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転生する最古のラブストーリー  作者: 八重 八雲
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古事記の談

日本最古の歴史書の『古事記』の中のヤチホコ(八千矛神、大国主の別名)の頃の『高志国のヌナカワヒメ(沼河比売)をめとろうと出かけ、歌をよみかわした。そのため、妻のスセリビメが大変嫉妬した。困惑したヤチホコは出雲国から大和国に逃れる際にスセリビメに歌をよむと、スセリビメは杯を捧げて留める歌を返した。二神は杯を交わし、今に至るまで鎮座している』の中のヌナカワヒメとの歌のやり取りの後、2人は結ばれ、子を1人授かり何年かを越の国で過ごします。

それは各地で残る伝説で語り継がれているのですが、その後、別れ、大国主は出雲へ帰り、ヌナカワヒメは故郷へ戻り、自害したとも天命を全うしたとも言われておりますが、それから何度か転生を繰り返し、現代に蘇って再度巡り会えた奇跡のお話です。

『八千矛の 神の命は 八島国 妻枕きかねて とほとほし 高志の国に

さかし女を ありと聞かして くはし女を ありと聞こして 

さよばひ ありたたし よばひに たり通はせ

太刀が緒も いまだ解かずして おすひをも いまだ解かねば 

をとめの 寝すや坂戸を 押そぶらひ わが立たせれば 引こづらひ

わが立たせれば 青山に ぬえは鳴きぬ さ野つ鳥 きぎしは響む

庭つ鳥 かけは鳴く うれたくも 鳴くなる鳥か この鳥も

打ち止めこせぬ いしたふや 海人馳使 事の 語り言も こをば』


古事記の中の『沼河比売』(奴奈川姫)と大国主大神との世界最古のラブストーリーです。


大国主(八千矛の神)が日本全国で妻になれる女性を探してたところに遥々高志の国(新潟県から福井県)に賢い美しい女性がいると聞いて何度も出掛け通って、太刀の紐も解かず、被り物も脱がずに

乙女の寝ているの家の戸を押したり引いたりして立っていると

緑の山に鵺が鳴き、野原には雉が鳴き、庭には鶏が鳴き、朝になってしまった。

ああ腹が立つ。

鳴く鳥どもめ!こんな鳥どもは殺して鳴き止めさせようか!

これは天の馳使いが語った言葉です。


迷惑な夜這いですが・・・

現代だと警察を呼ばれますが・・・


ってことを

奴奈川姫の寝ている家の前で大国主は歌っていました。


奴奈川姫は優しい方なんで、家の戸も開けずに、その和歌に返事をしました。


八千矛の神よ

柔らかい草のような女です。

私の心は入江の洲の鳥です。

今は私の鳥ですが、後にあなたの鳥になるのだから命は殺さないで!

これが天の馳使いが語った言葉も

緑の山に日が暮れれば夜になる。

次の日の朝の朝日のように私のところにやってきて

栲綱のような白い淡雪の若い胸を愛撫して

玉のような手を枕にして足を伸ばして寝られるのに。

急いで恋しいとおっしゃいますな!八千矛の神よ!


原文は載せませんが、こんな感じの和歌を返して

その日ではなく、

次の日に夫婦としての交わりをされたと・・・


ここまでが古事記上のお話ですが。。。


ここから続きがありました。


奴奈川姫は現在の新潟県糸魚川市に住んでいて

姫川で採れる翡翠という宝石の一種を使って占術等をしておられ

翡翠の女王と呼ばれておりました。


不吉な知らせ


大国主の命と奴奈川姫の命の間に建御名方の命がお生まれになり、豊かな暮らしがつづいていたがそこへ、大国主の父が亡くなったという知らせが長男八重事代主命より届いた。命は心配する高志の酋長たちにこの国は息子建御名方命に任せるので後見を頼み、出雲へ帰ることになった。帰るに当たり命は姫に一緒に出雲へ行くよう説得する。しかし、姫は出雲へ行くことを嫌った。出雲には須世理姫などの美しい多くの后がおり、須世理姫は中でも嫉妬深い后であったからであり、また姫には大切な翡翠を守らねばならないという願いが強かった。承知しない姫に困った大国主は家来に命じ、姫の夜眠っている間に船に乗せ七尾港に運ばせた。翌朝目を覚ました姫は船の中にいることに驚き、事態を覚った姫は何とか脱出しようとチャンスをねらった。


