血死猟珠(ちしりょうじゅ)
誰でも、生きていたら一度は考えることがある。
人を殺したい。殺人願望。
例えば、満員電車真中、悪びれた様子も無く平然と携帯電話で話す中高年。
例えば、駅や街でたむろしている、目障りなことこの上ない非行少年。
自分のことしか考えていない政治家。口うるさい両親。理不尽な上司。接客態度の悪い店員。列に割り込んでくるオバさん。浮気した恋人。嫌いな芸能人。イジメの実行犯達の頂点に立つボス。
ただ、それを実行に移す人間は、どちらかといえば少ない。だが、ニュースやそれらでよく映ることがあるから、どうにもやたら多く起こっているようにも見えてしまう。
怨恨か狂気か趣味か、理由はそれぞれあって定かではないが、一つだけ言えることは、そんな彼等は良くも悪くも、人間という生き物の、ある境界線を踏み越えてしまったということだ。
ここに一人の男がいる。
男は今年三十路を迎えて、人生に絶望していて、鬱病でもないのに鬱やストレスでイライラして仕方ないと嘆いている。しかし、毎日仕事はしている男だった。
男は、人生において一度ならず、むしろ毎日のように目障りだと思ったり、自分の気分を著しく害した人間を殺したいと毎日のように思っていた。家にはナイフだって置いてあるが、男にはそれを持つ根性や度胸が無かった。
そして今日もまた、嫌な年下の上司がニタニタしながら待っている会社へ出勤しようとしている。朝、真っ先に彼が殺したいと思ったのは、電車の中で化粧をする少女と、わざと音漏れをさせて、周囲に迷惑をかけている屈強で恰幅が良い感じの、いかつい男だった。
自分に力があったら、そんな連中暴力でねじ伏せているところだが、残念ながら彼にその力はない。武術の心得も無い。だから男は、歯軋りすることしか出来なかった。
その日も彼は上司に叱られた。作ってきた書類の間違いについて、とても細かい所を指摘され、仕事振りに関しての揚げ足を取られ、罵倒され、最後は会社のクズゴミ呼ばわりだった。
残業した後の帰り道、男は上司に対して、頭の中で「死んでしまえ」という言葉を何回繰り返したか知れなかった。
帰りの途中で、彼は一人酒に興じて悪酔いした。帰り道、酔った調子で電車の架線下を足取りも不確かにフラついていると、急に力を失って転んでしまった。運悪く地面には割れたガラスの破片があった。
腕を切るまでには至らなかったが、男の腕には鋭いガラスが一つ刺さり、絆創膏で止めなくてはいけないぐらいに出血してしまった。男は怒りのあまり、狂ったようにそのガラスを地面に投げ捨てて、踏み砕いた。踏み砕いたあと、少し酔いの覚めた彼は、冷静になったコンビニを探し始めた。絆創膏を買うためだ。
その道中、古ぼけた布を被った露天商がいた。顔立ちはわからないが、どこか獣臭い。
「そこのアンタ」
突然馴れ馴れしく呼び止められた。そんな所じゃないというのに声をかけられて、また男は苛立った。その布男を刺し殺すイメージが瞬時に浮かんだ。
「すごい目をしてるのぉ。誰か殺したいって思うとるんじゃろう」
布男は、訛った口調で緊張感が薄いながらも、正確に図星をついてきた。思わず男は身を引いてしまう。
「見たところ血を垂らしとるようじゃけぇ、丁度ええ。ちぃと商品の説明をさせとっていただけんか?」
男は、知らないうちに頷いていた。
「この珠にアンタの血を数秒間垂らしてつかぁさい」
言われたとおりに、男は血を珠に捧げた。血は、珠を滴り落ちることなく、珠の中へ染み込むように消えていった。男の酔いは覚めた。
そして五滴ほど垂らすと、珠が紅色に光りだした。
「そしたらこれを持って、駅前に言ってみてつかぁさい。今の時間なら有名な非行グループがウロウロしてる頃じゃ」
行ってみると、本当に居た。男がいつも怒りを密かに膨らませ、それをなんとか飲み込んで我慢して苦々しくすれ違う、非行少年達だ。煙草を吸い、酒を飲み、バイクのエンジンやクラクションを鳴らして、やりたい放題だ。
「グループのリーダーが死ぬようにって、珠に念じてみてつかぁさい」
