11.失敗と仲間と
「フリースローを打とうとするとよみがえるんです。外してしまった時の残像や、言いようのない壮絶な緊張。試合後のロッカールームでの私への陰口、その時のエースの子から言われた、知佳はキャプテン失格だよの言葉。全部が私の筋肉から自由を奪う。指先の感覚がなくなって、ボールを握っていることすら分からなくなる」
いつ何時襲ってくるか分からない心の病。これまで当たり前のようにできていたことが、ある日を境に突然できなくなってしまう。ニュースで聞いたことはあるし、その症状に侵された人のインタビューも見たことがあるが、実際にその症状に苛まれている人間と出会うのは初めてだった。
「だから私なんて、こんな私なんてキャプテンには向いてない」
彼女が感じているもどかしさや自分自身に対する苛立ちは相当なものだろう。簡単にできていたことができなくなる。それがどれほどの絶望か、自分が突然歩けなくなった場面を想像すれば、すぐに分かる。例え車椅子を用意されたとしても、初めからそれで移動しようとは思えないはずだ。現実を受け入れられずに車椅子に乗ることさえも拒絶するはずだ。
「こんな私が、私は、私なんて、大嫌い」
「私なんて、っていう自分を傷つけるような言葉を言っちゃだめだ」
ただただ優しく、励ましの言葉をかける。
だって彼女はバスケをすることを選んだのだ。逃げることなく、イップスに向き合っている。絶望を抱えたまま、それでもバスケをすることを選択した。みんなのためにキャプテンになった。
そんな人間が弱いわけがない。
とても強く、美しく輝いている。そんな彼女がもがき苦しんで自らでその輝きを消そうとしているのなら、助けてあげるのは至極当然だ。
「自分で自分の価値を下げる必要はない。今のままで知佳は十分素敵だ」
知佳がゆっくりと顔を上げ、俺と目を合わせてくれる。瞳を涙の膜が覆っている。恥ずかしくなったのか、つと目を逸らされた。
「でも、そんなこと言ったって、本当に私は、キャプテンにはなれないから」
「人はよく、もちろん俺もやってしまうこともあるけど、私なんて、どうせ私はって言ってそれをできないことの口実にする。今の知佳みたいに。どうしてだと思う?」
「それは……えっと、過去に失敗した経験があって向いていないって知っているから」
知佳はそう言いながら、また目を伏せてしまった。知佳の脳内では、きっとあのフリースローの場面が再生されているのだろう。
失敗。
人は成功よりも失敗体験を強烈に記憶してしまう生き物だ。そのために、失敗を過剰に恐れ、してはいけない悪いことだと思い込んでしまう。
「その通りだ。やらないことで傷つくことから身を守るためだ。でもじゃあ、もし仮に人から、どうせお前は、どうせお前なんて、と言われたら知佳はどう思う?」
「それは、馬鹿にされてるって思います」
その声には涙が混じっていた。
「だよね。少なくとも心は傷つく。つまり、自分で自分にどうせ私なんてって言い聞かせるのは、自分で自分の心を傷つけているのと同じなんだよ」
少し難しいかなと思ったが、知佳ならば理解してくれるだろう。
「自分を傷つけることで失敗に対して保険をかける。それは人間がある意味で頭がいいからできることだ。他の動物は自分の欲求に従うことしかできないのに、人間は考えることができるから、せっかく持って生まれた頭のよさをそうやって頭の悪い方向で使おうとする」
顔を膝にうずめたまま、知佳はじっと聞いてくれる。
「それにさ、怒ることばかりがチームをまとめる方法だと思ってない?」
知佳の指先がピクリと動く。体に緊張が走ったのが分かった。
「もちろん怒ることも時には大切だ。でもそれが糾弾になってはいけない。相手を貶したり、ミスを責めたり、キャプテンとして威厳を示すための手段になってはいけない。少しだけ考えてみよう。フリースローを外した子を怒ったっていうのが、本当にその子のためだったのか。糾弾になっていなかったのか」
フリースローは確かに決めるべきシュートである。けれど、だからと言って外した子を頭ごなしに怒ってもいいのだろうか。それくらい決めろよ、当然だろと、正しさを横柄に振りかざしていいのだろうか。
俺は、それは正しくないことだと思っている。
知佳は鼻水をすすりながら、擦れた声を出す。
「私、きっと糾弾してた。どうして外したの? ってその子のミスだけを責めた。自分が得意だから、できるからって、いい気になってた」
