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錯乱が隣室へ伝播したように、サハラの強い決意が僕にも伝播した。思いとは時々そういった伝わり方をすることがあると僕は信じている。
とはいえ、帰途に就いた僕は少なからず後悔していた。僕はどうして首を横に振らなかったのだろう。どうしてサハラは僕を仲間に加えようと思ったのだろう。もちろんサハラが声を掛けた人物はもうひとりいた。大男のヤマシタだ。つまり僕らは三人でホヅミを救出する誓いを立てた。
サハラはまずホヅミが向かったであろうオセアニアに行きたいようだった。だが、オセアニアは超大三国の中で最も大きな国だ。シドニーもオセアニアだが、ロンドン、バンクーバー、サンフランシスコ、リオだってオセアニアだ。当然だが、ホヅミがオセアニアのどこに向かう『船』に乗ったのかを知る必要がある。
「ホヅミと初等部や中等部で一緒だったやつらが何か聞いていないか探ってみる。同時進行で『船』を手配しよう」
サハラは簡単に言ったが、やはり行き先がわからなくては手配のしようが無いように思えた。
「ホヅミがどの航路を使ったかわかるまでは、全ての航路の便を調べておいてくれ。もちろん『船』が消えた時までに就航していた便だ。報道によれば『船』が消えたのは二三日だ。だから、二一日か、二二日頃にニホンのどこかから出航する『船』のはずだ」
「トウキョウ発とは限らないのか。じゃあそれは俺がやるよ。ニホンの『港』を全部調べるのは骨だけど」
ヤマシタがそう大きくない『船』の時刻表と格闘する様は、想像する分には微笑ましかった。
僕は完全にその気になったわけではないが、サハラとヤマシタが進むべき方向性を確認したことを受けて、僕としても何かをしていなければ落ち着かない心情となった。少しずつ解散している他クラスへ聞き込みに向かうサハラを呼び止めて、僕はたずねた。
「僕を仲間に加えたからには、僕に何かしてほしいことがあるんだろ?僕は何をすれば良い?」
サハラは振り向いて、僕の顔をまっすぐに見た。
「お前にできることなら何でもやれ。どうしたら、何をしたらホヅミを救えるかなんて誰にもわからない。お前を誘ったのは、お前が一番ホヅミを助けたいって顔してるような気がしたからだ。結局そういうやつでないと、こんな事件は解決できないだろ」
口に出さなくても、思いは伝播することがあると僕は信じている。そのとき僕はどんな顔をしていたのだろう。僕はホヅミを心配している。助けたいと思っている。少し伸びた髪を縛る横顔を想い出している。しかし同時に僕は怯えている。ティーンエイジャー三人でやりきれるとは思えないでいる。
サハラの背中を見送って、ヤマシタもまた本屋へ寄るために下校の途に就いた。もちろん本屋に立ち寄るのは就航している便の情報を得るためだ。もしもサハラの要請を断っていたら僕は平穏でいられただろうか。もしもサハラに誘われなかったらどうだろう。あるいは席替えでホヅミと隣席にならなかったら、たとえクラスメイトが行方不明になっても平穏でいられただろうか。『結局そういうやつでないと、こんな事件は解決できない』。
僕からすれば驚くべき事だが、サハラは解決する気なのだ。サハラには何ができるのだろう。席替えのやり直しについての作戦は見事だった。あの方法でなければいつかはヤマシタが槍玉に挙げられていただろうし、そもそもやり直しは行われなかったかもしれない。
サハラ頭キレる方だ。僕らを巻き込んで突き進む馬力もある。しかしそれは『新人類』としての特殊能力だろうか?ヤマシタの巨体のようにわかりやすく能力が発現する者は少ない。『新人類』と言えども能力を授からない割合の方が多いし、幼い頃に強く、成長するにつれて消えていく場合もあれば、その逆もあるらしい。
僕たちは『新人類』であることにどこか負い目を感じている。それはカワムラのせいだ。僕らは幼い頃から、カワムラという初期の『新人類』、一説には最初の能力者とされている彼と、彼が起こした戦争のせいで新人類で無いイースタシア人すべてから疎まれてきた。
僕らに何かおかしな能力が備わり、いつか悪用されることを彼らは恐れた。その恐れ、忌避が奏功してか、カワムラ以降に大きな問題を起こした人物はいない。言い換えれば『新人類』は自らの能力に気付いても、それが潜在的なものであるならば、可能な限り秘密にすることで世の中と上手く折り合いを付けているのだ。
