激動の昭和
昭和の初め、富山の海沿いのとある街で1軒の商いを営む家があり、その家には何故か子宝に恵まれず、後継ぎの事で悩んでいました。
江戸時代中期から続いている貴重な家名と商売の為、自分達の代で絶やすまいと思考錯誤していたその年の夏、遠縁の親戚筋の一家が泊りがけで海水浴に来ていました。
その一家の子供達が総勢6人、男の子が3人、女の子が3人の山合の農家で、毎年、家族で海水浴に泊りがけで来ておりました。
農家の家族は泊めてもらってるその家が子宝に恵まれずに悩んでいることを知り、男の子が3人もいて、分家するのにも今の田畑では少ないってこともあり、よく懐いてた、まだ5歳の三男を養子縁組しておいていくことになりました。
その子の名前は義
その後、大事に育てられ、家業も順調に後を継げる様になった頃、昭和の激動の時代の真っ只中でいつ徴兵されてもいいようにと、縁談の話が来ました。
川向こうの隣の村に住む大地主の娘で名前は志美。
志美は義を見て、何かを思い出したように引かれ、輿入れをし、商いを手伝う様になりました。
そのうち、ついに赤紙が・・・
遂に義は出征し戦場へ
その後すぐに、身篭った事がわかりました。慌てて手紙を送ったのですが、その返事を待つ間に元気な男の子が生まれました。
名前を義が帰ってくることを信じ『義信』(よしのぶ)と名付けました。
その義信が1歳を迎え、数ヶ月後、1通の電報が届いたのです。
昭和20年8月8日 シベリア沖 戦死・・・
志美は何故か・・・
『また1人にされてしまった・・何故何時も先立ち、私を1人にするの?・・あなたは・・』
『追いかけても・・追いついたと思った途端にまた先立ち、私は残される・・』
『時代が違えば平穏な幸せな生活も出来ると思ってたのに・・・・』
『あの時、私はあなたに子を預け、私は逃げ出した・・・それで、これが私の課題な訳?この子は・・』
『泣いても仕方がありません。来世は必ず・・・そのためにもこの子はどんな事があろうとも育てます。』
その後、志美は、姑から「うちの義も他人の子!あの子が死んだとなれば、あなたは完全に赤の他人です。この店も男手が丁稚が1人だけになってしまい続ける事もままならない。300年続いてようが、私には関係無いし・・荷物をまとめて、出て行って!」
その1週間後終戦を迎えます。
志美は泣くに泣けず、乳飲み子の義信を抱えて規律の厳しい実家の農家に帰りました。
そこに待ち受けていた現実!それは・・・
出戻りも娘に居場所がなく、実家の嫁にも乳飲み子があり、戦後すぐの混乱の為、家の行方もわからない状態で暇を出された娘の居場所なんてないのですが、片隅で良いからと、乳飲み子には罪もないから仕方がないのでってことでおいてもらえる事になったのです。
商売を営んでいた嫁入り先の家は、丁稚にのれん分けならぬ、のれんを渡し、土地も全部やってしまい、300年以上続いた店はたたんでしまいました。そのお姑さんは昭和57年に89歳の生涯を閉じました。
実家で過ごせるようになった志美はその実家で会社勤めをしながら、子育てをしていました。
義信も育ち学校では喧嘩に明け暮れる毎日ですが、帰ってくると大人しい借りてきた猫みたいな生活をしていました。
その家の田畑は小作人だった人達に分けられたのですが、残った分でも結構多かったので、人様よりは裕福な生活をしていました。
そこの兄弟たちも増え、その子たちの面倒も義信が見なければなりません。
やっぱりただ飯は誰も食わせてはくれません。
それを良い事に義信はガキ大将の様に育ちます。
困り果てた志美ですが、その育て方もかなり厳しいし、仕来りの厳格な実家だった為、義信は抑えられて育ちました。
志美はこのままではいけないと思い、小さいですが、家を建てる事にしました。
当時、女手で家を建てるなんて考えられない時代・・人に言えないような努力はしてますが、手にした小さな幸せでした。
