3. 画伯とパシリ。それぞれの事情。
その日の仕事は、サイがどこかから拾ってきた依頼だった。内容は、
「ほら、そっちに行ったぞ」
「うりゃっ、あああぁぁぁぁ……」
ずざざ、と見事に顔面ダイブをかますパシリ。ひらりと身をかわした標的は、ぴんと尻尾を立ててこちらにその存在を誇示している。
「そ、れっ!」
横からこっそり近づいて、二歩を大きく踏み込んで左手を伸ばす。しかしぼくの右手がないことはすでに折りこみ済みなのか、しっかり右側をすり抜けていく毛むくじゃら。
仕事の内容は、迷子になっているペットの犬の捜索、および捕獲だった。サイは他にやることがある、とかでこの仕事をぼくらに押し付けてどこかへ行ってしまった。そんなわけでぼくと画伯、パシリの三人は依頼者のもとへ出向いたのである。
飼い主から写真を受け取り、好物だというジャーキーを袋ごともらって西曲野を捜索しはじめ、ほどなくして画伯が迷子のわんこを見つけた。もこもことした茶色の毛皮が愛くるしくも暑苦しい、そしてなにやらふてぶてしい顔のわんこである。
家出したわんこを追いかけ、どうにか公園まで追い込んだはいいものの、捕まえようと追いかければ逃げ、止まれば止まる。手を伸ばせばひらりとそれをかわし、しかしぎりぎり届きそうな範囲まで近づいてくるわんこは、確実にぼくらで遊んでいる。
「あぁほらほら、そっちだ」
画伯が出口を塞いでいるため、わんこはこの公園から逃げ出すことはできない。それはいいのだが。
「まぁてええぇぇぇ……!」
わんこの体力、無尽蔵。対するこちらはもう二人ともへろへろである。伸ばした手はその毛先をかすめるばかり、ジャーキーで釣ろうとしても飼い主の手から以外はものをもらわないのか、無駄にしつけがいいのである。
「パシリ、同時にいこう!」
「うっす!」
ぜいぜいと肩で息をするぼくらは、もう余裕がない。ここらで勝負を決めにいかないと。じり、と二人で移動し、わんこを中心に、ちょうど一直線。
「――いまだ!」
「――とりゃー!」
二人で同時に飛び掛り、ひらりと見事にぼくらの間を抜けていくわんこ。もちろん、ぼくらはその後のことまで頭が回ってない。ごつん、と頭をぶつけて、のた打ち回った。
「よくやった二人とも」
と、そこへ画伯が歩いてくる。その胸には、もぐもぐと口を動かす毛むくじゃら。
「……あれ? ジャーキー食べてる?」
「うむ。先ほど食べなかったのはどうやらお腹が空いていなかっただけのようだな。よそでご飯をもらった直後だったのではないかな」
抱き上げたわんこは中型犬で、背の高い画伯が抱いているとちょうどいい大きさに見える。茶色いわんこはもっとちょうだい、とおねだりをするように画伯の顔にふんふんと鼻をなすりつける。
「さぁ、このまま飼い主のもとに届けるとしよう」
「……うっす」
「……そうだね」
なんだかぼろぼろになっている男二人。画伯はもふもふのわんこを抱いたまま歩き出して、ぼくとパシリはその後をふらふらしながらついていった。
その後、飼い主に茶色いわんこを引き渡し、報酬として金一封をいただいたぼくらは、バス停に向かっててくてくと午後の静かな住宅街を歩いていた。
「……ねぇパシリ」
三歩先を歩く画伯に聞こえないよう、小声で問いかける。
「画伯って、探し物とかそういうの、得意なの?」
「え? なんでっすか?」
パシリは首を傾げる。
「だって、何かを探したり見つけたりする仕事のときは、いつだって一番に見つけるのは画伯じゃない。なにかこう、見つけるコツとかあったりするのかなって」
「あぁ、そういうことっすか」
合点がいったのか、パシリは何度も大きく頷く。
「画伯は、ちょっと特別なんで。まぁ探し物、というよりは迷子や今日みたいな仕事が専門なんすよ」
「……そうなんだ」
探し物が得意なわけではなく、人探しが得意というわけだ。それはつまり、
「……画伯は、人探しをするナクシなの?」
「んー……」
ぼくの予想を聞いたパシリは腕を組んで唸り、
「ちょっとハズレっすね。まぁ、ナクシの能力として、人探しをするのが得意なのは当たってるっすけど」
