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ジルは恐らく物凄く長い年月を生きている。だけどその容姿はまるで時が止まったかのように幼さが残る。ハッとするような大人の表情を見せるかと思えば、小さな子供の様に大笑いもする。今も平均よりも幾分小さい体を目一杯伸ばして、ジルは廉太郎の近くにあるチョコを、まるで子供の様にせがんだ。これはちょっと元気のない彼の為に、ジルがわざわざ取り寄せた一品。上品な甘さに彼女もすっかりお気に入りになった。
なのに廉太郎が膝の上に乗る彼女から、わざと菓子を遠ざけたため、ジルはぷぅっと頬を膨らました。それが可愛らしくて、いつも意地悪をしてしまう。年は廉太郎よりも遥かに年上のはずなのに、こうやっている姿は見かけと同じかそれ以下に見えてしまうのがいけない。
「廉は意地悪だね!」
そう言いながら拗ねて降りようとするジルを、廉太郎が慌てたようにしっかりと抱きしめて拘束する。ジルがへそを曲げてしまうのはすごく厄介だ。彼女は廉太郎にとっては唯一無二の存在なのだから。
すると今度は苦しいともがく。加減が難しい。
ご機嫌取りとばかりに、口元に欲しがっていたチョコトリュフを持っていくけれど、へそを曲げたジルは顔をぷいっと背けたままだ。
「ジル、許してよ」
「やぁだ」
「ごめんって」
廉太郎の体温で少しずつチョコが指に纏いつく。このままでは廉太郎の指はベタベタになってしまう。ジルだってなかなか手に入れることが出来ないチョコを食べたくないわけじゃない。張った意地を緩めるポイントを失っているだけだ。その証拠に横目でチラチラとチョコに見ている。
「お願い。ジル」
「んぐっ!」
ほとんど無理矢理に口に指ごと押し込められる。口の中に広がるのは甘くて柔らかなチョコの香り。やっぱり美味しい。ジルは意地っ張りの自分がばかばかしく思えてしまう。これはそれだけの代物なのだ。小さな意地なんて、チョコレートと一緒に溶けてしまった。丁寧にその指まで舐めると、廉太郎はチョコよりも甘い表情になる。
「廉が、元気、なかった」
「どうして分かったの」
「歌に元気がない」
「そんなことはないはずなんだけど」
「何か思い出した?辛かったときとか、悲しかったときとか。それとも寂しかったとき…?もしかして疲れちゃった?」
今日の歌会の事を言っているのだろう。いつもと同じように歌っているのに、誰も気づかないのに、こうやってジルにその感情を丸裸にされてしまう。廉太郎は深くため息を付いた。自分が生きてきた世界に戻りたいと思っている。ジルはそんな風に思っていたのだろう。確かに気持ちは沈んでいたが、理由はそれではない。この所を歌を歌えば歌うほど、ジルの力のすごさと、その差に落ち込んでいた。
「廉、無理して歌わなくてもいいんだよ?廉の歌は確かに人に力を与えるけれど、それで廉の元気がなくなっては意味がない」
小さな体で力いっぱい抱きしめて慰めようとするジルが、廉太郎は愛おしくて仕方がなかった。
廉太郎はある日突然この異世界に放り込まれた『歌い手』だった。交通事故に遭うと思った瞬間、体から魂が抜ける感覚に陥った。幽体離脱か?なんて呑気にそんな事を考えながら、地上から離れた足元を見ると、そこには無残な自分の姿が横たわっている。周囲が大騒ぎしているのにその騒めきはどこか遠く、だんだん薄れていく意識の中で自分は死んだのだと漠然と感じた。
だけど、次に目覚めたのは、依然と変わらぬ傷一つない肉体。見知らぬベッドに寝ていたので、てっきり奇跡が起きて助かったのかと思った。もしくは事故そのものが夢だったのか。夢とも現とも結びつかない意識の中で、微かにかかる布団の重みやシーツの感触が、それは現実だと伝えていた。
