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1.声の温度

 さすがに今日は課外に参加するということで、楓は校舎に戻って行った。けれど明日からバスケ部の練習に来てくれることになった。


「先生や親ときちんと話して、バスケをすること、認めさせてみせる」


 その宣言をした時に見せた可愛げのある穏やかな笑顔は、自信と安心に満ち溢れていた。あの表情に心を動かされない人はいないだろう。仮に反対されてしまっても、今の楓なら強引に自分の我を貫き通してみせるはずだ。自分の人生なのだから、自分が後悔しないで済む選択をする。それでいい、それが一番なのだ。


 いつもの時間まで練習をして、校門前で課外授業を終えた楓を待って、六人で一緒に帰った。途中、一時間程度ではあったが、駅前にあるファミレスで楓の歓迎会、バスケ部存続おめでとう会を併せて開いた。その時に、バスケ部の監督をやめるとみんなに言おうと思っていたが、おめでたい空気に水を差すのも野暮だと考え直した。


 自宅アパートの最寄り駅で電車から下車し、階段を上って改札を出る。まっすぐ家まで帰ろうと思っていたのに、なぜか一人で居酒屋に入っていた。年齢的にダメだと分かってはいたものの、足が向かってしまった。人生初の一人居酒屋だ。大学の新歓で入ったことはあるが、この状況、緊張しないわけがない。一人ですと伝えると、年齢確認もされずに背の高い壁で区切られた二名席に案内された。お通しを運ばれてきた時に、生ビールと若鶏のから揚げ、馬刺しを注文する。声はぎこちなく震えていたと思う。その店員が去り際にすだれを下してくれて、個室のような状態になった。


 一人になって、ふと考える。


 どうして居酒屋なんかに入ってしまったのだろう。答えが浮かぶ前に、注文した生ビールが運ばれてきたので、理由なんて関係ない! 飲みたいから飲むんだ! と一気に半分ほど飲み干す。グラスまでキンキンに冷えたビールは、喉を爽快感という魔法で攻撃してくる。お通しの煮物は、少し冷たかったが醤油の味がよく染みていた。いつの間にか運ばれてきていたから揚げもさくさく、馬刺しも平均点以上の味だ。一杯目のビールはすぐになくなったので、二杯目、三杯目、と注文を繰り返す。


「ちょっと飲み過ぎたか」


 四杯目のビールもあと少しというところで視界がぼんやりしていることに気づき、グラスをテーブルの上に置いた。酔うってこんな感じなんだな。初めての経験にテンションは上がることなく、むしろ落ち込んでしまった。最後のから揚げを口に放り込み、咀嚼しながら、このまま酔いつぶれてはだめだ、かけるなら早いうちにしないとと自分に発破をかける。


 彼女たちといると楽しい。できるならばこのまま続けたいけれど、俺がいるとはるちゃんがバスケ部に入ってくれない。


 彼女たちと会えなくなるのは寂しいけれど、それは俺の個人的な感情に過ぎない。


 スマホを取り出して、画面を指で操作する。あと一回タップすれば電話というところまできた。


 指が、動かなくなった。


 俺、やめるからさ、一回だけでもバスケ部に行ってみなよ。


 そう告げるだけなのに、はるちゃんに電話ができないまま、こうして居酒屋で一人酔っている。


 あの公園で二度目の告白をされたからだろうか。電話をかける、ただそれだけの行為なのに気が進まない。しかも俺はその告白を断っている。それで嫌われてしまっている。そもそも電話に出てくれるのだろうか。


 それでも、かけるしかない。説得するしかない。


 はるちゃんに大好きなバスケを続けて欲しいから。


 グラスに残っていたビールを一気に喉に流し込むと、勢いのままにはるちゃんに電話をかけた。


 プルルルル、プルルルル……。


 出てくれる気配はない。

 六回目のコールまで聞き、やっぱりダメかとスマホを耳から離そ――、



《もしもし?》


「もしもしはるちゃん!?」


《声大きいって》


 淡泊な声に、体の火照りが急激に冷めていく。


「……ごめん」


《で、いったい何の用?》


 矢を射るような鋭い言葉が鼓膜に突き刺さる。その衝撃で酔いはどこかへ吹っ飛んでしまった。


「あ、そっか。用……」


《何もないならもう切るけど》


「ち、ちょっと待って。バスケ部。バスケ部」


 情けない言い方になってしまった。想定していた状況からは程遠い、なんとも格好悪い誘い方だ。


《バスケ部?》


 はるちゃんの声はどこか攻撃的だ。


《入らないって言ったよね。おにいがいるなら絶対に――》


「やめるから」


 口に出してしまったことで、はるちゃんに言ってしまったことで、急速にその決意が現実味を帯びていく。やめる。すごく切ない言葉だと改めて実感した。


《……え?》


 先程までのむっとしていた声音が嘘のように、腑抜けた声で訊き返してきたはるちゃん。

今度ははっきりと、省略せずに意志を伝えた。


「バスケ部の監督をやめることにしたんだ、俺」


 息をわずかに吸い込む音がスマホ越しに聞こえてきた。それからややあって、むせび泣きそうなほど寂し気な声で、


《どうしてそうなるの?》


「俺が監督だったら、バスケ部に入ってくれないんでしょ?」


《部活の監督がいなくなったら、それって部じゃないじゃん》

「俺が責任もって探すよ。同級生にも声かけてみるし、山梨監督の人脈もあるから」


 そこについては大丈夫だと、感情的になっているはるちゃんをなだめるように言う。


《でも、見つかるか分かんないじゃん。監督やるの好きだって、自分に合ってるって、おにい言ったじゃん》


「そうだけど、はるちゃんがバスケを続けてくれるのならその方がずっといいよ。俺は大学でバスケサークルにでも入るから。一回だけでもいいからバスケ部の練習に参加してさ、美玖と話してみなよ。すれ違っているだけだから」


 はるちゃんはなかなか返事をしてくれなかった。切られたのかと思ってスマホの画面を確認するが、通話中のままだ。


「はるちゃん?」


《何それ》


 鋭い冷気を帯びた言葉だった。


「何って、俺ははるちゃんにバスケをまた始めて欲しいだけだよ」


《じゃあやる。バスケやる》


 尖った声のままだったが、はるちゃんはバスケをすると言ってくれた。


「本当に? よかった」


《よかったって、勘違いしないで》


「勘違い? 何の?」


《うぬぼれんな。おにいがやめなくても私はバスケ部行くから。明日顔出せばいいんでしょ? 何時からやってるの?》


 脅迫するかのように、高圧的に問いかけてくるはるちゃん。


「えっと、十六時ごろかな」


《分かった。じゃあ明日、行ってやるから》


 上から目線で吐き捨てられる。はるちゃんは電話を切ってしまった。


「……え」


 何も聞こえなくなったスマホを耳に当て続けたまま固まる。


 これは、どういうことだろう。


 はるちゃんが部活に来てくれるということでいいのか。


 俺もやめずに済むということでいいのか。


 はるちゃんの言葉だけを聞けば、そう解釈していいはずである。しかし声を判断材料に含めると、どこか腑に落ちない。もう一度電話をかけたが、今度は出てもらえなかった。


 明日、はるちゃんは本当に来てくれるのだろうか。


 不安は募るばかりだが、はるちゃんが電話に出てくれない以上どうすることもできない。今は彼女の言葉を信じるしかない。もっと飲もう。


 俺はその後、店の閉店時間ぎりぎりまで酒を煽り続けた。

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