10.だれかを支えるということ
フロアにはバレー部が残っていたので、とりあえず俺たちは体育館のテラスへ向かった。まあテラスと言っても、意識高い系が予定のことをアジェンダと言ったり、自称お洒落な女子がひざ掛けをブランケットと呼ぶのと同じで、そういう大人びたことに憧れを抱く女子高生たちが三畳くらいのベランダのような狭いスペースをそう呼んでいるだけだ。なので実際に行ってみると、コンクリートがむき出しになっている冷たく地味な場所という印象しか受けない。こじゃれた木製のアンティーク風ベンチなどはなく、各部活が練習で使用するゼッケンなどを干すための錆びついた物干し竿が置かれているだけだ。
俺は落下防止用に設置されている二メートルほどの金網フェンスに背中を預けて立っていた。知佳は右手をフェンスの網目にかけて、闇に染まった空を虚ろな瞳でじっと眺めている。儚げな少女というのはいつの時代も美しい。触れてはいけない脆弱性を孕んでいる。いつも後ろでくくってある知佳の髪は、練習後ということもあってかほどかれており、先程から冷たい夜風に吹かれ、はらはらとどこかへ攫われてしまいそうになっている。
「すみません。私がもう少しうまくできていれば」
謝罪の言葉から始まった。さっきの美玖たちとのやり取りのことに対してだろう。
「そんなことはないから。だって俺は監督だから、部員のためなら何だってするさ」
「ありがとうございます」
俯きながらそう言った知佳は、控えめに唇を噛みしめている。フェンスを握る彼女の手に力が入り、金網がギギと悲鳴を上げる。
知佳はまだ迷っているのかもしれない。
彼女はキャプテンをやりたくないとは言っていないのだ。
辞退したい、と言っているのだ。
「なぁ、知佳」
彼女の本当の気持ちを知るため、俺の方から訊いてみることにする。
「キャプテンについてなんだけど」
「そういえば私、部員勧誘のためにチラシ作ってきたんです。これを学校の掲示板に貼ればいい宣伝になると思います」
俺の言葉を遮った知佳は、黒のエナメルバックから透明のクリアファイルを取り出した。それを受け取って、素直に一言声が零れる。
「すごいな」
知佳が作ってくれたバスケ部員募集のチラシは、カラフルな蛍光ペンで装飾された手作り感満載の代物だった。親しみやすさが前面に感じられ、何より単純に目を引く。
「これ、一人で作ったのか?」
「メンバー集めないとそもそも廃部なので、これくらいします」
大真面目な顔でそう言えるあたりが、キャプテンにふさわしいことを証明している。知佳は当たり前だと思っているのかもしれないが、思うと実行するの間には天と地ほどの差がある。
「ありがとう。助かるよ」
「いえ、キャプテ……今のところはですけど、私が率先しないといけませんので。部員の問題は部として考えなければいけない最重要事項ですから」
辞退するつもりでも、キャプテンである以上はその役割を全うしようとする。その姿勢は尊敬に値する。俺自身、知佳から学ぶべきことはまだまだたくさんあるだろう。
「言い直す必要なんてないのに。俺は知佳がキャプテンで大正解だと思うけどなぁ」
美玖の明るさをまねるようにして言ってみた。
しかし知佳は目を伏せながら小さく首を振って否定する。
「そんなことは、ないです」
「そんなにも、どうして自分がキャプテンに向いてないって思うの?」
そう問うと、知佳は胸に拳を押し当てて瞼を閉じてしまった。頬がひくひくと震えている。
「それは……一番うまくないから」
髪の毛が風でなびいて知佳の表情を隠してしまう。
うまくない、か。
昔は俺も気にしていた。
でも好きなものはやっぱり好きだから続けてきたし、そのおかげで今があると思っている。
「うまくないって、それはバスケのうまさってこと?」
「はい。今いる部員をバスケのうまさだけで並べるとしたら、私は一番じゃない」
胸の目でぎゅっと握りしめられた拳が小刻みに震えている。儚げに苦笑するのと同時に、ふわりと拳から力が抜ける。
「みんなと比べて、私は何もない」
風の音に負けてしまいそうなほど、小さな声だった。
知佳はそんな理由でキャプテンになれないと本気で思っているらしい。部の中で一番うまいやつがキャプテンをする。もしそれが正しいのであれば、キャプテンはそのチームのエースしかできないということになる。もちろんエースがキャプテンをやっている部もあるだろうが、そうではないところも往々にしてあるはずだ。
