5.天から与えられた使命
桜ヶ丘駅のホームは二階にある。青いプラスチックのベンチに俺と睦月は隣同士で座って電車を待っていた。
夜の静けさがホームを廃墟のような雰囲気に仕立て上げている。人はそれなりに点在しているのに、そのほとんどがスマホや文庫本に視線を落としているため、異様なまでに静かだ。自動販売機の稼働音や、無機質な足音など、無音ではないところがかえって静寂を強調させてしまっている。
夏希楓の勧誘は失敗に終わった。けれど彼女がバスケをしたいと思っていることは間違いない。後悔というか、現状に対する怒りのような感情まで垣間見ることができた。バスケが好きだという思いは、それほどまでに強いということだ。
「ごめんなさい。親のせいとか、勘違いだった」
睦月はばつが悪そうに背中を丸め、俺が買ってあげた缶コーヒーを両手で握りしめている。ちなみに俺はコーヒーが飲めないのでホットココアにした。
「謝ることないよ。今日話せたおかげで、夏希さんの悩みが分かったから」
睦月を励まそうとそんな言葉を口走る。けれど理由が分かっただけでしかない。バスケにも、もちろん勉強にも才能なんて感じなかった俺からすれば、才能のある人が抱く恐怖にも似た切迫感に共感することはできないのだろう。
「なべっち監督はそう思うんですね」
睦月は缶コーヒーのプルタブをじっと見つめながら、不服そうに呟いて、
「私は違うかなって、そうじゃなさそうだなって楓の話を聞いて思いましたけど」
「え?」
反射的に訊き返していた。
そうじゃなさそう。
いったいどこに対して言及しているのだろう。夏希さんの話は、不必要な思い込みの塊ではあったものの、すごく説得力のある言葉だと思った。
「いや、別に何となくですけどね」
睦月は微苦笑をひけらかす。すぐに目を伏せて表情に翳を作り、どことなく寂しげに言葉を吐露していく。
「私はいまいち納得できなかったんです。楓の言ってることは感覚的になら分かるけど、腑には落ちてないっていうか、嘘のような気がして」
嘘。
その言葉の持つねっとりとした響きに驚く。俺は夏希さんの言葉をそのまま受け取ったのだが、どうやら睦月はそうではないらしい。
「どういうこと?」
問うと、睦月は眉間にしわを寄せ難しい顔をしてからゆっくりと目を閉じた。そのまま五秒、十秒と時間が過ぎていく。
ホームを冷たく乾いた風が流れていった。
その風が止むと同時に言葉がまとまったのか、睦月は瞼をゆっくりと開いた。表情は曇っていて、やり場のない思いを感じていることが如実にうかがえた。
「何て言うんですかね。私にはバスケも勉強も才能があるわけではないし、というより自分が何に向いているのか未だに全然分からないけど」
言葉を慎重に選びながらといった感じの喋り方だった。
「でも楓は一度バスケをしてるんですよ」
力のこもった声で、丁寧に言い放つ。眉尻をひそめつつ言葉を続ける。
「中学に入った時から楓は群を抜いて頭がよかった。きっとその時から自分の才能には気がついていたはずなのに、今日は断ったバスケ部に入っていた。だから私には理由が後づけにしか思えない。バスケをしないための理由を何とか探し出して、見つかった理由がそれだったような気が、私にはする」
それが正しいと言わんばかりに何度も頷きながら言い切った。
確かに、言われてみれば睦月の言う通りかもしれない。
夏希さんは、自分には勉強の才能があり、自身でそれを自覚しているから勉強をしなければいけない、だからバスケはできないと言った。中学生の時は才能に気がついていながらも好きなバスケをすることを選んでいるというのに。
「つまり睦月は、夏希さんがバスケを避けている理由が別にあると」
「まあ、そういうことです」
真剣な眼差しを湛えて首肯した睦月は、
「楓が才能を天から与えられた使命みたいに思ってるなら、中学の時もバスケはしてないはずなんです」
「なるほどな」
納得させられた。
しかしそうだとするならば、どうして夏希さんは嘘の理由をついたのだろう。いや、普通に見ず知らずの男がいる前で本当の理由を話すわけがないか。心の中に押しやっている本心を話すのってとても勇気がいる。だからこそ、本来は誤魔化されることを想定したうえでの行動が求められていたのに、俺は夏希さんが言ってくれたことを鵜呑みにしてしまった。睦月がいなければ、知ろうとする努力を行うことすらしなかっただろう。
「今思うとおかしかった。楓は中学の時にバスケ部をやめた時も、私は勉強だから、ごめんね、って言ってました。私は楓の家庭環境とか考えて、親から勉強に集中するように言われたんだって思い込んだけど、楓はバスケ部時代に成績は下がってなかった。学年一位だった」
「つまり夏希さんがバスケをやらない理由は他にある……ってことか」
睦月が太ももの上で握りしめているコーヒー缶がピキピキと悲鳴を上げる。
「そしてそれは……人に言えない、楓の根幹に触れるような理由」
その声に混ざっていたやるせなさが、駅のホームに充満していく。突然吹いた強風も俺たちの髪をなびかせるだけで、空気を循環させることはできなかった。
「そうだよな。そのはずなんだよな」
夏希さんが嘘で囲ってまでして守りたかった理由は一体何なのだろう。夏希さんに訊いても絶対に教えてはくれないということだけ分かっている。何かヒントになるようなものはないだろうか。
「ますます難しいな」
頭を抱えるしかなかった。どうやったら夏希さんはバスケをやろうと思ってくれるのか。中学校のころのどんな出来事が、夏希さんの心から光を奪ってしまったのか。皆目見当もつかない。
「楓。どうしたらまたバスケをしてくれるんだろう」
隣でしんみりと独り言ちた睦月の声を聞いて、その姿を見て、ふと思いついた。
今ここに、夏希さんの中学時代をよく知っている人物がいるじゃないか。
「睦月は、何か思い当たることない?」
睦月と夏希さんは同じバスケ部だ。夏希さんが途中でやめたとはいえ、二年間も一緒に過ごしたのだ。しかも、まあ何というか、昔はかなり仲がよかったことが互いの反応と今の微妙な距離感から容易に想像がつく。睦月の思いの強さを知っているから、そう判断できる。
「思い当たること……ですか?」
「うん。部活をやめる理由について。何か本人の中であったんだと思うんだけど」
腕組みして考え始める睦月。
「いや……特にはなかったと。本当にいきなりでした」
「どんな些細なことでもいいんだ。夏希さんがやめる前後で何かなかった?」
前のめりになって睦月に詰め寄る。聞いた後で、睦月の顔が彼女の吐息を感じる事ができるくらいに近くにあることに気がついた。その状態で目と目が合ってしまった。
どうしていいか分からず、至近距離で見つめ合う時間が続く。
「顔、近いから」
頬を朱に染めた睦月に、顔を両手で押しやられる。睦月の手のひらには太ももの上に乗せられている缶コーヒーから伝わった暖かさが蓄えられていて、でも冷たい部分も確かにあって、何が言いたいかというとすごくくすぐったかった。
「あ、ごめん」
ついつい昂ってしまった感情を鎮めようと、横に置いていたココアの缶を手に取る。プルタブをカチッと開けてココアを口に含み、その甘さをゆったりと舌で感じながらほどなくして飲み込む。
その間、顎に手を当てて考え込むような仕草を見せていた睦月は、
「…………あ」
何かを思い出したかのように呟いた。茫然とした表情のまま淡泊な声で言葉を続けた。
「そういえば、確か楓はレギュラー落ちした」