その家に越して数年が過ぎました。
義信も高校を卒業して、社会人となり23歳のとある日、
その日、天候が悪くて雨風が酷く、1級河川の橋を傘をさして渡っている女性にすぐそこの駅までなら乗せてってやると声をかけられ、お言葉に甘えてとその車に乗りました。
その女性の名は悦子当時18歳
当時は公共交通機関も整備がまだまだで国鉄の駅まで結構な距離を歩いていました。
その中の出会い・・・
半ば強引に義信は悦子を志美に会わせました。
なぜ
そんな事をしたのか・・・
志美は胃の痛みが辛く、地方の病院では手に負えず、検査の為に東京に行く予定になっていました。
かと言って、悦子の家も母親に兄とやっと中学へ行った弟の4人暮らし。
父親は戦地から無事に帰って来てたものの、自分が大工だったので家を建てたまではよかったのですが、病魔に倒れ亡くなっており、母親が軍の看護師をしてたので、その時も看護師をしていて夜勤もこなしていたので、家事の一切を悦子がしていましたが、その話を家でした時に弟の一言で決まりました。
『姉さん、行っておいで』
そして、赤の他人どうしで東京へ・・
検査の結果は・・
すい臓がん・・・
そして、そのまま入院・・・そして手術・・・
長くても3年ぐらいかなあ・・・・
すぐに電話をかけ、義信を呼び、すぐに緊急のオペが開始されました。
その病院、その時代にはすでにオペの状況ガラス越しで見学できました。
長時間に亘る手術が終了して志美が眠っている時間に医師の説明を聴いていると、摘出した部分を見せられました。この後、転移がなければいいのですが・・・
覚悟はしておいてください。。と・・・
その2週間後退院を許可され、富山へ帰省しました。
悦子は何の疑いも無く、志美の介護をしていました。
時間も無いと感じた義信と悦子は結婚式をする事にしました。
この時代は式自体を家でしておりました。
志美の体力のあるうちに・・・起きれるうちに・・・
昭和44年の春の事でした。
その後、志美の様態が急変し、8月27日に息を引き取りました。
その志美ですが、三途の川を渡る手前で感じた事のある魂の温もりとすれ違いました。
『あれ!あの人!』
そう、その通りでした。25年前に戦死したあの人!そして神だったあの人!
志美は慌てて戻りました。
探してみると、よりによって、自分の息子、義信の息子に・・・孫として転生してきていました。
亡くなってしまった自分自身を悔やんでました。
その孫になる子は
義の戦死から25年後の昭和45年8月8日に誕生したのです。名は昌樹と付けられました。
志美は喜んでいたのもつかの間、自分はどうすれば良いのかわからず、神や仏に祈るばかり・・・
浮遊してる自分・・・1度あの世を周回してきて、間に合う訳もない・・
課題と思って子育てをし、嫁をとらせて全うしてこの世去ろうとした時に義の転生・・?短い!違う魂ではないか?
まずは確認したい。。。
しばらくここに居ても大丈夫?ですよね・・・・
遠くの空から志美を呼ぶ声が聞こえます
神 『奴奈川姫よ・・』
志美 『え?私?』
神 『納得したのなら戻れ!』
志美 『納得どころか、これは何の茶番ですか?』
神 『戦争の混乱で魂が足らなくなり、大国主も生まれ変わらせた』
志美 『そんな事知りません。。約束が違います』
神 『では、どうしたい?』
志美 『このまま生まれ変わらせてもらえませんか?』
神 『その生まれ変わらせてやれる体がない』
志美 『では待ちます!待つのでお願いします。』
神 『何年かかるかわからんぞ』
志美 『お任せします。。お任せするしかありませんから・・・』
そこから返事がありません。。
不安を覚えますが、信じるしかなく・・・
待ち続けて15年・・
大国主こと昌樹の成長を眺めながら・・・
時には昌樹の危険なことから守ったりしておりました。