「そう……」
事務所で働き始めて、じき三週間。暦はもうすぐ十一月に変わるころ、ぼくは未だに、パシリ以外の事務所のメンバーの事情や能力を知らないでいた。
「本人に直接聞けばいいんじゃないすか? たぶん教えてくれると思いますよ」
「そうかな?」
「まぁ、オレが初めてそれを聞いた時は、思いっきりからかわれて結局ホントのことは教えてくれませんでしたけど」
「……やめとく」
「おいおい、二人で何をこそこそ話しているんだね、私も混ぜてくれないか?」
こちらに振り返って後ろ歩きをしている画伯。ひらひらと白衣が風に揺れている。そういえば、画伯はどうして白衣を着ているんだろうか。
「いえ、ただの世間話っすよ。画伯、夕飯は何がいいっすか?」
「そうだな、無性に肉が食べたい。ハンバーグなどはどうかな」
「最近食べてないっすね、ハンバーグ。じゃあ、オレひき肉を買って帰らないと」
パシリが腕につけた、ずいぶん古い型の腕時計を見る。ぼくも時刻が気になって、携帯を開いた。午後三時十五分。
「今から行ってタイムサービスでお肉ゲットしてくるんで。先に帰っててくださいっす」
しゅた、と右手を上げて別方向へ歩き出すパシリ。はて、スーパーなら東曲野にもあるというのに。
「住宅街にあるこちらのスーパーのほうが、色々安く買えるのだそうだ。西曲野に出かけた日には、あぁして買い物をしていくことが良くあるよ」
「そうなんだ」
ぼくは家を追い出されて一人暮らしをしていてもほとんど料理なんてしなかったから、そういう事情はよくわからない。けどあれだけ所帯じみているパシリは、そういう情報には精通していてもおかしくないと思った。
「――画伯、先に戻ってて。ぼく、荷物持ち手伝ってくる」
なんとなく、手伝ったほうがいいような気がして、ぼくはパシリの後を追う。画伯は「了解した」と短く言って、一人歩きだしたようだった。
四時から始まったタイムセール。目当ての牛豚の合い挽きほかポテトサラダなどの惣菜、それから野菜などの食材を色々入手して、大きく膨れたビニール袋をパシリとぼくと二人で持ちながら、ぼくらは暮れかけた街をバス停に向かって歩いていた。
「いや、二人いるからって買い込んじゃったっすね。けど荷物持ちなんて助かるっすよ。サイさんも画伯も、全然こういうの手伝ってくれないし」
まさか荷物持ちをするだけで感動されるとは思わなかった。素直に自分の感情を表現するパシリは、見た目は非常に軽薄で近寄りがたいのだが、その実とても人間味のある男だった。
「まぁ、いつもご飯、作ってもらってるしね」
彼のご飯は、サイから事務所の入所条件として挙がるくらいにおいしい。レベルとしては一般の家庭料理レベルなのだが、それでもまともな食事ができるというのはいかに幸せなことか。
「たまにはサイさんや画伯にもそういう感謝をしてほしいっすよねぇ」
がさがさと袋を鳴らしながら歩く二人。影法師がびよんと伸びて、じき陽は沈む。と、パシリが再び時計を確認する。先ほどから、数分に一度、そうして時計を見ていた。
「どうしたの?」
「あー、いや……ちょっと寄りたいところが、あって……」
後半は言いにくそうにもごもごと言い淀む。
「ぼくがいるとまずい?」
「あ、いや別にそういうんじゃ……ただ、ちょい恥ずかしいっていうか」
「恥ずかしい?」
首を傾げる。はて、ここまで所帯じみた姿を見せられて、これ以上何が恥ずかしいというのだろうか。さりとて、見られたくないのならそう踏み込むこともない。
「じゃあ、ぼくは先に帰ってようか」
ぼくの提案にパシリはあー、とかうー、とかしばらくうなって、
「いや、一緒に帰らないと画伯になんか聞かれると困るし。いいや、来てくれるなら一緒に来てほしいっす」
がさ、と袋を鳴らしてそう答えたパシリは方向を変えて歩き出す。ぼくもその後についていく。通りは、買い物帰りの主婦や下校中の学生、公園かどこかからの帰りと思しき親子連れなど。家族や日常の象徴がまばらに見られた。
