4.お風呂で長話をするのはよくない
最寄りのコンビニで買ったコーラとのり弁をテーブルの上に置いて、ベッドの上に寝転がった。買い置きしていたホットアイマスクをつけて、体の底から湧き出てくる疲労を恍惚の声として吐き出す。憔悴。そんな言葉が頭の中に浮かんでくるくらいには疲れているのだという自覚もある。
ベッドの上で、公園にいた時よりはクールダウンしている頭で、はるちゃんの残した言葉について考えてみる。
俺がいると、はるちゃんはバスケ部に入ってくれないらしい。
はるちゃんは自分がバスケをやっていたせいでみんなを不幸にしたと言っていた。
それは美玖のことを言っているのだろうか。けれど美玖は今バスケ部に入っている。やはり二人の間に何かがあったのだ。考えられそうなことと言えば、美玖に気をつかっている可能性。怪我をさせてしまった人が同じ部内にいるという気まずさを避けようとしていると考えれば、納得できなくもない。
しかし、はるちゃんの怪我はもう治っている。
それならば元気にプレーしている姿を見せた方がまだいいように思う。はるちゃんがプレーできなくなってしまったという事実の方が、怪我をさせてしまった美玖にしてみれば嫌だと思う。
以上のことから導き出した結論は、さっぱり分からない。
これは美玖に話を聞かなければいけない。
問題は美玖が正直に言ってくれるかどうかだ。
「でも、覚悟を決めないとな」
自分に言い聞かせるようにして呟く。冷め始めてしまったホットアイマスクを取ってゴミ箱に投げ入れ、ポケットからスマホを取り出す。
気がつけば、小さく笑っていた。
そうなのだ。
俺はただ、彼女たちに好きなものは好きだと、素直になって欲しいだけなのだ。
彼女たちの秘密にずばずばと踏み込んでいったとして、俺個人が嫌われることは大して問題ではない。今までは、信頼関係を築いて……なんて自分が嫌われたくない理由を都合のいいように変換していた。結論を言えば、そんな回りくどいことをする必要などないのだ。嫌われた方がいいまである。五人目の部員(おそらくそれは夏希楓)を勧誘できた段階で、俺はバスケ部の監督をやめるからだ。
そうすれば、はるちゃんがバスケ部に入るための障害が一つなくなる。後は美玖との気持ちのすれ違いを解消させてあげればいい。だったら行動は早い方がいい。
ベッドの上に胡坐をかいて座り、深呼吸をしてから、美玖に電話をかけた。
「もしもし」
《もしもしどうしたのなべっちー》
いつもと変わらない砕けたテンションの声だったので、少し安心する。
「いきなり悪いな。今電話大丈夫か?」
《全然いいよー。半身浴してるだけだし》
最後のは言う必要があったのだろうか。お風呂って、スマホ大丈夫なのか。確かに彼女が浴室にいるためか、声にエコーがかかっているように聞こえる。妙に色っぽくて艶やかな声の響きになっている気がする。湯船によって暖められた体を落ち着かせるためにつく吐息が、率直に言ってとてもエロい。湯気とか、濡れた髪とか、ほんのりと赤く染まった肩や膝小僧とか、変な想像をしてしまうじゃないか。
「そっか……じゃあまあ、その……あれだよ、あれ」
しかしいざ単刀直入に言おうとすると言葉が出てこない。
《あ、もしかして愛の告白ですか?》
「違うよ。俺は監督だぞ」
《隠さなくてもいいですって。まあ確かに私に彼氏はいませんが。ってか何言わすんですか。なべっち最低ですね。女の子のプライベートをいじりに使ってくるなんて》
「美玖が勝手に暴走しただけだろ」
電話越しでも泣いている演技だと伝わるくらい大袈裟に、美玖は鼻をすすり、えーんえーんと言葉に出して言っている。普段なら何とも思わないが、美玖の俺に対するいじりの中に、女の子のプライベートな情報、という言葉が入っていたことで、少し心がへこんだ。美玖とはるちゃんの因縁は間違いなくプライベートな情報である。踏み込まれたくない事情であることも、今日のはるちゃんの様子から容易に想像がつく。
けれど彼女たちにとって、このままでいいはずがない。
バスケを好きなはるちゃんがバスケをしないままでいることがまずおかしい。二人が喧嘩をしているのであれば、仲直りして欲しいとも思う。二人ともバスケが大好きだという気持ちが一緒なのだから、きっと分かり合えるはずだ。
《暴走なんて、そんな言い方ないわ》
「まあとにかく、俺が電話したのは」
これ以上美玖の話しにつき合っても埒が明かない。話を強引に終わらせる。言葉をそこで一旦止め、口に溜まっていた唾液をのみ込む。
首の裏側から冷たい汗が一滴、背中に流れ落ちていく。
肩甲骨が謎の痛みを訴え始める。
でも俺は覚悟を決めた。
「はるちゃん。桜庭遥についてのこと」
先ほどまでぽんぽんと軽口をたたいていた美玖の声がぴたりと止んだ。わずかな呼吸音だけが聞こえてくる。美玖が話さないのならと、言葉を続ける。
「実は桜庭遥をバスケ部に勧誘してるんだよね」
《そう、なんですね》
感情豊かな美玖の言葉とは思えないくらい、その言葉はそっけなくて淡泊だった。
《でも彼女は怪我をしてるので》
