1.大学生が何で女子高のバスケ部監督に?
中学、高校のバスケ部時代に、対外試合に出場できたのはわずか三試合だけだった。高校生活最後の試合は、ベンチで試合終了のホイッスルを聞いていた。二点差の惜敗。大量差で負けるか勝つかしていれば、監督の温情で試合に出ることはできたと思う。
タイムアウトやクォーター間に試合に出ている選手に声をかけ、外から見ている時に感じたことをアドバイスとして贈るのだって、試合に勝つためには重要なことだ。裏方の役割に徹する。ようやく見つけ出した俺の居場所だから、その責務を全力で遂行した。
本音を言えば、少しは試合に出てプレーがしたかったけれど、俺にはバスケの才能というものがなかった。それでもバスケをするのが楽しいから、好きだから続けてこられたし、バスケと出会ってよかったと心から思っている。
そんな俺に、高校時代のバスケ部の監督がとある話を持ってきてくれた。
大学に入学してから一週間ほどたったころ。授業を終え、一人暮らしをしているマンションに帰ってきた直後に、スマホがぶるぶると震えた。画面に表示された、山梨、という名前を見て、思わずベッドの上で正座をする。
「もしもし、お久しぶりです監督」
《おう久しぶりだな。電話に出るの遅いんじゃないか?》
からかうような声の監督に対して、少しだけ怖気づく。声色から冗談で言っていることは分かっているのだが、監督から言われると無条件に体がこわばってしまう。いや俺はもう巣立っているんだ。だから少しは無礼講でいいんだと言い聞かせて、
「俺はもう大学生ですから監督の言うことを聞く必要はないんですよ」
と明るいトーンを意識してふざけてみた。
《どの口がそんなこと言ってるんだ》
にこやかな声が聞こえてきて安心する。さすがに卒業した生徒にまで厳しく接することはないらしい。内心は怒鳴られてしまうかもとひやひやしていた。そう思うなら最初からしなければいいだけなのだが、大学生になったという解放感が、大人の階段を上らせたのだ。その場のノリで行動を決めるなんて、俺ももう大学生なんだぁ。
そんな感じで監督に対してふざけられるようになった自分を誇りに思いつつ、監督と高校時代の話に花を咲かせる。
《そういえば、最後まで試合に出してやれなくて、悪かったなぁ》
不意に監督が謝ってきたので、純粋に驚いてしまった。
「そんなことないですよ」
《そうか?》
「はい。それに監督が謝ってくるなんて意外です」
《俺を感情のないロボットか何かだと思ってないか? お前がどれだけ練習していたかは俺が一番よく知ってる。だから本当は出してやりたかったんだが》
こそばゆさを含んだ喜びが、体の奥深くから湧き上がってきた。監督は俺の努力を評価してくれていたのだ。それを知ることができて、純粋に嬉しかった。
「気にしないでください。ベンチで応援するのも楽しかったです。俺は監督のもとでバスケができて、とても幸せでした」
家の中で一人、頭を下げてしまった自分がおかしくてつい笑ってしまう。
《そんな改まられると恥ずかしいだろ! やめろ!》
怒鳴られてしまったが、それで怯えるというよりはむしろ逆。夢見心地。監督の癖である照れ隠しのための咳ばらいが聞こえてきたからだろうか。
《そういえば、渡邊は大学でもバスケは続けるのか?》
「はい。サークルがあるのでそれに入ろうかと」
サークルならさすがに試合に出られそうですし。真剣勝負ではないですけど。
自虐も込めつつ冗談っぽく言うと、監督も確かになと笑ってくれた。
《それもいいかもな。ただ、俺はお前がそういう小さなところに収まる器ではないと思っている。お前にはもっといい道があると思っている》
「いい道……ですか?」
監督の真意が読み取れなかったので、素直に訊き返した。
《ああ。実はバスケ部の顧問を探しているという話があってな。ちょうどお前の進学した大学の近くの高校なんだ》
「……はぁ」
監督が何を言いたいのか、やはりよく分からない。
《鈍い返事だなぁ。もう察しろよ。俺はお前をその顧問として推薦したいんだ》
今度は返事すらできなかった。もちろん監督が言ったことの意味は分かる。分かるが、俺が監督? 無理に決まっている。
《俺が今まで教えてきた生徒の中で、お前が一番向いている。間違いない》
監督の真剣な声に、ぞわりと鳥肌が立った。からかっているようには思えないし、これが監督の本心なのだとしたらすごく誇らしい。