姫の逃走


七尾港で一週間ほどたった暗い夜幼少のころから仕えていた人たちが小舟で助けに来た(出雲から逃げてきたという話もあるようだ)。脱出した姫はまず故郷の福来口の洞窟に逃げたが、姫を連れ戻すよう命令された大国主の追っ手が早くもやってきた。姫は姫川の対岸へ逃げようとした。しかし姫は対岸に渡ろうとせず川上の今井に逃げた。そこでこの川を姫めが渡るのを厭がったので厭川と名が付きその後糸魚川となったとか。今井は姫を育ててくれた乳母の里で一行は西姥が懐で休息し、東姥懐でも休息。福来口と今井との間には子供のころ遊んだ船庭の池もあって昔を懐かしむ間もなく追ってに追われ姫川に沿って根知谷に逃げた。伝承に残るところをつなぐと、別所、大久保を経て、小谷村後悔が原に潜む。そこへ息子が来て出雲に行くよう勧めたが断った。息子は仕方なく身輪山の宮殿に戻った。姫は自分攻めた、そこで後悔が原という地名ができたとか。その後姫が淵(姫が淵は白馬にもあるようである)までやってきて姫は淵に身を投げたがお供のものに救われた。


夜星武、姫を助ける


そこで姫は再び息子のいる宮殿の方に行こうと根知谷の方に戻り御前山から山伝いに逃げ平牛山にきたここで姫は食器などを追っ手に気づかれないよう埋めて隠した。ここに飯塚の森という塚がある。追っ手が来たので稚児が池に逃げそこに飛び込んだがまたお供の者に助けられ、池の周りの茅の中に身を隠した。追手は茅原を囲んで探したが見つからない。そこで茅に火をつけ出てくる所を捕らえることとした。しかし焼き払っても姫は出てこなかった。姿も見えない。死んだものとしてジンゾウ屋敷を作り裏山に剣を埋め姫の霊を祀った。しかし、姫は死んでいなかった。能生の海賊夜星武よぼしたけるが茅の原に穴を掘って助けたのである。姫は島道の滝の下まで逃げてきた。ここは姫誕生の地と言われ胎内岩屋がある。産湯に遣ったという岩井口清水がある。姫はここでしばらく逗留した。


吉が浦の宮殿で天寿を全う


追手がこないので安心した姫は大沢山の山頂に護身の矛をもう使わないと言って共の者に奉納させた。それからこの山を矛が岳と呼ぶようになったとか。

また、追ってが来たという知らせで姫は矛が岳に逃げようと決心。権現岳からその山を目指した。権現岳の下で水を飲むため杖で岩盤をつくと清水がわいたここを横清水と呼んでいる。岩盤を登りはじめたが滑るのでくつを脱いだ。ここをわらじのぎというそうだ。追手がこないと知り、ませ口の源泉のところに下り、眺めのよいここに逗留すこととした。ここは宮地と呼ばれた。ここに息子健御名方命がやってきた。宮殿に帰ることを勧めたが承知しないので吉が浦に宮殿を建ててあげた。姫はここで天寿を全うした。この宮殿跡が姫の墓と言われている。その後、源義朝の家来が沖から神像を引き上げその墓の上に姥が嶽姫として姫を祀た。現在姥が嶽神社となっている。



