肆
上も下も見渡す限りの青空が広がる空間に三機の飛空艇を『停泊』させて、今日二回目の休憩を取っている僕らは、焼き菓子と水筒に入った合成コーヒーで腹を満たしている。
祖父はこの空間を大きい湖のようだと表現したが、現在は湖というものは歴史か地理の教科書にしか出てこない、特殊な条件でのみ存在し得る巨大な水の塊であって、空で生まれた僕たちにとっては空そのものの方が馴染み深い。
僕らの飛空艇開発や飛行訓練は主に『旧人類』たちによる、神業のような技術によって予想以上に早く完了した。とはいえ最初に研究施設を訪れてから四日過ぎた今日、八月三日の早朝にカワゴエから飛び発った。
今日に至った出発は社長に言わせればギリギリで、祖父に言わせれば手遅れに近い日程なのだそうだ。
というのも、彼らはXデーを二〇年前に『天の火教』が宣戦布告した八月五日と想定していて、その日に何らかの大きい事件が起こると考えている。
そしてその準備のためには、すでに拠点を発ってイースタシアの主要な都市を攻撃する部隊が出撃しているはずなのだそうだ。
この丸みを帯びた天空、そして近い高度領域でその部隊と遭遇する事態は考え難かったが、敵の先鋒は精鋭部隊だろうから、その出陣はむしろ好都合なのだと社長は言った。僕らの目的は敵の攻撃部隊と戦闘することではなく、『船』を見付けて保護することなのだから。
「大戦の時は、レーションと言ったらいなり寿司と相場が決まっていたってのに」
祖父は小麦から成る甘い焼き菓子などは口に合わないようだった。
「レーションって、食事のことですか?」
ヤマシタが操縦席から窮屈そうに顔を出して、主翼の上に座る祖父に聞いた。ヤマシタの乗る弐式は主にサイズ変更に伴う設計変更によって、ヤマシタの巨体では操縦以外の動作がほとんどできない。
どこの国にも属さないこの中立空域にどこか和やかな雰囲気が漂っているのは、見渡す限りの青と、この簡単な食事のおかげだろう。
「戦闘用の携行食だな。特に歩兵は握り飯。空兵はいなり寿司。海兵は知らん。お前らいなり寿司知ってるか?水稲のいなり寿司はそりゃあうまいぞ」
一つだけ、三機ともに行われた設計変更がある。それは理事の提案で、各機にフロートを取り付けたことだ。『遊陸』前であれば、フロートと言えば水に浮くために付ける浮舟であったが、理事の発案したフロートは空に浮くための『砂袋』だ。
理事らの使う専門用語で『遊陸効果』と呼ぶそうだが、陸地に含まれる成分の内、遊陸効果が高いものほど空に浮きやすいらしい。
フロートには遊陸効果が高い砂を満たし、機体のバランスを計算してくくりつけた。これによって僕らは今、機体を空に『停泊』させて体を休められている。
フロートのみで機体を浮かせているので陸地よりもかなり低高度となるが、この高度で飛べばあればプロペラのエネルギーを推進力のみに使えるのでバッテリーを節約できることや、空に居る限りは離着陸そのものが存在せず、空港が不要なことも利点だ。
ただし、万が一戦闘になった場合、フロートは適正高度を保つ方向に力が働くので、空戦能力が極端に下がる。そのため零式と伍式のフロートは放棄できる仕組みになっている。もちろん回収して装着し直すことはほぼ不可能なので、一度そうなればどこかの空港に着陸するまで飛び続けなければならない。とはいえ、当初は目的を達成するまでそうする予定だったので、それを思えば大きな改良だった。
ちなみに弐式は、高い防御力と速度を活かして戦域を離脱しながら回転砲塔で段幕を張る戦法なのと、元々の設計からフロートを持った水上機仕様なので、それを捨てる機構は無い。
「ポートモレスビーはまだ先ですか?」
サハラが焼き菓子を仕舞いながら呟いた。それは祖父への問いとも、独り言とも解釈できた。焼き菓子を含めたレーションは弐式に十分積んでいるが、サハラは『船』を救出した場合に備えてか、一度目の休憩時も一口か二口食べただけで仕舞っていた。
「巡航速度であと二時間ほどだ。だが、それは『船』の本来の行き先でしかねえ。そこに『船』が居ねえからこうして探しているんだ」
「どうしますか?もうすぐオセアニア空域に入りますよ」
ヤマシタが弐式に備え付けられている電磁空図を眺めながら尋ねた。容量に余裕があり、複座でエンジニアの乗っている弐式は、食糧のほかにも空図やレーダーなどの機材が積まれている。
「ここらで情報戦と行こう」
祖父は主翼の上で器用に僕らの機体に向き直った。
「『天の火教』はかつて、驚異的な数の『天上人』を統率していて、それ自体は厄介だったが、武器を含む資材は民間からかっぱらったモンを改造した三流品ばかりだった」
「今回もそうでしょうか?」
「わからねえが、少なくとも性能の良いレーダーはなさそうなことはわかった。性能の良いレーダーがねえってことは、先制攻撃されることを警戒してねえってことでもある」
「どういう理屈ですか?」
「おそらく『船』は、オセアニアに入る前に拿捕された。『天の火教』がどういう方法で捕捉したのか知らねえが、偶然見付けて捕まえるには空は広過ぎる。だから方法は二つしかねえ。レーダーか、傍受だ」
「傍受というと、電磁通話ですか?」
「それでも良いが、簡単なのは他国に入る『船』が使う識別通信だろうな。異国に入るにはこいつを使わねえと攻撃されかねんから、必ず強く発信するんだ」
「それを傍受して、オセアニアに入る前に拿捕したということですね」
「そうだ。他方、レーダーで捕捉しているのなら、俺たちもとっくに襲われているってことよ」
大きい口を開けて祖父は笑った。
「で、今からは弐式がニセの識別信号を発信しながらオセアニア空域に近付く。と言ってもめちゃくちゃな信号だから本当に国境を跨いじまうとオセアニア軍に撃墜されちまう。だからあくまでも国境を越えるのはフリだけだが、非正規に傍受しているだけならおそらく区別はできねえだろう」
祖父の作戦が上手く行くのか僕らにはよくわからなかったが、この見渡す限りの青の中で探し物をするには、もうそれしか方法がないだろうことはわかった。僕らはそれから三〇分ほど作戦についての細かい打ち合わせを行い、風防を閉めて機体を舞い上がらせた。