4.すごくいっぱいたくさん大好き
柚香も返す言葉が見つからないといった感じで、はるちゃんを見つめたまま立ち尽くしている。
俺たちのことを視界に入れる余裕もないくらい疲弊しているはるちゃんは、矢継ぎ早に弁明を続ける。
「違うの。だって、その……何ていうか、だってどう考えても……っていうか客観的に見て、始めた時期の違いもあって、柚香より私の方がバスケ上手いから」
自分の方がバスケが上手い。それを言うためだけに、何重にも言葉による保険をかけて、柚香が傷つかないようにしたはるちゃん。
「だからレギュラーになるのは私。だからまたバスケを奪っちゃう」
「奪ってないじゃん。それは当然だよ」
柚香は、俺が思っていたのと同じことをはるちゃんに伝えてくれた。
「当然じゃない!」
しかしはるちゃんは聞く耳を持たずに声を荒らげる。
「だって私がバスケ部に入ると六人になる。レギュラー落ちするのは柚香なんだよ?」
「そうだね」
「だから、私はそういうの、もう嫌なの。だって柚香はバスケ頑張ってる。私は二度も奪いたくない。三年間一生懸命努力した先輩が、メンバーに選ばれるべきだったの。私なんかじゃなくて、バスケが好きで頑張ってる人から、奪うのはもう耐えられない」
痙攣でも起こしたかのようにはるちゃんは体を震わせる。肌から色が失われていき、そのまま冷たくなって死んでしまうのではないか、そう思った。
詳しく聞いていないから分からないけれど、おそらくはるちゃんは先輩が必死で確保したポジションを奪ってしまったのだ。はるちゃんは優しすぎるのだ。自分よりも人の気持ちが最優先で、それゆえにわがままを言うことができない。自分の気持ちに正直になることができない。
「ごめん。さっきのそうかもしれないだった」
柚香が困ったように頭を掻いて、面映ゆげに舌をぺロっと出す。
「だって、まだレギュラーなんて決まってないから。ね? 監督」
柚香が自信たっぷりに目配せしてきた。
そうか。言い直した理由はそれか。
俺も柚香の笑顔につられる形で、口元をほころばせる。
「ああそうだな。まだ俺は何も決めてないからな」
柚香の言う通りだ。俺はスタメンを誰にするかなんて、まだ決めてもいないし考えてもいない。
「ほら。監督も言ってる。だから決まってないものは奪えないよ」
「そんなの……でもそれは、だって柚香が」
「柚香がじゃないよ!」
急に声を張り上げた柚香の顔は真っ赤で、必死で、一生懸命だ。
「遥がどうしたいかだよ! 私がスタメンじゃなくなる? そんなの知らない。じゃあどうして遥はこの高校に来たの? 遥が入ったことで誰か一人落ちたんだよ?」
「それ、は……」
「その子はもしかしたら遥以上にこの学校に入りたかったかもしれない。これから遥がバスケを続けなくたって、大学入試も就職活動も遥が入った分誰かが落ちるの。場所を奪いとって生きてくの。気にしすぎだよ。だから好きなことやりなよ! どんな状況でも好きなら好きって、言うべきだよ! 立場とか関係とか実力とか関係なく、好きなことは好きだって言っていいんだよ!」
一息で言い切った柚香は、体中の足りなくなった酸素を補うためか深呼吸を二度行った。そして、呆然と立ち尽くすはるちゃんに、宝物でも見つけたかのような満面の笑みで語りかける。
「私は一人の人間として遥がすごくいっぱいたくさん大好きで、バスケもすごくいっぱいたくさん大好き。だから遥と一緒にバスケがしたいの」
柚香がはるちゃんに対して言った言葉の意味は、正直言ってよく分からなかった。けれど論理性を超越したところにある説得力と、はちゃめちゃな強い思いが含まれているから何も問題ないのだ。
一人の人間として、遥もバスケもとてもすごくいっぱい大好き。
どんな状況でも、立場とか関係なく、好きなことは好きだって言っていいんだよ。
それらの言葉ははるちゃんに対して投げかけられたものである。しかしその言葉たちは、俺の心にも深く突き刺さった。
「そうだよな」
好きなものは好きだと言う。何も悪いことなんてない。恥ずかしいことじゃない。俺の座右の銘を、みんなに自慢げに布教してきた信念を、俺自身が守れていなかったわけだ。監督と生徒という思い込みに縛られていたばっかりに、はるちゃんの気持ちをないがしろにしていた。自分の気持ちをないがしろにしていた。ってかすごくいっぱいたくさん大好きって日本語なんだよ。スゲー好きってことが分かるからまあいっか。すごくいっぱいたくさん大好きって言葉が、俺はすごくいっぱいたくさん大好きになった。
幸せにつつまれているかのような、晴れやかな気持ちを抱きながら、覚悟を決めた。
「はるちゃん。本当にごめん」