これらの伝承をもとに大国主の命の越平定の経路を推察すると、

AD20年ごろ、出雲国斐伊川河口付近を出港→八束郡玉湯町→鳥取県気多岬→越の北島(羽咋)→能登金剛→鳳至珠洲→七尾市観音崎(御門主比古神社)→七尾市小丸山→高岡市伏木→居多神社(奴奈川姫との結婚)→高瀬神社→七尾市所口(能登生國玉比古神社)→邑知潟(久延比古神社)→口能登(羽咋・気多大社)→出雲帰還

期間は5年程といったところであろうか。大国主の命の越訪問の目的は賊徒平定というよりは、高度な技術を示して越の国を倭国連合に加盟させることであろう。饒速日の尊の努力により飛騨国からの協力が得られており、さらに越地方はこの頃まだクニと呼ばれるほどのものはなく、比較的簡単に国としてまとめあげることができたと思われる。しかし、考古学的には出雲の影響はほとんど見られず、むしろ畿内とのつながりが深くなっている。おそらく、大国主の命が越をまとめてすぐに饒速日尊のまとめたヒノモトとの交流が盛んになったためであろう。 出雲としては出雲国譲り事件が起こったために越との交流は以後断たれてしまったと思われる。その時期はAD30から40年頃と推定する。


 大国主の命は越国にいる時に縄文人(飛騨国関係者か?)の奴奈川姫と結婚し建御名方の命を設けた。大国主の命は第二代倭国王になる予定の人物である。飛騨国王春建日媛も大国主の命と縄文人との血縁関係を要求したのではないか?しかし、現地の縄文人の中には弥生人との結婚に反対する勢力もあり、伝承にあるような対立が起こったと考えられる。


 出雲に帰還した理由が大国主の父が亡くなったからと言われているが、大国主の父とは誰であろうか?実父は天冬衣の命で、義父は素盞嗚の尊である。素盞嗚の尊が亡くなったのはAD30年頃で、素盞嗚の尊の死が元で帰還したのであれば、大国主命は10年ほど越の国にいたことになる。そう考えても大きな矛盾はないが、この後の倭国巡回を考えると出雲に帰還した時、素盞嗚の尊は健在だった方が自然である。また、素盞嗚の尊の死であれば伝承に於いて素盞嗚の尊という名が出てきてもおかしくないと考える。よって、この大国主の父とは天冬衣命と判断する。また、その知らせを長男 事代主の命が知らせたとあるが、大国主の命の長男は木俣神であり、事代主の命は饒速日の尊の子である。また、この時、事代主の命はまだ生まれていない(40年頃誕生)とおもわれる。父の死を知らせたのは木俣神であろう。この伝承により、建御名方の命は出雲には行かなかったことになる。建御名方の命はこれ以降越国の王として活躍することになる。大国主の命が父の死の知らせを受けた時、おそらく高岡市の気多神社の地に滞在していたものと判断する。


 大国主命はAD25年頃、出雲に帰国した。




『古事記』などの文献では、結婚後の姫についての情報は皆無だが、


『天津神社並奴奈川神社』の伝説では、自殺したという。


結婚後、奴奈川姫は大国主命と能登国に渡ったが、


大国主命と不仲になって海を渡って故郷に逃げ帰り、


悲嘆の末に糸魚川平牛山稚児ガ池のほとりの芦原に身を隠し、


二度と姿を見せなかったという。



異伝では

、逃げる姫を大国主命の使者が追跡するが、

とうとう稚児ガ池の萱原で姿を見失う。



そこで使者は姫をいぶりだすため、萱原に火を放つ。



姫は姿を現さず、使者達は泣く泣くそのあたりに姫の霊を祀ったという。


その他、『西頸城郡郷土誌稿』では、信越境の淵に投身したとあり、


『北安曇郡

郷土誌稿』では中土村館山の姫ガ淵で投身したとある。


この逃亡・自殺伝説は、

奴奈川姫の一国の女王らしい意思の強さが伝わってくるような話である。


それから、数千年の時を経て、数回の転生を繰り返し、現代に!





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