「いや、でも俺よりうまいやつなんて他にたくさん」
《そりゃあ菊池や宮川、なんなら一年の森下の方がプレーはうまい。たぶんお前よりうまい中学生もいるだろう》
「だったら」
《お前は何も分かってなかったのか。意識してやってるのかと思ったが、まあ、それはそれで逆にすごいが》
電話越しにため息が聞こえてくる。やれやれと言わんばかりの呆れた表情をしている監督が脳裏に浮かんだ。
「あの、分かっていないというのは……」
《つまりな、バスケのプレーがうまいだけでは人に教えられない、ということだ。やるのと教えるのでは天と地ほどの差がある。お前をベンチメンバーに入れようと思った理由はそこなんだ。だから俺は、俺が教えてきた中で一番誇れるやつは誰か、と聞かれたら真っ先に渡邊雄大と答える》
監督のストレートな言葉に、胸がじわじわと熱くなっていく。冗談で誤魔化すことも謙遜することもできなかった。
《それで、どうなんだ? やってみるか?》
「え、あ……それは……」
それでも即答はできなかった。監督からはそれが天職であるかのように勧められたが、正直不安を完璧に拭い去れてはいない。俺に務まるのか。正しく生徒たちを導くことができるのか。懸念事項を挙げればきりがない。
「俺は……」
それに大学の授業だってある。練習試合などで休日は半分以上削られることになるだろう。そうなると勉強不足で単位を落としてしまうかもしれない。留年してしまうかもしれない。
でも。
だけど。
大好きなバスケに深く関わっていけるチャンスが提示されて、俺自身がそれを魅力的だと感じている。
それだけで、理由は十分ではないだろうか。
まだ起こってもない事実をやらない理由にするなんてもったいない。実際に困難が起こったら、その時に全力で考えて対処すればいい。
《お前なら絶対やれると、俺は思う》
「はい。ぜひ、やってみたいです」
監督の力強い声に、希望と熱意を込めた声で応える。体内に渦巻く不安や恐怖を、バスケのことが好きだという気持ちで抑え込んだ。
《そうか。お前ならそう言うと思っていた》
返事を聞いた監督は、がははと声を大にして笑いながら、
《お前に教わるやつは幸せ者だな。バスケのことをもっと好きになるんだから》
「それはさすがに言いすぎですよ。で、どこの高校なんですか?」
《桜ヶ丘女学園だ》
「やっぱりやめますごめんなさい無理です」
高校名を聞いた瞬間、口が勝手に動いた。ってかそれを先に言ってくれよ。
《おいおい、急にどうした?》
「いや、だって桜ヶ丘女学園って……先に言ってくれれば最初から断りましたよ」
《おお、そうか。すまんな。確かに聞いたことのない名前だろう。なんせ今年の四月から新しくできたらしいからな。さすがに女子バスケとはいっても強豪校の監督を大学生にやれなんてことは言わん》
「俺が言いたいのはそこじゃないですから。女学園ですよ? 女子高ですよ?」
《それがどうした?》
監督は何も分かっていないようだ。
「いや、だから女子高って女子しかいないんですよ」
《教師には男もいるぞ。現にそこの校長は俺の昔からの知り合いで男だ》
「そういう話じゃ」
《とりあえず、学校の方には俺が話を通しておくから。監督と生徒としての線引きさえしっかりしていれば女子高でも大丈夫だ。じゃあな。切るぞ》
「あ、ちょっと待っ――」
そのまま電話は切れてしまった。強引に押し切られてしまった。
「女子高の、女子バスケ部の……俺が」
無理に決まっている。
バスケという共通点があるとはいっても、どうやって接していけばいいのか皆目見当もつかない。近頃は見つめるだけでセクハラと言われかねないというのに。
「どうするよ」
監督にもう一度電話してみるが、通話中で繋がらない。桜ヶ丘女学園の校長に顧問が見つかったと連絡でもしているのだろうか。本当にそうであるならば、もう後戻りはできない。
でも、新設バスケ部か……。
ベッドに倒れ込んで、考える。部活を新しく作るって大変だよなぁ。相当の熱意だよなぁ。高校時代にそれに挑戦した人たちが悉く玉砕していったのも知っている。
つまりそれを成し遂げた彼女たちは、それほどまでに強く確かな情熱を宿しているということだ。バスケが大好きだということだ。
「覚悟、決めるか」
拳で胸を二度小突いて、自分を鼓舞する。まだ見ぬ教え子たちの熱意に勝手に負け、桜ヶ丘女学園のバスケ部顧問として奮闘することを決意した。