「今日会ったんだけど、それ、はるちゃんが嘘ついてたみたいなんだ」
《え》
とだけ戸惑い混じりに呟いて、また美玖の言葉が止まる。
「何があったの? はるちゃんと、中学校の時に」
まっすぐに、何も取り繕わずに訊いた。薄氷の上に立っているかのような心地で、美玖の返答を黙って待つ。静寂が体にのしかかってきた。凍りつきそうなほど空気が張り詰めている。
《……酷いなぁ》
美玖はそれだけ呟いて、また黙り込んでしまった。無言の圧力を電話越しにぶつけてくる。心にナイフが一本、二本と刺さっていく感じがする。その痛みに耐えながら、じっと美玖の言葉を待ち続ける。
美玖が観念したかのように大きく息をはいた。
《ほんとに、なべっちって、意外と肝が据わってるんですね》
「美玖のためでもあるからな」
《私は、頼んでないのに?》
「だって好きなんだろ?」
《やっぱりなべっちはすごいですね》
くふふ、と美玖は穏やかに笑い始める。しかしその声に感情は皆無。浴槽の中で体を動かしたのか、水の音がわずかに聞こえてきた。
《本当に、なべっちってすごい。ははは、何ってるんだろう私》
感情の欠片もこもっていない笑い声が止み、その余韻も消えてしまう。
ため息が電話越しに耳に吹きかけられた。
《私に対する嫌がらせなんですよ。きっと》
浴室反響効果、とでも名づけるべきか。彼女の声は輪郭がぼやけて朧げな響きを宿している。そのせいで彼女の声に乗っかっている哀切の感情が何倍にも増幅してしまっている。顔を合わせて直接話すよりも、心にズンと手荒に容赦なく突き刺さる。彼女の姿が見えないから、その表情を声から勝手に想像してしまうから、という理由も重なっていそうだ。
「嫌がらせ?」
《怪我をさせた私に対してずっとアピールしてるんです》
美玖の声は震えている。その理由は怒りか悲しみか。その感情が向いている先は、他人なのか、それとも自分なのか。
「はるちゃんはそんな風に言ってなかったけど」
大切な人がまたバスケを始めたのだから、その人からバスケを奪いたくないとはるちゃんは言っていた。この大切な人というのは、きっと美玖のことではないだろうか。美玖はバスケ部のない桜ヶ丘学園に進学している。つまりバスケを一度やめようとした事実があるということだ。
はるちゃんが桜ヶ丘学園に来た理由も、バスケへの未練を断ち切るためだろう。ただ、なぜかバスケを続けるはずだと思っていた美玖も同じ高校に進学していた。それではるちゃんは美玖からバスケを奪ってしまったと考えたのかもしれない。美玖が新設バスケ部のメンバーということを知って、一番喜んでいるのは、実ははるちゃんなのではないだろうか。またバスケを始めてくれた、そうであるならば自分が邪魔をしてはいけない。そう思って身を引いたのではないか。
《そうですか。聞いてたんですね》
電話越しに、妙に湿っぽい笑いが聞こえてくる。笑おうとして、口元だけが引きつっている、切ない表情の美玖が浮かんできた。
《私嫌なやつですよね。さっきのもなべっちは知らないと思って、嘘ついちゃった》
「さっきのって?」
《嫌がらせって嘘ついたこと。本当は知ってます。遥はそんなことしないって》
しっとりとした声音で言う。声で彼女の感情を推し量ることしかできないが、本心が不意に出てきてしまったのだと、そう思う。そう思いたい。
《でもその優しさが私を苦しめる》
声を震わせながら、それでも強い口調で丁寧に言い切る。
はるちゃんが美玖に与えた優しさは、用法用量を間違えた薬みたいに体の毒になってしまったのだ。自分が被害者なのに、怪我をした自分よりも、怪我をさせてしまった方を心配するはるちゃんの思いやりは、美玖の立場からすると気持ちのいいものではないだろう。
美玖はさっきの冷たい言葉を振り払うかのように、冗談めかした口調で言葉を続けた。
《引け目っていうか、意地っていうか、本当なんなんだろうこのプライド。いらないのに、いざ遥と会うと湧き上がっちゃう。大切なのにさ。あーあ。長話してたらのぼせちゃったかな》
最後につけ加えたられた気を紛らわすためだけの言葉が、一番心に効いた。彼女は空気が重くならないように、その言葉で取り繕ってくれたのだ。自分が吐き出した黒い感情をなかったものにしようとしたのだ。
これ以上は訊くのをやめよう。彼女がもっと傷ついてしまう。
そう思ったけれど、ここで訊かなければ、二人は一生このままだ。俺一人が嫌われるだけで二人がまた仲良くなるならば、絶対にその方がいい。
「そう思ってしまう理由って、教えてくれる?」
《思ってしまうなんて、悪いことみたいに言わないでくださいよ》
「ごめん」
《本気で謝らないでくださいよ。冗談です》
本人は明るく言っているつもりなのだろうが、そうは聞こえない。彼女の抑揚のない声を聞いているだけで胸が痛い。これが人の感情、本心の残酷さなのか。
俺が痛みでしゃべれずにいると、美玖が気をつかってくれたのか、
《中学の時……あ、なべっちにだから言うんですよ。私結構なべっちのこと信頼してるし、純粋に尊敬もしてるんです》
と嬉しい前置きを挟んで昔のことを話し出し始めた。




