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4.最初の一歩を踏み出しさえすれば

「睦月……、ひさ、しぶり」


 気まずそうに返事をした女生徒は、背負っているリュックの肩ひもをきゅっと両手で握っている。女の子にしては背が高く、手足も長いので印象的には俺と同じか、それ以上にも見えてしまう。肩の辺りで内側に巻かれている髪はただでさえ小さな顔をさらに小さく見せている。物静かな佇まいを持った知的そうな女の子だ。


「高校入ってからは……初めてだっけ? 喋るの。クラス別だし棟も違うし」


「そう、だね」


「でも楓すごいよ。スパ特でしょ? 普通科と違ってすごい偏差値高いし」


「そんなことないよ。私より頭いい人なんていっぱいいるから」


 そんな感じで、睦月と夏希楓が言葉を交わし始める。俺からしたら、バスケの話題以外を使ってどこか牽制し合っているようにしか見えない。舌戦の前の静けさといった感じか。二人が会話している間に、夏希さんと一緒に課外を受けていた何人もの優等生が俺たちの横を通り過ぎていく。どうやらその人たちからすれば一人の男を二人の女子が取り合っている構図に見えたらしく、やたらじろじろと見られてしまった。ごめん俺の誇張妄想です。多分、校門前に見知らぬ男がいるからだよね。ただそれだけだよ。一体いつバスケの話題を出したらいいのかタイミングが分からなくてド緊張しているから余計不審者に見えるのかな。


「そういえば、私バスケ部入ってるんだ。今年から新しくできた」


 だから睦月が何のためらいもなくその言葉を発した時は、すごいなと思った。睦月は何食わぬ顔で返事を待っている。


 夏希さんは、その長い睫毛を強調させるかのように目を伏せた。


「うん。知ってる。すごいよね。新しく作るなんてさ」


 言い終えた夏希さんが唇を噛んだ。ように見えた。それからゆっくりと口を開けて何かを言いかけて、結局何も言わずにそっと閉じる。顔を上げて睦月と目を合わせたと思ったら、すぐにまた俯いて表情が翳を帯びていく。


「でもまだ四人しかいないんでしょ? 部員」


 震えている、棘のある声だった。その事実を知っていることに驚いた。もしかすると夏希さんは今の言葉を皮肉のつもりで言ったのかもしれないが、それは皮肉を言いたくなるくらい、バスケをしている睦月を羨ましがっているということを意味している。本当は、夏希さんもバスケがやりたいのだ。


 つまり彼女が入部してくれる可能性は大いにある。障害さえ取り除いてあげればいい。親の言うことを聞かなければいけないという謎の思い込みを解きほぐすのは難しいかもしれないが、そのせいで好きなものを好きだと言えない方がおかしい。陳腐で非論理的な思い込みは好きという気持ちの前に立ちはだかるべきではない。無様に倒されるモブの悪役であるべきなのだ。


「やっぱりバスケ部のこと気にしてくれてたんだ」


 どうやら睦月も夏希さんが言った皮肉を肯定的に捉えているようだ。返答の声にも嬉しさが表れている。


「気にしてたっていうか、まあ、それは……」


 皮肉を皮肉として捉えてもらえなくて動揺したのか、夏希さんは黙ってしまう。睦月が一気に核心に迫っていく。


「だから私たち、ここで待ってたの」


 その言葉には強固な魂が宿っていた。


「楓をバスケ部に誘おうと思って。絶対に入部して欲しくて」


 優しさのこもったまっすぐな瞳で夏希さんを見据えている。


 口をぽかんと開けて睦月の言葉を聞いていた夏希さんは、今度ははっきりと唇を噛みながら顔を逸らした。


「でも私は……ごめんなさい」


 そう言いながら深く頭を下げた。


「だって、私……勉強があるから」


「どうしてそんなに勉強をやらなきゃいけないと思うのかな?」


 俺はようやく口を開いた。泣いている子供を慰めるように、努めて優しく言葉を投げかける。


「え?」


 質問の意味が分かっていないようで、顔を上げた夏希さんはぱちぱちと瞬きを繰り返している。もしかすると、今まで黙っていた男が急にしゃべりだしたことに驚いたのかもしれない。絶対にそっちだ。