「知佳はどうしてそう思うの?」
だからこそ俺は知りたかった。エースでなければキャプテンになれないと思っている理由が分からないと、知佳の悩みを解決することができないからだ。
キャプテンに向いていないことが悩みではなく、そう思わせている何か、が本当に知佳が悩んでいること。表面ではなくその本質を見極める。睦月から教わったことだ。
「どうして、って?」
「キャプテンはうまい人がやらなければいけないって、何がそう思わせているの?」
首を傾げた知佳は顎に手を当てて、じっと考えてから、
「それは……説得力がないから」
「説得力?」
そしてそれを掘り下げていくのは聞き手である俺の役割だ。
「はい。やっぱりうまい人じゃないと、みんなはついてこないんです。うまくなければキャプテンとしてみんなを叱っても説得力がない。中学の時、私はそれを痛いほど思い知らされたから」
知佳は両肩を震わせながら苦しそうに腕を抱く。
「よければ聞かせてくれるかな? その理由を」
と問うと、知佳はすがるような弱々しい瞳を俺に向け、
「みんなには、内緒にしてくれますか?」
「ああ。安心しろ」
「ありがとうございます」
知佳はふっと笑みをこぼしてから、眉間に少しだけしわを寄せて表情に寂しさを滲ませる。
「これは前に言ったと思うんですけど、私は中学の時もキャプテンでした。けれど私はそのチームのエースだったわけではありませんでした」
何か体を支えてくれるものが欲しかったのか、ゆっくりと体を反転させてフェンスに背中を預ける。
「そこで私は一生懸命チームをまとめようと頑張りました。嫌われるのを覚悟でみんなを何度も叱りました。チームを勝たせるのはエースの役目、チームをまとめるのはキャプテンの役目だから。心を鬼にして」
確かにチームが勝つためにエースは点を取らなければいけないし、チームがまとまるためにキャプテンは奮闘するべきだと思う。
「でも私にはできなかった。いくらチームを引き締めるために怒鳴っても、みんな私にはついてきてくれない。エースの子のおかげで試合には勝つことができていたけど、チームはバラバラになる一方だった。どうしていいか分からなかった」
知佳はついにその場に座り込んでしまった。両ひざを立てて、太ももの裏で腕を組んで、モデルのようにスラっとした体を最大限に縮こまらせる。
「そして、その日が来た。あれは二年生の二月、確か県の冬季大会だった。その準決勝で、私のチームが一点負けている状態で残り八秒。私がファールを受けてフリースローを打つ場面だった」
フリースローとはバスケで唯一、完全なノーマークで打つことのできるシュートである。それゆえに、フリースローの成功率は勝敗に大きな影響を与える。
「私はフリースローには絶対の自信があった。でも、その試合で私はフリースローを外した子を怒っていた。どうして外すの? 練習したの? って。それが脳裏によぎったらもう離れてくれなくて、失敗できないと思ったら、途端に緊張して」
バスケに限らず、勝負ごとにおいてその試合を決める場面というものは確実に存在している。それは試合後に分かる場合もあるし、試合中にその場面がやってきた瞬間に本人が自覚することもある。
知佳が言っていることから推測すると、自分のフリースローが勝負の分かれ目になってしまった、それを自覚した、ということらしい。
そもそも俺は試合に出ることが極端に少なかったから、勝負の分かれ目が自分という経験をしたことはない。だが、チームメイトがそういう場面に出くわしているのを何度も見たことがある。その試合が重要であればあるほど、想像を絶するほどの嫌緊張が襲ってくることを、彼らの表情から察することは容易だった。
「結果私は、二本とも外してしまって、チームは勝利を逃しました」
話す前から、その結末がやってくることは分かっていた。知佳のひどく震えた声を聞いて、ハッピーエンドを想像する方が難しい。
「そしてそれ以来、私はフリースローが入らないんです」
体を丸めた知佳は、そのまま夜の闇に混ざって消滅してしまうそうだった。
イップス。
いつかのテレビ番組で特集されていたその言葉が脳裏をかすめていく。