まずは深く頭を下げてこれまでのことを謝罪する。いきなりすぎたかなと、頭を下げてから思った。まあいいか。笑みが零れる。俺がそうしたいと思ったんだから。
はるちゃんは今どんな顔をしているだろう。
そういえば柚香がこの場にいるんだな。そう思うとなんか恥ずかしくなってきた。でも言わなければ。
それが俺のポリシーだ。生き方だ。柚香に、桜ヶ丘学園のバスケ部の部員たちに出会って、改めて気づかされた大事な考え方だ。
好きなものに正直に生きるってやっぱり最高だ。
「俺が間違っていたよ」
顔を上げてはるちゃんを見ると、はるちゃんは目を点にしてフリーズしていた。
狼狽えている、きょとんとしている姿もすごく可愛い。
はるちゃんの心と真正面から向き合っているからか、脳内がほんのりと熱を帯びていく。くらくらとぼやけていく視界や、細胞一つひとつに宿っていく高揚感がとても心地よい。今ならはっきりと言える。自分の感情に素直になれる。
「俺は二度もはるちゃんの気持ちに向き合えなかった。一回目は恥ずかしくて、二回目は監督だからっていう立場を気にしすぎて……こんなの俺らしくないよな」
言葉の通りだ。監督という立場を意識しすぎるあまり、はるちゃんと本当の意味でまっすぐ向き合えていなかった。そりゃあはるちゃんから小手先の優しさだって言われてしまうわけだ。実際にそうだったのだから。偽りの感情だったのだから。
「だからはっきりと、あの時の答えを、二回分の答えを今言うから、聞いてくれるか?」
はるちゃんの頬がぽっと赤くなる。俺が何をしようとしているのか分かったらしい。両手を前に突き出してぶんぶんと振って、拒絶するような態度をとる。
「もういいのだって答えなんて分かってるから言わなくて――」
「俺ははるちゃんのことが大好きだ」
俺の顔も今、猛烈に赤くなっていると思う。手汗がすごい。くすぐったい緊張感と少しの恐怖が体中に広がっていく。血液の流れる速度はおそらく通常の百倍くらいになっているだろう。
はるちゃんも熟れたリンゴのような顔をして、呆然と俺を見つめている。前に突き出していた両手が重力に従って、ぽとりと弧を描くようにして体の横へ落ちていった。涙を蓄えた目をいじらしく伏せて、気まずそうに、
「それは……部員として?」
「一人の人間としてだよ。一人の女の子として大好きだ。俺ははるちゃんのことを心の底から好きなんだ」
「……だったら、その証拠……を」
なまめかしく言った本人が一番照れているんじゃないかっていうくらいに真っ赤だ。上目づかいで何度も目を瞬かせている。はるちゃんの大きく艶やかな瞳があらわになるたびに、恥ずかしさと暖かさが体を侵食して、とろとろと溶けてしまいそうになる。
俺は今、戸惑っているのだ。
けれどこれまで何年も待たせたのだ。
俺の勝手な都合ばかりを押しつけて、彼女の気持ちをずっとないがしろにしてきた。
「分かった」
覚悟を決めて、はるちゃんに近づいていく。気を利かせてくれたのか、柚香ははるちゃんから離れていった。はるちゃんの正面に立つと、はるちゃんは手を慌ただしくあっちこっちに動かしながら後退って、俺から離れていこうとする。
「あ、え、ごめ、さっきの、嘘だから――」
はるちゃんの手を掴んで、体を引き寄せて、強く抱きしめた。柔らかくてほのかに甘い香りがする。彼女の心臓の音が俺の心臓の鼓動と重なっていく過程を存分に楽しみながら、はるちゃんの頭を優しく撫で、耳元でそっとささやく。
「大好きだ。遥」
「え、あ、え。嘘だか、ら。さ、さっきの嘘だから」
はるちゃんは舌足らずの人が喋っているみたいに言葉を噛みまくっている。可愛いな本当に。ま、昔から知ってたけど。
「俺は遥がすごくいっぱいたくさん、これでもかっていうくらい本当に大好きだ」
その気持ちを伝えた後で、 すごくいっぱいたくさん恥ずかしくなった。体の動きをぴたりと止めたはるちゃんは、何も言ってくれない。体がこわばっていることだけは伝わってくる。はるちゃんが顔をうずめている胸の辺りが湿ってきた気がする。
グラウンドの方から、ソフトボール部の大声が響いてくる。
はるちゃんの体から無駄な力が抜けていき、本当にゆっくりと、はるちゃんが俺の背中に手をまわしてくれた。
「……私も、同じくらい好き」
「ずっと知ってたから」
「私もずっと分かってたよ」
天使のように微笑みながら呟いたはるちゃんの額に、自分の額をそっと押し当てる。鼻と鼻の先がわずかに触れ合う。彼女の呼吸音すらも愛おしい。
くしゃりと笑うはるちゃんを、俺は至近距離でじっと見つめ続けた。
第4章終了です。
次回、いよいよ最終回です。