だから友人であっても互いの能力について敢えて話題にすることは無い。しかし、こういった非常時にあっては、能力者は頼りになることを僕は実感している。ヤマシタの巨体と怪力は隠しようのない能力だ。そのことで周りは常にヤマシタを警戒してきた。彼がその恵まれた体格で暴れ回れば、平均的な人間には手が付けられない。彼を見た者は誰もが一度は怯む。もちろん彼の心根の優しさはすぐにわかったのでその感情は持続しなかったが、僕も高等部で初めて彼に会った時には驚いたし、恐怖も覚えた。
能力は人それぞれだが、総じてそれが知られると他人を恐怖させる。しかし今僕は、能力者の助けを借りたいと思っている。ヤマシタは白兵戦になれば無類の戦士となるだろう。
まだあまり覚えていないクラスメイトの顔を思い出してみる。能力を持っていそうな者は思い当たらない。中等部や初等部で同級生だった者に思考を移してみるが、やはり心当たりは無かった。事ここに至っては、僕らは能力について秘匿し過ぎてきた。サハラは能力者だろうか?どんな能力であっても、それは今後の助けになるように思われた。
考えがまとまらないままに歩いていると、やがて霧が出てきた。瞬く間に濃度を増して、数十センチメートル先も見えなくなった。間もなく雷への警戒を促すサイレンが鳴り始めるだろう。そうなってからでも十分な程度に雷シェルターは点在しているが、限られた視界に僕は不安を覚え、背負っていた鞄を探ってランプを取り出した。霧の時はBVとの接触事故の危険もあるので、歩行者は電磁ランプを掲げることになっている。この光は周囲の霧に乱反射して他者からの視認性を高めてくれるが、掲げた者自身が何かを見えるようになるわけではない。乱反射は言ってみれば周囲からまんべんなく光を当てられているような感覚で、僕はさらに視界が限定された。ほとんど何も見えないが、とにかく踏みしめる歩道の感覚を頼りに進むことにする。
BVは低速域ではほとんど音が出ない。僕は前方にも背後にも耳を澄まし、BVのライトが近づいて来ないか目を凝らす。僕らは生まれる前から大地は空中にあって、霧にも雷にも慣れている。
大地の切れ目へ行くと深い谷になっていて、濃い青色がどこまでも続いている。時々は雲が掛かっていて、角度によって自分の陰を雲に投影できる。雲は上空にあることもあれば、眼下に見えることも、霧となって周りを見えなくすることもある。雷を抱いた重く厚い雲はクッションのように受け止めてくれそうに、そのうえとても近くにあるように見えるので、陸地の端から飛び降りてみたくなる強い衝動を誰しも抱いたことがあると思う。とにかく僕らにとってはこれが世界であって、ここ以外には無いのだ。
足の感覚を頼りに少し進んで、シェルターに辿り着けた。意外なことに、そこにはすでに避難している者がベンチに腰掛けていた。
「ひどい霧ですね」
「恵みの霧ですね」
シェルターで誰かに出くわした場合には、たいていその言葉が挨拶となる。僕は霧で湿った肌を素手で払った。
「使いますか?」
男はタオルを掲げた。
「いえ、少しでしたから」
すぐに雷への警戒を促すサイレンが響いてきた。このサイレンは多くの場合かなり早めに鳴るので、もし先客の存在に居心地の悪さを感じれば次のシェルターを目指しても十分間に合うだろうが、これ以上濡れると体力を消耗するので、僕はここにとどまることにした。
「ニュース、ご覧になりましたか?」
男は馴れ馴れしくも慇懃な口調でたずねた。僕よりはいくらか年齢が行っていて、二〇代の後半くらいに見える。ストライプのシャツを黒色のパンツに入れていて、揃いのジャケットはベンチに置いてある。
「『船』のニュースですか?」
このところはそれ以外に大きなニュースなど無いが、確認のために僕はもったいぶったように聞き返した。
「そうです。どういう類いの事件なんですかね?」
男は僕が遠慮したタオルで髪の毛や頬に付着した汗を拭った。ほとんどのシェルターには空調が付いているわけでは無いので、この季節はとても暑くなる。僕は男とは違うベンチに腰掛けて外を眺めた。細かな霧の粒子は風に押されて通り過ぎていく。こういう時の霧はすぐに晴れる。いつだったかもこういった具合の霧で、たしかその日はホヅミと何かディーンエイジャーにとっては比較的重大な案件について話をしたような気がする。
「無事だと良いですね、何にしても」