「どこに向かってるの?」
「実家っす」
「実家?」
思わずおうむ返し。そうか、たまには里帰りをしたい、というわけか。それは確かに、他人にはちょっと言いづらいかもしれない。
「あぁ、でも実家というにはちょっと違うかもしれないっすね」
通りの角を曲がり、石塀と石塀の間を通る。そして、通りに出る数歩手前で足を止めた。
「あの家っす」
パシリが指差して、ぼくは角から頭だけを出してその方向を見る。オレンジの夕陽に照らされた、ごくごく普通の一軒家。
「ちょっと違う、って?」
「オレんち、まだオレが子供のころに両親が離婚してるんす。オレは親父に引き取られたんすけど、あそこは母ちゃんのほうが住んでる家なんす」
さらりと家庭の事情を暴露してみせるパシリ。それは、おいそれと話してしまっていいことなのだろうか。
「別に気にしないでいいっすよ、その件に関してはとっくに整理もついてるし」
「……そう、ならいいんだけど。でもパシリ、こうして影から見てなくても、お母さんの家なら直接会いに行ってもいいんじゃないの?」
ぼくはしゃがんで、パシリは立ったまま。角に張り付いてひとつの家を見ているぼくらは、傍目には明らかに不審人物だろう。どうせなら、堂々と訪ねていけばいいのでは。
「それが、そうも行かないんすよね」
「え?」
見上げたパシリは、夕陽に目を細めている。
「オレ、昔には色々ヤンチャしてまして。恥ずかしながら、生活が立ち行かなくなったりもしたんす。
オレの両親、離婚する前から別居してて。離婚したあと、母ちゃんの一家はどこかに引っ越して、オレと親父はそのまま、その街で暮らしてたんすよ」
ぶろろろ、と鈍いエンジン音と共に車が通過していく。
「で、オレは親父が心底嫌いで。高校をでたら、すぐに独り立ちする、ってこの曲野市にやってきたんす。ぜったいに立派な人間になってやる、ってエラソウに叫びながら。いやまぁ、今思えば若気の至り、なんすけど。
そんで、そんな世間知らずの若造がちょっと頑張ったくらいで成功できるほど、世間ってのは甘くなくて。すぐに堕落した生活になって、借金とかもするようになって。
そっからはもう、転落人生まっしぐら、っていうか。毎日借金取りに怯えて、家を出られなくなって。結局コワイ人たちに捕まって、マグロ漁船に乗せられそうになったりも」
話しながら、けらけら笑うパシリ。笑い話とは到底思えないそれも、彼にとってはすでに過去なんだろう。
「結局、生命保険をかけられた上で、殺されそうになったんすよ。まぁ、割とよくある話らしいっすね、そういうの。だから、まぁオレの人生ここで終わるならそれもしょうがないか、と思って半ば覚悟決めてたんすよ。
ところがっすよ――あ」
突然、パシリが話を止める。パシリが指差したあの家に、誰かが帰ってきたのだ。紺色の制服に身を包んだ、髪の長い女の子だった。自転車を押して帰ってきた彼女は友達に手を振って別れ、一人赤い空を見上げている。
「あの子は?」
「オレの、妹っす。今年で、中学二年生っす」
パシリは、詳しい年齢は知らないけれどもう二十代も後半に差し掛かるころだろう。ずいぶん歳の離れた兄妹だった。
「あ、話の続きっすね。えっと、どこまで話したっけ。
そうそう、生命保険をかけて殺されそうになって。諦めかけたんすけど、どうしても、最後に妹の顔を見たくなって。
けど、そんな命乞い、アッチの方々には関係ないじゃないっすか、だからせめて自分の頭の中で、妹を思い浮かべて、最後の思い出にしようと思って。
そしたら、おかしいんすよね。首吊っても、死ねないんすよ。ただ苦しいだけで、意識が一瞬遠のいたら、また意識戻って。何度も何度も繰り返して、それでも死ねなくって。ナイフで刺されたりもしたんすけど、やっぱり死ねなくて。すぐに傷が治っちゃうんすよ。
そしたら、こりゃやべーってソッチの方々が騒ぎ出して、躍起になってオレを殺そうとして。それで、オレもだんだん殺されるのに慣れてきちゃって、どうにかしてこの状況乗り切れないかなって考えたんすよ」
