弐
何か悪いことが起こる時、その直前に嫌な予感がするということは誰しも経験があると思う。
夏休みに入ったばかりの七月二九日、僕らは突然学校に招集された。僕は昨日見た夢を思い出していた。歴史の教科書で見たことのある古代の帆船が巨大な積乱雲が待ち受ける真っ暗な『海』を進んでいる。誰が見ても危険な航海である。荒れ狂う波に対して帆船はあまりに小さく、船窓に見える少女のほかには乗客も乗組員も見当たらない。やがてひときわ高い波が帆船を襲い、船は木片も残さず消え去るのだ。
「お前、ホヅミと仲良かったよな?」
教室に入るなり、サハラに声を掛けられた。取り巻きはおらず、神妙な顔をして何かヤマシタと話しているところだった。
「仲が良いというほどじゃないよ」
それは本当のことだ。僕もホヅミも、同じクラスには中等部で仲の良かった友人が居ないので、授業の合間も自席で過ごすことが多かった。そして席替えによって隣になった。だから自然と少しは会話をしていた。言ってみればそれだけのことだ。まさしくこれは、仲が良いというほどじゃない。
とはいえそれは絶対評価によるものであって、相対評価をするならば、このクラスの中では確かに僕は最もホヅミと仲が良かったと言っても過言ではないかもしれない。
「あのニュース、ホヅミのことみたいだぞ」
僕は心臓が冷たくなるような感触を覚えた。
「知ってるだろ?電磁ビジョンで先週くらいから繰り返し流れてるやつ」
「もしかして、オセアニアに向かってた『船』が……っていう?」
サハラは無言で細かく頷いた。対象の定まらない怒りや無力感。静かに闘志をたぎらせるサハラの代わりにヤマシタが口を開いた。
「誰かが『船』を襲ったのか、『船』に何かが起きたのか、『船』は結局どうなって、乗客は今どこに居るのか、その辺はニュースによれば『調査中』らしい」
心臓は冷え切っていくのに、背中は焼けるように熱い。僕は「そうらしいね」とささやくのが精一杯だった。
「オセアニア軍に拿捕された可能性が高いと思う」
サハラがどこか中空を見つめ続けながら、つまりは『船』を案ずる気持ちや、オセアニア軍への怒りで心を満たしたまま付け加えた。
「サハラはこう言っているし、そう考えてる人も多いみたいだけど、俺はそう思わないよ。イースタシアにしてもオセアニアにしても、もちろんユーラシアにしても、やることは徹底している。『永久紛争』の時は戦闘を毎日繰り返し、それ以降の『恒久和平』では一度も小競り合いを起こしていない。今更になって突然『船』を拿捕したりするか?」
「『恒久和平』だって作られた平和だ。『永久紛争』が限定的な戦闘を電磁ビジョンで大げさに知らせるだけのニセモノの戦争だったのと同じように、『恒久和平』以降は戦闘してませんってことにしているだけの、ニセモノの平和かもしれないだろ?本当は何が起こっているかなんて、自分の目で見なけりゃわからない」
集合時間を五分前にして、クラスメイトはおおむね揃ったように見えるが、ホヅミの姿はまだ見えない。僕らの心配など杞憂に過ぎず、ホヅミはたまたま寝坊しただけであるか、招集に気付かなかったといったホヅミには珍しい失敗であるか、せいぜい風邪を引いて今日は欠席する程度の不運であれば良いのに。
あるいはそもそも本日の議題が「流感に気を付けろ」とか、「地域で不審者が出るから夕方以降は出歩くな」とか、そういった諸注意で済むことを僕は願った。しかしそのような軽微な事件で突然の招集命令が出されるとは思えない。直感的にホヅミが生命の危機に瀕していることは確かであるように思えたし、僕とホヅミの絶対評価法での距離感以上に僕がホヅミを心配している事実が、僕自身としてはいかにも不思議に思えた。
「それで、どうする?僕はどうしたら良い?」