男は返事に思案している僕に見切りを付けて、手帳に何か記入し始めた。足を組み直して机代わりにしている。男は出張帰りにしては荷物が少ない。
男の言葉が意図するように、大事なのは『平和』だ。それも、表面だけであろうと、見せ掛けだけであろうと、わかりやすい『平和』だ。消息を絶った『船』は間違っても撃墜されていてはならない。攻撃したのは万が一にも他国であってはならない。長い戦争や内紛の反動でこの国は事件に対してアナフィラキシーを起こす体質になっている。もしも事実は攻撃であったとしても、それは公の『事実』であってはならない。二〇年前の宗教戦争からこっち、内側でも外側でも誰かが誰かを大量に殺害するような事件は起きていない。それどころか殺人事件すらほとんど発生していない。
しかしそれも、考えてみれば不自然ではある。人間の暴力的な衝動はある日を境に突然発現しなくなるものだろうか?誰かを憎む気持ちや自分を優先する意識は無くなるものだろうか?起こっていないのではなく、報道されなくなっただけかもしれない。そうしてこの国では、大きな事件への耐性が長い時間を掛けて図らずも、あるいは意図的に奪われていったのではないだろうか。
「何かあったんですか?」
男は押し黙っている僕に気を遣うような視線を向けている。自分の言葉を顧みつつも、ティーンエイジャー特有の難しさについて思い返しているような雰囲気だ。
「いえ、『船』のこと、心配だなと思って」
「私もそうですし国中が心配していますよ。いや、世界中が。そんなような報道を見ましたよ」
「世界中が?」
今の僕はその『報道』を鵜呑みにできるような心理状態では無い。それが真実とは思えなかった。これもティーンエイジャー特有の難しさだろうか?
「『船』が沈んだとすればですが、そういった事件は『船』が開発されて以降起こっていないからでしょうね。そこに研究者やエンジニアは注目しているんです」
その報道は僕も見たが、もちろんその時は一連の報道自体を現在ほどじっくりと確認していたわけではなかったので、詳細については思い出せない。
「つまりですね、『船』というのは地面と同じなんです。大地が『遊陸』したその原理で飛行するんです。もしそれが墜ちたとなると、『遊陸』の反対のことが起きる可能性が懸念されるわけですし、もしそうなれば『遊陸』とは比べものにならないほどの被害が想定されるでしょう?」
「もちろんその時はそうでしょうが、あり得るでしょうか?」
「『遊陸』自体があり得るとは思えないような現象ですよ。そしてそれが続いているんです。我々にとってはこれが普通ですが『旧人類』の方たちからしたらこれはとても異常な状況ですし、だから彼らや彼らの影響を受けた人の中には終末論が根強いんだと思いますよ」
男は噴き出す汗を拭きもせずに熱っぽく語った。オセアニア人のような色素の薄い彼の瞳がどことなく妖しく光って見えた。彼が言葉を継ぐまでのわずかな空隙はちょうどサイレンの切れ目でもあって全くの無音で、霧の水滴がシェルターに触れる音すら聞こえそうに思われた。
「だからそういった方たちからしたら、『船』は何者かに襲われたのであった方が、墜ちたよりもかなり良いニュースであるわけです。どちらであっても全員死んでいるのでしょうからね。まあそういう不謹慎な考えを持つ類いの人間もいるということです」
「でも、たとえばジャイロか何かが故障して、連絡手段も喪失している状態で遭難しているということもあり得ますよね?もちろんそれにしたって危険な状態であることに違いはありませんけど」
男の言葉にも、自分の言葉にも絶望感を覚えた。その絶望感に起因する緩やかな吐き気を抑えながら僕は反論した。
「もちろんそれが一番良いんですよ。結局はそうだと私は考えていますし、そうなるような気もします。……気分でも悪いんですか?血の気が引いているみたいに顔が真っ白ですよ。そういう時は膝を立てて仰向けに寝るといくらかましになりますよ。どうぞ私に構わず」
「すみません、失礼します」
僕は言われたとおりベンチに横になることにした。男の茶色い瞳から目を逸らすと、それだけでも少し和らいだ。目を瞑るとどうしても事件のことを考えてしまうが、真剣に考えるほどに吐き気が戻ってくるので、できるだけ何も考えないように努めた。
男がまた手帳を開いた気配を感じた。ペンと紙の摩擦する音がわずかに聞こえる。サイレンは相変わらず聞こえてくるから、もう少しここに留まることになりそうだ。