自転車に施錠を済ませ、家の門をくぐる女の子。パシリがその姿に、一瞬だけ身を乗り出した。
「……頭いかれた振りして、その場を文字通り死に物狂いで切り抜けてそこから逃げ出して。そんで、ふらふらになりながら西曲野まで逃げてきて。そしたら、ホントに偶然、アイツを見かけたんすよ」
親指で、女の子を指すパシリ。陽はさらに傾いてきて、地平から紺色の空に変わって行っている。
「いやぁ、驚いたっすよホント。引っ越したのは知ってたけどまさかこの曲野にいるなんて。運命的なモノを感じたっすねアレは。
――まぁ、見かけただけで、声をかけることもできなかったんすけど。ほら、オレ借金取りから逃げたお尋ね者なんで。もしオレと接点のある人間に何かあったら、マズイじゃないっすか。
だから、直接会いに行ったりは、できないんすよ。こっから見てるだけ。日向にある家を、こうして日陰から見てるだけ。けど、それだけで充分なんす」
見上げたパシリの顔は、今までに見たことがないような優しい顔。それはきっと、お兄ちゃんの顔なんだろうな、と思った。
「サイさん曰く、オレのナクシとしての能力は不死身。なんでも、社会的に死んでしまったから、生命にとって一度きりの死がそこに適用されちまって、もう肉体的に死ねなくなったらしいんすよね。
まぁでも、毎年ちょっとずつ体は動かなくなるし、歳は取るんだなぁってカンジですが。どうせならいっそ不老不死くらいのこと、やってほしかったんすけどねー」
あっけらかん、と笑うパシリ。やがて陽が沈んで、あたりはすっかり暗くなる。時刻はやがて五時になろうかというころ。最近、すっかり陽が短くなった。
「……さ、用事も済んだし、帰るっすよ。あんまり遅いと、ハラペコな女性陣になにされるかわかんねっす」
言うと、パシリはさっさと来た道を戻り出す。ぼくも慌てて立ち上がってその背を追いかけて、
「パシリは――お母さんたちと暮らしたいんじゃないの?」
聞くのは野暮かとも思ったが、あえて聞いた。そうしたらパシリは振り返って、
「そんなことねっすよ。オレは今のこの生活で満足してます。
毎朝毎晩食事を作って、掃除して、仕事して。サイさんにツカイッパにされても、画伯にイジられても。それがオレの役割っすから。
世間では自分の役割を得られなかったオレが、こうして自分の役割を持って日々生きていられる。これはきっと、幸せなことだと思うんす。
だから、見てるだけでいいんすよ、オレは。それで充分っす」
そう言いながら。パシリはにかっと、子供みたいな笑顔で笑った。
結局帰るのが遅いとサイや画伯にどやされ、パシリは大慌てで夕飯の支度を始めた。ぼくも配膳などは手伝って、みんなでハンバーグを食べて。就寝までの時間を、思い思いに過ごしていた。
「ふわ」
事務所に住むようになって数日の間は事務所のソファで眠っていたのだが、ある日サイがベッドやそのほか最低限の家具を調達してきてくれて、今は二階に登って手前の部屋、男子部屋にパシリと二人で住んでいる。狭い部屋だが、ぼくはその方が落ち着いた。
「十時か……」
眠るにはまだ早いが、さしてすることもない。どうやって過ごそうかと、部屋に置かれたぼろぼろのソファに寝転がって考えていると、部屋の中にノック音が転がった。
「はい?」
「セキ、起きていたかね」
ドアを開けたのは画伯だった。こんな時間に訪ねてくるとは珍しい。
「どうしたんです?」
ソファから身を起こす。がたがた、と窓を叩く風の音。
「セキは機械には強いかね? 少し、見てほしいものがあるのだが」
「修理ですか?」
どのレベルの機械のことを指しているのかわからないが、多少ならどうにかなるのではないか、と思った。
「なにか壊したんですか?」
「うむ、まずは見てもらうか。ついてきてくれ」
ちょいちょい、と手招きをされて、画伯のあとについていく。男子部屋を出て廊下を歩き、女子部屋へ。暗い居間を通り抜けて、画伯の部屋に入る。
「サイはもう眠ってるんですか」
「あぁ、あの子は夜が早いからね。しかも一度寝ると起きないんだよ」