涙をすするたびに頭が上下し、髪の毛が揺れ動く。
「でも私、やっぱり思い出してしまう。私がフリースローを外して、みんなから責められる場面を。そう思ってしまう私が嫌い。一度でも怒ったらみんなが離れてしまいそうで、みんなのことを疑う私が、私が一番、嫌いです」
「私がリバウンド取るから!」
いきなり声が聞こえてきて、思わず後ろを振り返った。柚香が扉の前で立っていた。その後ろには美玖と睦月もいる。
「柚香? ……え、みんな、どうして」
「どうしてじゃないよ!」
叫んだ柚香が知佳に駆け寄って、そのままの勢いで抱きつく。
「知佳がフリースロー外しても、私がリバウンド取ってあげるから」
「え……あ、え? いつから、何で帰ってないの」
動揺する知佳。
俺は驚きで言葉を失っていた。確かに三人は帰ると言ったはずだ。
「あんなの気づくに決まってるよ普通。ってかバレー部まだいたのに鍵閉めるとかありえないから」
美玖が自信たっぷりに言い放ち、ケラケラと笑う睦月と一緒にこちらへ歩いてくる。
「確かに、そりゃそうだ」
「二人の大根役者っぷり酷かったよね」
「美玖がそれ言う? 二人の嘘に気がついた後の美玖の気づいてません演技も酷かったけど」
「嘘? 私アカデミー賞級の演技したでしょ?」
笑い合いながら近づいてきた二人は知佳の前で立ち止まった。
「え? じゃあ二人とも気づいてたのか?」
「当然でしょ?」
狼狽する俺の言葉を軽く受け流した美玖は、知佳に抱きついている柚香の頭をくしゃくしゃとなでなる。
「でも柚香だけは気がついてなかったんだよね。本当可愛い。大好き」
「だって忘れ物したとしか言ってなかったし」
「あれで気づかないのは逆にすごいよな。それにフリースローのリバウンド取るのは背的に私とか美玖とかだし」
「そう! 睦月の言う通り!」
にたっと笑った美玖は親指をグイッと突き立てる。
「ってか知佳だけじゃなくて、柚香が外したのも睦月が外したのも私が全部取ってあげるよ。フリースローって一点だけど、リバウンド取ってから入れたら二点だから、ある意味お得じゃん!」
「おお、それは頼もしい。じゃあ私フリースローのリバウンドしないんで、その時はよろしく」
「あの勝手に盛り上がっているところ悪いんですけど」
楽し気な空気の中、悪いとは思ったが口を挟まずにはいられなかった。
「何でみんながここに? 嘘って分かってるなら何で帰ったふりしたんだよ?」
「だって知佳と監督ができてるのかと思ったから。でしょ?」
美玖が真顔で答え、同意を求めるような視線を睦月に送る。
「まあね。あのやり取り見たら、二人ができてるって普通思うよ」
「できてるって? 何が?」
「だ・か・ら、夜の学校で二人、あーんなことやこーんなことをするために私たちを撒こうとしてたんじゃないかってね」
やたらと扇情的な美玖の声のせいで、体がかぁっと熱くなっていく。
「そんなわけないだろ! ってかもし本当にあーんなことやこーんなことをしようとしてたらどうするつもりだったんだ。盗み見しようとしてたってことだろ?」
「それはそれで面白そうじゃん」
「そんなのどうでもいい!」
知佳が会話を断ち切る。頬の上を透明な涙がはらりと滴っていく。
「どこから、聞いてたの?」
「まあ、割と最初の方から」
ジャージのポケットに両手を突っ込んでいる睦月が平然と言った。ごまかすよりもかえってその方がいいかもしれないとは俺も思う。
「どうしようかなとは思ったよ。何回か美玖と顔見合わせたし。聞かれたくないことだよなとも考えた。でもそう思ってるうちに柚香が飛び出していったから」
「あれは、知佳のことが心配で、我慢できなくて」
「そう」
知佳の顔から血の気が引いていく。蒼白というより、完璧な白だ。
「……じゃあ私がみんなをその、信じられないっていうのも」
「ってかさ、私めっちゃ知佳から怒られてるよね?」
とぼけた顔で言った美玖が、確認をとるようにしてみんなを見渡していく。
「ほら、なべっちを最初になべっちって呼んだ時とか」
「あれは……怒るというより、目上の人に対しての礼儀を」
「私、あの時もそうだけど別に嫌な思いしてないなぁ。むしろそれがないと落ち着かないし」
「私もだよ、知佳。だって知佳に怒られたら、絶対そうだよねって納得するもん。私たちのこと思って言ってくれてるんだぁって思うもん」
