……」
遥が俺の顔を見上げてくる。その顔にはやりたくないと書かれてある。
でも俺は、止めなかった。
遥の助けを求める視線に、とぼけたような視線で返事をして、鈍感を装う。
「はっきりしてよ」
美玖がきつい言葉で遥かを問い詰める。いつもの天真爛漫な美玖の姿はそこにはない。冗談を考えようとする余裕も持ち合わせていないのだろう。これから自身のプライドをめちゃくちゃに破壊しようとしているのだから。
「はっきりって、だって」
「いいから。私と一対一で勝負して」
「……分かった」
美玖の迫力に押される形で、遥はしぶしぶ勝負を受ける。
しかし美玖は納得いっていないようで、冷たく舌打ちをしながら一歩だけ前に出た。
「あんた今、前みたいにしようって思ってるでしょ」
「な、何のこと?」
「とぼけないで。だから私はずっと怒ってる」
「ずっとって、何の」
「あの時わざと手抜いてたでしょ?」
遥の言葉がぴたりと止まった。
美玖は一呼吸おいてから、少しだけ震えている声で言葉を吐き捨てる。
「そういうのいらないから」
それを聞いて思う。
俺は根本的な勘違いをしていたのかもしれない。
「私がどんな思いで、あの日勝負を挑んていたか」
美玖は自分が負けたから、カッとなったのではなかったのだ。
「いい加減、そういうのやめろよ。うぬぼれんな」
冷たい言葉を美玖は浴びせ続ける。
はるちゃんは美玖から目を逸らしながら、もじもじと体を縮こまらせていく。
「うぬぼれてなんか……ない」
「大概にしろよ!」
美玖が叫んで、遥の胸ぐらを掴んで凄みを利かす。
あの日。わざと美玖が勝つように遥が仕向けていたから美玖は怒ったのだ。自分の気持ちをないがしろにされたから、悔しさと怒りで我を忘れたのだ。
「そうやって、あんたはいつも私を見下す。私をこれ以上馬鹿にしないで」
「馬鹿になんかしてない」
「じゃあ、本気で、やってよ」
「でも……」
一向に勝負を引き受けようとしない遥の肩に、俺は優しく手を乗せることにする。驚いたような顔で遥から見上げられる。彼女の口がまた否定の言葉を言いそうになっていると思ったので、無言で頷いてから、
「やらなきゃダメだ。これまでの俺と同じになる」
気持ちを無下に扱われる辛さを遥は知っているはずだから。その感情を教えてきたのは、何を隠そうこの俺なのだから。
「……私、が」
はるちゃんはそれだけ呟いて瞑目する。
俺が言葉に込めた思いが伝わったのどうかなんて、いちいち確認する必要もない。
険しく引き締められた遥の表情を、大きく刮目した瞳の迫力を目にすれば、言葉にしなくたって分かる。自分の意思で、戸惑うだけだった瞳の震えを制止させたのだ。戦地に赴く兵士のような力強さを瞳の奥に湛えて、美玖の闘志を真っ向から迎え撃つ。
「分かった。決着、つけよう」
その瞳に宿っているのは、美玖の覚悟とはまた違う覚悟。しかし、二人に共通して存在している感情もあると、俺は確信していた。
それはわずかに緩んだ二人の口元から読み取れる、メラメラと燃え滾る闘志と少しの喜びだ。
「十点先取だから」
「分かった」
遥の返事を訊いて、美玖は厳しい表情のまま振り返る。二歩進んで知佳の横で立ち止まると、
「これでいいんでしょ」
「ああ。よく頑張った」
「別に頑張ってないから。……ありがと」
ぶっきらぼうな感謝の言葉が知佳の顔をほころばせる。美玖はスリーポイントラインの外側に立って、その場で軽くドリブルをしながら遥が来るのを待っている。遥は二度軽くジャンプしてから、コートに足を踏み入れた。美玖の前に立って、腰を落とし、ディフェンスの構えを取る。
「私達、ここでちゃんと見てるから」
睦月がコート上で対峙する二人に向かって声をかける。その言葉の意味が分かっているので、俺も黙って彼女たちの結末を見届けることにする。その前に、美玖の頬が赤くなっていることについて睦月に耳打ちすると、
「ああ、あれは……」
睦月はくすくすと悪戯な笑みを浮かべた。柚香の横で不安そうに二人を見つめている知佳を一瞥し、
「知佳がね、一発気合い入れたのよ。美玖のために」
なるほど。そういうことだったのか。
後で知佳に、お疲れ様、とねぎらいの言葉をかけよう。
「ほら、始まる。なべっちも全部ちゃんと見届けないと」