まさかそれでソイツがポックリ死ぬんじやないだろうな? 馬鹿馬鹿しいと、男は冷笑した。だが、せっかくだからその布の男の言うとおりに念じてみた。
念じると、珠が紅色にまた光って、パーッと上空に光を発射させた。そしてそれが非行少年達のリーダーらしい、口にピアスをつけた少年の胸に落ちた。そして煌いた。
周りの人間もそれに気づいて、携帯光りましたよ、などと言葉を交わす。
リーダーは、突然心臓の部分を抑えて、人間とは思えない苦しみの声をあげた。そして血の噴水を吐いた後、白目を向いて死んだ。辺りは、バイクの騒音よりもうるさい、少年達の悲鳴に包まれた。
男は、唖然として、自分が今手に持っている珠を見た。
「血を捧げりゃぁ、その量だけ人が殺せますけぇの。ただ念じる時にその血が足りないとわやなことになるけぇご注意を。ほんまは十万はするところなんじゃが、特別に、あんただけ特別に五万円で譲るんじゃけぇの。いかがか?」
男は迷わずそれを買った。
翌日から、男は血が常に出して持てるように、針と小瓶を持ち歩くようになった。朝は早速音漏れ男を殺した。ついでに朝っぱらからイチャついているカップルも、無残な姿で殺した。
すばらしいアイテムだ。と男は心の中で不敵に、かつ冷酷な態度でニヤついた。男はたった一日でやつれていた。
珍しく気分も上々に会社へ行った。朝っぱらから上司に呼び出された。みんなに聞こえる声で、ネチネチと叱り始めた。
その年でこんなことも満足に出来ないのか。恥ずかしくないのか。だから出世出来ないし貧乏なんだ。この課のゴクツブシはアンタだ。明日事故にあったとしてもうちの会社には何の損失も無い。
縮こまる男の周りで、笑い声が聞こえた。彼の同僚のOLの笑い声だった。それが伝染して、課の中で笑い声が起きる。爆笑には至らないが、あからさまに聞こえる笑い声だ。
男の味方は、この課には一人としていなかった。許せなかった。
男の堪忍袋の尾は切れた。男は課の真ん中の机に飛び乗って珠を掲げると、それに強く祈った。みんな死んでしまえ、苦しんで苦しんで苦しみぬいて、それから死んでしまうんだ!
あまりの怒りに、男は血を与えることを忘れていた。珠が怪しく光ったかと思うと、その光が何方向からも飛び出して、綺麗な曲線を描いた。その光は、珠の持ち主の身体を蜂の巣のごとく貫いた。男の血から、噴水のような血が吹き出た。
珠が、その血溜まりの上に落ちると、今度は眩しい紅色に光り始めた。それが爆発するようにフラッシュしたかと思うと、課の人間が全員苦しみ始めた。
ある者は血を吐き散らし、またある者は顔面を掻き毟り、またある者は自分の爪で首の辺りの皮を掻き回して剥いだ。
もっとも酷かったのは課長だった。自ら目玉をくり貫いたかと思うと、カッターで耳に切れ目を入れて、右耳を引きちぎった。そして手を頭の中に突っ込んだ。頭の中で何かが暴れているのを止めようとしているようだった。
男が働いていた課の人間は、一分と経たない内に無残な死体を晒し、血を延々と噴出す亡骸となった。
死屍累々とは正にこのことであろう。
全員完全に息が止まったところで、珠はあたりの血溜まりを全て吸い尽くした。ついでに、亡骸に浮かぶ光も全て吸い寄せた。
「あーあ。手遅れか」
虫取り網を持ち、背中にがま口財布を背負った二本足の白い鼬が、血の跡が残る死屍累々の現場で、がっかりと項垂れた。
「せっかく魂を稼ぐビッグチャンスじゃったのに。コイツのせいでみな台無しか」
鼬が珠を拾うと、その珠にはヒビが入り、そのまま粉微塵に割れてしまった。
「再利用も無理じゃったか。結局金が儲かったばっかしで終わりたぁなあ」
ため息をつくと、鼬の手に残っていた紅色の粉も、吹き飛んでいく。仕方なく彼は、踵を返した。
「人間ってなぁ匙加減が難しい生き物じゃのぉ」
その捨て台詞だけが、現場には虚しく残された。
言葉が向けられた相手は、体中穴だらけになって倒れていた。だが表情だけはどんなものか伺えた。彼は満足して、死んでいた。
満足したのは、男だけだった。
グロテスク描写の練習作。怖く、気持ち悪く書くのは難しいですね。怪社のキャラを出してますが、本編にはさほど関係ないです。