「あ、ごめん。俺はバスケ部の顧問の渡邊っていいます」


 軽快を解くために自己紹介をすると、夏希さんは小さく会釈をしてくれた。


「で、さっき言ったことなんだけど。君はバスケ部に入れない理由として勉強が……って言ったよね?」


 夏希さんがこくりと頷いてくれたので話を続ける。


「それってさ、勉強をしてるのって、夏希さんの意志なのかな?」


 夏希さんの頬がピクピクと動くのが見えた。表情が歪み始める。やはりそうだ。勉強をしているのは、夏希さんの意志ではない。たたみかけるなら今しかない。


「俺はね、好きなことをしてる方が人って輝くと思うんだ。親に気をつかって自分の気持ちをないがしろにしてたら、本末転倒じゃないかな? どうして子供が、親を立てなければいけないんだろう。そんなの誰が決めたんだろう」


 説得しながら、自分自身が違和感を覚え始めていることに気がつく。


 夏希さんの表情が、想定外の動きをしているのだ。


「まあ、俺だって勉強しろっていう親の気持ちも分かる。子供のことを考えているが故の感情だし、愛情の一種だし」


 そう言っている間に夏希さんが目を伏せる。瞼が瞳を半分覆い隠してしまった。


「でも親ってさ、好きなことをするための最初の関門だと思うんだよ」


 閉じられた唇は、ため息をせき止めたようにも見えた。


「親に自分の気持ちを伝える。反対されても押し通す。好きなことをしたいって気持ちには、それだけのエネルギーがあるし、それは絶対に人に伝わる。最初の一歩を踏み出しさえすれば、後は好きだって気持ちが、全部何とかしてくれるんだよ」


 彼女は落胆している。そう悟った。俺の言葉は彼女の心に全く響いていない。


 言っていて虚しくなった。けれど言葉を続けていくしかない。


 僻見が固くしてしまった彼女の心には、一体どれほどの頑丈な鎖が巻きついているのだろう。


「だから夏希さんも、バスケをやろうよ」


「……ごめんなさい」


 やっぱり返事はごめんなさい。


「それに私の親は、別に反対はしてないと思います」


「え?」


 思わず訊き返す。睦月を見ると、嘘でしょ? と言わんばかりの顔をして夏希さんを凝視していた。


「いや、もしかしたら聞いたことないだけで、本当は反対なのかもしれないけど……」


 夏希さんはそう前置きをしてから、


「でも、私は勉強だから」


 意味が分からなかった。俺たちの疑心が夏希さんにも伝わったのか、理由を説明してくれる。


「何ていうか、東大に行ける人って、東大にしか行けないですよね?」


 もっと意味が分からなかった。


「いや、東大に行けるなら、どこにでも行ける学力があるってことだから」


 夏希さんは俺の言葉を切り捨てるように首を横に振った。


「ううん。どこにでも行けるじゃなくて、東大に行ける、なんです。色んなものが邪魔をして、東大にしか行けなくなるんです。東大に行けてしまう勉強の才能を持っている人は、そういう縛りを世界から喰らってしまうんです」


「もっと私たちに分かるように説明してよ」


 睦月が少し前のめりになって問いかける。


「じゃあ」


 夏希さんは少し考えるようなしぐさを見せた後、


「これは例えが大げさかもしれないですけど、百八十キロの剛速球を投げて甲子園全試合完全試合達成、ホームランも高校歴代最高本数記録、そんな高校生がいるとして、その子が数学の学者になりたいって言いだしたらどう思いますか? ちなみに数学の成績は人並みだと仮定して」


「それは……そんな才能があるのにもったいない、野球を続けた方がいいって思う」


「それと一緒です」


 睦月も何となく察したようで、黙り込んでしまった。


「その子は野球の才能があるって分かってしまった。本当になりたいものではない才能に気づかされた。でもそれ故に、親、教師、同級生、親戚、世間、その全てからなりたいものになることを止められる。その子自身だって、このまま野球をすれば確実に成功する、ちやほやされ続けるのにっていう思いを抱くはずです」


 才能。


 普通の人にとって、いくら探しても見つからないおとぎ話のような概念が、自分が好きではない何かで見つかってしまった。


 夏希さんにとっては、勉強がそれだった、ということなのだろう。


「それに野球はまだ自分で始めた可能性だってあるから、まだ好きじゃないって気がついても諦めがつくのかもしれない。けど勉強は全ての日本国民が一様にやらされることだから、自分の好きで始めることじゃないから」


 悔しさが震える語尾に表れている。


 俺も睦月も、それ以上説得の言葉を見つけ出せなかった。


「だから私は、勉強なの」


 夏希さんは所在なさげに自身の腕を抱いて、もう塾の時間だからごめんなさい、と頭を下げて去っていった。

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