柚香は知佳の震える体をぎゅっと抱きしめ直す。
「ま、二人みたいなドエムじゃないけど、私も別に気にしないし」
睦月は知佳の隣に胡坐をかいて座った。上半身をゆっくりと傾けて、知佳の肩にぴとりと自分の肩をくっつけて寄り添う。
「それにさっき言ってた試合さ、知佳がフリースロー外したとしてもそれこそリバウンド取ればいいだけの話だよ。何なら後八秒あったんだから、負けたのって知佳のせいじゃない」
「うんうん。睦月の言う通り。バスケはチームスポーツだからね! ってか私ドエムじゃないし! 私がドエムだったら気にしないっていってる睦月も同類じゃん!」
「私は美玖みたいに怒られたいとは言ってないから」
「私も怒られたいとは言ってな……まあ、知佳からだったら少しくらいなら」
体をよじらせながら恥ずかしそうに呟く美玖。
「ほら認めた」
「そうだよ。ドエムなのは美玖だけだから」
「今のはそういう流れだったじゃん! ってか柚香も裏切らないでよ!」
美玖のツッコミで爆笑する三人。
夜空によく響く笑い声を聞いていると、ああこの子たちの監督になれて幸せだなぁと改めて思うことができた。
「じゃあ、じゃあみんなは……」
知佳の目から大粒の涙が零れている。
「私がキャプテンでいいの?」
そう問われた三人は、互いの顔を確認した後、同タイミングで破顔して、せーので口を開く。
――もちろん。
三人の声が共鳴する。柔らかな笑顔に包まれた知佳は嬉しそうに涙を拭っている。
「それにさ、今なべっちが持ってるの知佳が作ったんでしょ? 一人でこんな可愛いの作るなんてすごいよ」
そう言って美玖が俺の手からクリアファイルを奪い取る。きらきらとした視線でチラシを見つめ、満足げにふっと息をはいた。
「でもさ、今度はみんなでやろうね」
「うん。ありがとう」
感謝の言葉を述べる知佳を見て、チームメイトってこうだよなと思う。一人はみんなのために、みんなは一人のために。それをこの子たちは体現していると思った。
「それじゃあ知佳。俺からも改めて」
立ち上がって、まっすぐに知佳を見つめる。知佳がしっかりとこちらを見つめ返してくれたのを確認してから、
「知佳。バスケ部のキャプテンになってくれるか? こんなに仲間から慕われているんだ。やっぱり知佳は素敵な人間だよ」
中学時代の失敗に気がついて、それを認めて反省した時点で、知佳がもう同じ失敗を繰り返すことはない。過去から学んで成長できることも、知佳がキャプテンとして相応しい要素の一つである。
「はい。喜んでお受けいたします」
涙はまだ流れていたが、知佳はその言葉にしっかりとした強固な心を込めてくれた。
「もう畏まりすぎ。なべっちに敬語使う必要なんかないって」
せっかく感動的な空気だったのに。やっぱり美玖は俺のことを舐めてないか? ここは怒っていいぞ知佳。俺が許す。今だけはどんなに美玖のことを糾弾しても構わないから。
「分かった。じゃあ私もそうする」
「いやそこは怒れよ!」
「うわぁ。知佳に怒って欲しいって、なべっちまさか超ドエム?」
卑しいものを見るような目で美玖が見てくる。今のをどう解釈したら俺が怒られたいって言ったように聞こえるんですかね。
「知佳気をつけろ。もしかしたら知佳のこと狙ってるかもしれない。さっき素敵とか言ってたし」
睦月がまた悪乗りに参加してきた。
「え、そうだったんですか監督。ごめんなさい本当に無理です」
ついに知佳まで毒されてしまった。
「そんなわけあるか! 俺は監督なんだから」
「え……私のことそんな嫌いだなんて……酷いです」
知佳が傷ついて泣いている――ふりをしている。さっき涙が止まったの見てるからね。ああ、防波堤役の知佳が波にのまれたら誰が歯止めをかけてくれるというんだ。
俺は縋る思いで柚香に助けを求める。
「知佳を泣かせるなんて、男として最低ですね」
ああ、柚香までもそっちに行ってしまった。
「だから違うって。俺は知佳のことが嫌いじゃないから」
そう弁明すると、美玖がその言葉を待ってましたと言わんばかりに、
「うわーやっぱなべっち告白してきた! 知佳のこと大好きだって!」
「だからそうじゃないって!」
「え、じゃあ嫌いなんですか?」
「そうでもないから」
「やっぱり好きなんじゃないですか」
この堂々巡りはいつまで続くのだろう。まあ悪い気はしなけど、少しは監督を敬う気持ちを持てよー!
第二章終了です。