「ああ。分かってるよ」
そして、二人だけの戦いが始まる。俺たちは一言も話さず、音も立てず、ただじっと決戦の行く末だけに集中していた。しっかりと最後まで見届けた。
結果は、遥の勝ち。
圧勝だった。
美玖からすれば一ポイントも取れない、惨敗だった。何度もブロックされ無様にコートにへばりつく。すぐに起き上がってディフェンスをするが、その場から一歩も動けないまま置き去りにされて、はるちゃんがレイアップシュートを打つのを呆然と見つめる。
その繰り返し。
痛々しいほどの完敗。
けれど戦いの最中、二人は喧嘩することも、感情的になることもなかった。淡々と一対一を続けていた。
「……美玖」
勝負の後、ゴール下でボールを持って立ち尽くしている美玖に、遥が後ろから声をかける。美玖の背中に手を伸ばしたが、すぐにその手を引っ込めてしまった。
「あのね、美玖」
「……」
美玖は遥の言葉を無視して俯いている。背中を向けているから、美玖がどんな表情をしているのかは誰にも分からない。だから推測でしかないのだけど、美玖は今、一人で粛々とこの結果を、自らの実力を必死で受け止めようとしているのだと思う。
その証拠に両肩が小刻みに震えている。
「美玖、あのね」
「あーあ、負けちゃったんだ。私」
振り返った美玖は笑っていた。悔しそうに、けれどどこかすがすがしさを感じさせる笑顔だった。戦いを見守っていた俺たち五人は互いに顔を見合わせる。
「遥、やっぱり強いなぁ。敵わないなぁ」
今度は遥が呆然と立ち尽くしている。美玖が笑っていることが信じられないのかもしれない。しかしそんなことは意にも介さず、美玖はなおも笑顔で、遥の肩に優しく手を乗せる。堂々と宣言する。
「でも次は負けないから」
「……うん」
嬉しそうな声が聞こえてきた。もう二人は大丈夫だ。きちんと向き合って、きちんと勝負をした。みんなの前で圧倒的な敗北を喫して、美玖は自分なりの答えにようやく到達できたのだ。
「さ、勝負終わったんだから練習練習。早くうまくなりたいし」
美玖が手を叩いて、練習を始めようとみんなを急かす。いつもぐちぐち言っている美玖がそんなことを言っているのがおかしくて、つい笑ってしまった。
「あ、でもちょっと待って。喉乾いたから」
額に滲んだ汗を拭いながら、美玖はフロアからダッシュで出て行ってしまった。エントランスの隅にあるウォータークーラーの元に向かったのだろう。
俺は勇気を出した美玖にどうしても声をかけたくなった。
「美玖が戻ってきたら試合形式の練習するから、各自アップしとけ」
残りの部員にアップを促し、一人エントランスに出て美玖の姿を探す。
「お、なんだよ。そんなとこで」
美玖の姿を見つけた時は少しだけ驚き、すぐに納得した。美玖はウォータークーラーで水を飲んでおらず、そのすぐ横で座り込んでいた。膝に顔を押し当てているため、表情が確認できない。でもその気持ちは手に取るように分かった。
だから美玖のそばに寄り添うようにして座り、頭を優しく撫でた。
「よく頑張ったな」
「ですよね。私、すごく頑張ったんです。頑張ってきたんです」
「ああ、本当に、ありがとう」
「別に感謝されるようなことはしてませんから」
涙を腕で拭うようにして美玖が顔を上げる。赤くなった頬と涙の輝きをまとった笑顔がとても印象的だった。
「あーあ、でもあれだ。私下手だ。すごい下手だ。なべっちより下手かも」
「それ馬鹿にしてるだろ」
「あれ? ばれました?」
嗜虐的な笑みを見せる美玖を見て、いつもの美玖だと思って安心する。その目尻から最後の涙が一滴零れ落ちた。
よかった。
美玖はこうじゃないと、しっくりこない。
「でも、何だろう。こんな気持ち、生まれて初めてかもしれない」
美玖ははたと立ち上がって、大きく背伸びをする。気持ちよさそうな吐息が漏れて、踵が床に戻ってくると同時に、子供のような笑みを見せつけてくる。
「私、もっともっと強くなりたいから、これからもお願いしますね」
彼女の大きな瞳に灯った迸る熱情は、とても綺麗に揺らめいていた。
これにて、このお話は終了です。
ここまでお付き合いいただきありがとうございました。
もしかすると、続きを書くかもしれません。
評価、感想等、どうぞ気軽に、お待ちしております。