画伯は部屋の奥まで歩き、机の上にある何かをぼくに渡した。
「これなのだが」
「ラジオですか」
それは、マンガの単行本ほどの大きさの、青いラジオだった。側面に二つ、チューナーとボリュームと思しきツマミ、そしてスイッチがついている。表面には、ピンク色の細い線でゾウの親子の絵が描かれていた。
「昨日までは動いていたんだ。しかし、今日聞こうと思って電源を入れたら入らなくてね。電池かとも思ったんだが、新品に交換してもダメだ」
二つのツマミの下のスイッチをかちかちと動かしてみるが、確かにうんともすんともしない。
「確かに、動かないですね」
「直りそうか?」
うぅん、と唸りながらラジオを裏返す。と、中でからんと音がした。試しに振ってみると、中でからからと軽い音がする。
「ドライバーとか、あります?」
「ちょっと待ってくれ――これで良いかね」
画伯が机の引き出しから出してきたのは、プラモ屋などでよく見かけるビニールの袋。小さなプラスマイナスのドライバーとピンセット、それからニッパーが一組になっている。
「だいじょうぶだと思います。あ、座りますね」
ベッドに腰掛けてそれを受け取り、プラスドライバーを手に取る。ラジオを両足で押さえ、裏に向けて六ヶ所を留めているネジをくるくると外した。
「なるほど」
中は意外と簡単な構造で、これはもしかしたら手作りキットなどによる自作のラジオかもしれなかった。
肝心の故障箇所はというと、電池を通電するための金具が外れ、中に落ちていた。これではいくらスイッチをいれても、電源が入らないはずである。音の原因はその金具だった。
「わかるか?」
にゅっと顔を出してきた画伯は、内部の構造を見て眉をしかめる。どうやら、機械は本当に苦手らしい。
「えぇ、このぐらいならどうにかなります。ただ、片腕じゃできないので少し手伝ってください」
「ふむ、了解だ」
中から部品を拾い、どうはまっていたのかを確認する。どうやら、コードを金具に取り付けた上で、くぼみにはめ込んで固定するらしい。
「じゃあ画伯、その遊んでるコードの赤いほう、持っててください」
内部で役割を果たせず外れている青と赤のコードの取り付けさえ終われば、あとは一人でもどうにかなるだろう。と、
「……――」
画伯は少し逡巡して、コードをつまんだ。
「……? まぁ、そっちからでもいいですけど」
画伯がつまんだのは、青いコードだった。コードから伸びた銅線を、ピンセットを使って金具に巻きつけ、外れないように固定する
「じゃあ、次は赤い方を」
「こっちでいいのかね」
遊んでいるコードはもう残り一本しかない。画伯はそちらのコードをつまむ。同じように固定した。
「あとは一人でもだいじょうぶです」
金具をくぼみにはめるだけなので、一人でも問題ない。作業に取り掛かろうとして、画伯がぽつりと。
「――すまないな、足を引っ張ってしまったかね」
「え?」
そんなことを聞いてきた。
「いや、コードを間違えたし」
「そんなことないですよ、あんなのどっちから付けて問題はないですし」
かちゃかちゃと手元をいじりながら、画伯のつまらない心配を否定する。
「そうか、それならいいんだが」
「そうです、別にいいんです――はい、直りましたよ」
ネジを六ヶ所留めなおして完成。電源を入れると、じじじ、とノイズ音。チューナーをいじってやると、少し昔に流行ったポップスが流れ出した。
「ほぅ、ありがとう。助かったよ」
手渡すと、画伯はそれを大切そうに、愛おしそうに撫でた。
「けっこう古いものみたいですが。大事なものなんですか?」
「あぁ、とても大事なものだ」
それを机に置き、画伯は満足そうに何度もうんうんと頷いた。
「いや、助かったよ。セキはこういうの、得意なんだな」
「このぐらいなら、男なら大抵できると思いますよ」
「む、そうなのか? パシリはあまりアテにならないから聞かなかったんだが」
どうやら、画伯の中ではパシリは非常に低いランクに設定されているらしい。なんだか、かわいそうなような、そうでないような。
「それじゃあ、ぼくは戻りますね」