ただ、なんとなく体がきしむし、自由が利かない。やはり事故は本当だったのかもしれないが、記憶があいまいになっていて、どこからどこまでがリアルなのか自信が持てなかった。眠っていた部屋は病院と言うには豪奢で、もしかしたら自分を轢いた相手が特別な個室を用意してくれたのか、と微かに動く首を回し、周囲をうかがっていた。
暫くして部屋に訪れたのは、まるで中世の西洋を思わせるローブを纏った二人だった。まるで特殊な宗教の雰囲気を醸し出していたので、廉太郎は身構えたが、これはあながち間違った推測でもなかった。
一人はどうやら医師のようで、ただ、やはり見た事もない道具を廉太郎の体に翳して様子を診ながら、何度も頷いていた。その後にいたのが、今膝の上にいるジルだ。二人のやり取りを見ていると、どうやらジルの方が立場が上で、医者らしき人物が廉太郎の様子を報告していると、彼女はそれを了承したのか片手を上げ、相手は頭を下げたまま扉の向こうへと向かった。
聞きたい事があり過ぎて、体を動かそうとすると全身に痛みが走る。何よりもどんどん頭痛が酷くなり、吐き気がしてきた。ぐるぐると回る視界と混乱する脳。状況がつかめず傍まで来た彼女に聞こうとしたら、遮るように口元にそっと指をあてられた。
「まだしゃべらないで。色々と聞きたい事があるかもしれないけれど、今あなたの制御無き声が響き渡ると大変な事になる。私でも抑えられない」
意味が分からない。自分の声に何の力があるというのか。一度は準主役をとりながらも、その後何度もミュージカルのオーディションに受けては落ち、やけ酒を煽り潰れてしまったこの声に。あの時も一晩オールで安酒に身を浸して、公園で酔いを醒ましていざ帰ろうとした時だった。
世の中に神なんていない。いやいるからこそこんな目に会ったのかもしれない。
これは運命。最早自分なんていらない人間なんだ。そう思いながらも、そんな自分を見捨てきれずにいる自分。もしかしたら何か出来たかもしれないのに。次のオーディションでは再び脚光を浴びて…そんな風に考えて考えて
廉太郎の頬に涙が伝わった。
違う。運命のせいにしているだけだ。努力が足りなかっただけだ。才能が足りなかっただけだ。頭では分かっているつもりだったのに、やり切れぬ思いに嗚咽が漏れる。あれ以上どうしろと、あれ以上何を求められるのかと。
小さい頃上手い上手いと褒め立てられ、調子に乗ってその道を目指した挙句がこのざまだ。廉太郎に向けられた視線は羨望から同情、そして憐憫へと変化し、そんな現実から逃げる様に夜の街をさまよっていた。
「私はジル。あなたはこの世界に来てまだ日が浅い。体も馴染んでいない。動かずに、そうゆっくりと」
ジルが触れた場所からは不思議な暖かさが広がっていった。人の温もりを感じたのはいつぶりだろう。無謀な夢の為に家を捨て、荒んだ生活に恋人に捨てられた。浴びせられたのはバイト先の客の苦情や先輩の嫌味。他人は愚か自分すら信じることが出来なかったのに、見も知らぬ女性の声と温もりが、廉太郎の荒んだ心までも溶かすように、じんわりと、じんわりと。廉太郎はその心地よさに身を任せた。
「もうちょっと休もう」
その言葉はまるで睡眠薬でも入っていたかのように、廉太郎の心の中にスッと入りこんで、彼はそれに抗う事もなく静かに眠りについた。
それを見届けると、まるで測ったかのようにノックの音が聞こえ、そのままドアが開いた。折り目正しい服装に身を包んだ銀髪の青年は、ジルに近寄り、その肩越しに廉太郎の様子をうかがった。
「マスター・ジル、男性の様子はどうですか?」
「まだ目覚めたばかりで混乱をしているよ」
「彼がやはり…?」
「うん。そして多分操るのは歌ね。その波動を感じた」
「そうですか。そうしたらマスター・ジルは…」
「マキシード、後をよろしくね。私は仕事に戻ります」
マキシードと呼ばれた男は、遮られた言葉を続けずに無表情のまま頭を下げた。