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イトウ先生がイースタシア語の授業を終えると、早速ホヅミは僕の方に体を向けた。眉よりも長い前髪が初夏の熱気で汗ばんでいる。
「ヤマシタ君の席、変わると思う?」
僕らが予想したとおり、イトウ先生は正義漢たちに廊下で呼び止められ、授業は開始が七分遅れた。
「ヨコヤマのおかげで、イトウ先生としてもやり直しやすくなったのは確かだと思う」
その正義漢のひとりはクラス代表のヨコヤマで、クラスメイトの問題行動についての報告と、席替えのやり直しを求め、ヤマシタの特に真後ろの席は電磁白板が見辛いことを付け加えた。
ヨコヤマは責任感は強いがどこか日和見で、昨日の席替え時にはイトウ先生を全面的に支持し、各自にとってこれ以上好い席は無いと言わんばかりだっただけに、イトウ先生としても少々面食らった様子だった。
「やり直しは面倒だなあ」
ホヅミの感想は正当かつ正直なものに思えて、僕は笑った。
「ヤマシタだけを下げるよりは、ルールを調整してやり直すと思うけど。イトウ先生だったら」
ヨコヤマたちの抗議は公然と行われたので、教室の雰囲気は少なからず和らいでいる。紫色に見えた取り巻きたちも今はほとんど透明になっているし、室内の話題はもうすぐ来る夏休みに向けての各種計画がほとんどだ。
「平等っていうのも厄介だよね」
ホヅミは大人びたようなことを軽い調子で口にした。『平等』について真剣に考えている風には見えないが、本心を見せないようにする若者特有の真剣さにも感じられた。
「だってそう思わない?たぶんヨコヤマ君もそう思ったと思うよ。いや、思っててほしいな。だって昨日はあんなに楽観的だったでしょ?実際にはそう単純なものでもないって身に染みてくれている方が、彼のためだと思うんだよね」
僕には、やはり席替えはやり直されるだろうという確信があった。というのも、イトウ先生は席が決まった時、実際には少し複雑な表情をしていた。何人かの生徒に背中を押されたために、その場では再調整し難かっただろうし、高等部での最初の席替えだったので、今回はとにかく実験的な意味合いが強く、ルールを設けるのはおいおいで良いとの判断も垣間見えた。ホヅミはどこか気怠そうに、しかし教室の空気を睨むようにしながらカラフルなハンカチを取り出した。
「たとえば誰かが目が悪いとするじゃない?ある人はそれで眼鏡を着ける。でもある人は、目が悪いことを理由に前の方の席にしてもらいたいって要求したとすると、眼鏡を買わずに『上手くやったな』とも取れるけれど、眼鏡を買うことが難しいくらいの経済状態の人かもしれないわけだから、そもそもそこから不平等は始まっているわけでしょ?じゃあヤマシタ君がもしも目が悪くて、もしも経済的余裕がなかったら、どうするのが最も『平等』になるんだろう。ヤマシタ君の権利を尊重すると、必ずどこかで不平等が起こっちゃって、結局ヤマシタ君が何かしら我慢することが、全体で見れば最も『平等』って結論になっちゃうんだよね、どうしても」
ホヅミは前髪と、首の後ろの辺りをハンカチで拭った。それから耳の後ろにそれを押し当てて、本人としては伸び過ぎていると感じている髪の毛を、心底迷惑そうに縛り直し始めた。
『平等は難しい』『二〇年続いた全体主義も失敗した』そんな社会科学上の事実を述べることすら恥ずかしく思えて、僕は言葉を飲み込んだ。
誰かが窓を開け始めた。雷の心配もなさそうだし、風を通すのはいかにも心地良さそうに思われたので、僕もそれにならった。南向きの窓から、建物に沿って複雑に舞い込んでくるこの風は、この地域特有の西風だ。
「イトウ先生は、『平等』について強い信念があるはずだから、今回のことくらいでそれが揺らぐとか、変わるということは無いと思う。ヤマシタほどの大男は今までいなかったにしても、これくらいの不平等はクラスを運営するうえではよくある話だから」
僕は窓辺から戻って、ちょうど縛りにくそうな長さの髪と苦闘しているホヅミを見るともなく見ていると、目が合った。ホヅミなりの真剣さに応えないのはいかにも不真面目であるように僕には思えた。
「上手く行かないことがわかっていて、あえてそのままやったってこと?」
「言葉は悪いけど、そういうことだと思う」
ホヅミは見るからに不服そうな表情を浮かべて、僕を睨み付けた。その目線の先にいるのは僕でも、本当に睨み付けているのは頭の中のイメージにありありと浮かんでいるのであろうイトウ先生であり、彼の言う『平等』であり、縛り難い自分の髪であることは容易にわかった。
彼女は言葉にできない憤りを感じながら、その向かう先を決めかねているように見えた。それを決定することの不毛さに気付いたかのように、大きく深い溜め息をついた。
「夏休みは?」
そして一応の解決のめどが立った不快な議題を終え、ほかの生徒たちがそうしているように、夏休みの予定についての話題に大きくシフトした。
「旅行は?」
「旅行って、ユーラシアとか?」
「そんな大きい話じゃなくても、近場とか」
「オセアニア?」
ホヅミは呆れたように笑って、僕には予定が無いと断定した。そして何とはなく電磁白板を眺めた。ようやく結髪の具合に満足したようだ。
ホヅミにしても、外国へ行くような壮大な予定はなさそうな口ぶりだ。多くの生徒にとってもまた、外国へ行く機会はほとんどなかった。それどころか、イースタシアの別の地域に渡る『船』も一月に数本程度しかない。地域間を結ぶいくつかの技術は、しかし圧倒的に少ない資源の問題から活用されておらず、地域間、大陸間を渡る移動手段の絶対数は現在においても不足している。
「比較的近場なら『船』よりも『飛行機』が安いそうだよ。バッテリーとソーラーの。ホンコンくらいまでならそれでだいぶ行きやすくなったって何かで読んだ」
ホヅミはどこか不安そうな表情で僕への反論を考えている。僕としても『行きやすくなった』のは相対的なもので『行きやすい』わけでないことくらいは承知している。
「それって空飛ぶBVってことでしょ?私は『船』が良いな」
街のあちらこちらで、旧式のBVがバッテリー切れによって機能停止しているのを頻繁に見掛ける僕らとしてはもちろん、それで地域間を渡るなどという発想は無謀に思えた。
「BVよりはバッテリーが大きいらしいよ。だとしても僕だって乗りたいとは思わないけど。カタパルトは?」
「まだ無いでしょ、そんなもの。それに、本気で言ってるの?」
「ゼリーのような液体に全身浸かるんだそうだよ。それで射出の慣性を和らげる。で『受け取る』側は大きな網でキャッチするんだって」
ホヅミは体ごと僕へ再度向き直った。
「どうしてもどこかへ行かなきゃならないなら『船』が良い。でも、私はイースタシアが好きだし、もっと言えば、ニホン地域が好きなの。ホンコンでもタイペイでもピョンヤンでもなく。だからせいぜいマツモトへでも行くわ」
開け放たれた窓から、とりわけ強い風が僕の背中に吹き付けた。その風は僕の脇をかすめて、いま見つめ合うホヅミの、縛ったばかりの髪先を揺らした。
どこかの席で紙製ノートがはためく音がした。風上にいる僕には、彼女の髪の香りはわからないが、風が揺らしたいくつかの物音は耳に入った。
この一帯はかつてニホンと呼ばれ、イースタシアの中でも特に力強い西風が吹き去って行く地域だ。