「あぁ、ありがとう感謝するよ。おやすみ、セキ」
流れてきたポップスにハミングしながら、画伯はぼくを送り出した。自分の部屋に戻って、ぼくはベッドに倒れ込む。
「大事なもの、か」
画伯があんなふうに不安そうな顔をするのを、ぼくは初めて見た。なんだか尊大な態度で、他人をからかうのが趣味の画伯も、あぁいう顔をすることがあるんだ、と思った。
「誰かからのもらい物、なんだろうな」
ごろりと寝返りを打つ。
昼間、パシリの話を聞いたせいだろうか。画伯には、そしてサイにはどんな過去があるのか。気になりだしている自分がいた。
(ぼくのことって、そういえばまだ誰にも話したことないな)
真っ暗な室内、カーテンを閉めていない窓からは大通りの明かりがわずかに入ってきていた。車の通行に合わせて明滅するそれを見ているうちに、だんだんと、眠く――
それから二日。その日はサイとパシリは仕事で事務所を空けていて、ぼくと画伯が二人で留守番をしていた。
「おや、雨だな」
やがて三時になろうかというころ。少し前から曇り始めた空が、ついに雫を落とした。間もなくそれは大降りになり、事務所の窓を激しく叩く雨となった。
「サイたちは傘を持っていないだろうな」
今朝二人が出掛けるころはまだ天気がよかったから、折りたたみ傘も持っていないだろう、天気予報も晴れだといっていたし。そして、予定ではもうすぐ帰って来ることになっていた。
「仕方ない、迎えに行くとしよう。バス停で立ち往生しているかもしれん」
よいしょ、とソファから立ち上がる画伯。
「あ、じゃあぼくも行きます」
それに呼応して、ぼくも立ち上がった。
サイとパシリのぶんの傘を持ち、土砂降りの東曲野を画伯と歩く。やはり突然の雨だったのだろう、道行くひとはコンビニや店の軒先に雨宿りをしたり、大慌てで走っていくひともいる。
「すごい雨だな」
「そうですね」
ばたばたとけたたましい音で傘が鳴り、こんなにひどい雨とは思っていなかったので出てきたことを少しだけ後悔した。
「どうしたね、セキ。うかない顔をしているが」
「――いえ。実は、雨ってあまり、好きじゃなくて」
二年前のあの日、ぼくが右腕を喪った日以来。ぼくは雨が苦手だった。
「そうかね、晴れの日のほうが好きか」
「まぁ、そりゃ誰だってそうじゃないですか?」
聞き返すと、画伯はいやいや、と少しだけ笑って、
「そんなことはないよ。私は雨の日だって好きだな」
「……そうなんですか」
とことんあまのじゃくなんだな、と思う。画伯は常識があって物知りだけれど、どこか世間に対して斜に構えているふしがある。画伯の生き方だからそれは構わない。けれど、たまに、どうしてそうなのだろうかと疑問に思ったりもした。
「疑問かね、私の在り方が」
「え?」
いつの間に口に出していたんだろうか。いや、そんなはずはない。
「まぁ、確かに自分でもひねくれているとは思うよ。けれどね、こうなったのにはそれなりに理由がある。雨の日が好きな理由だって、ちゃんとあるんだよ」
「……――」
どんな理由、なんだろうか。聞いてみたい。けれど、自分のことを他人に話す勇気もない自分には、そんな権利はないだろう。
「セキは律儀だな。別に、自分のことを隠していたいと思うのは普通のことだぞ? 辛いことなんて、誰だって思い出したくはないからな。
まぁ、気になるというなら、私のことは話そう。どうするね?」
まただ。画伯はどうして、ぼくの考えていることがわかるのか?
「聞かせてもらっても――いいですか」
その理由が、ぼくは知りたかった。画伯という人間を、知りたくなった。
「いいだろう、そうだな、どこから話そうか――ふむ」
数歩の間だけ、画伯が言葉を止める。そして、画伯は話し出した。
* * *
『最優秀賞は、××大学一年、――』
壇上に掲げられた私の油絵。そして呼ばれる私の名前。長い髪を左右に揺らし壇上に、割れんばかりの会場の拍手、私はその中心にいた。
ひげをたくわえたとても偉そうなおじいさんから賞状をもらい、聴衆に向かって礼をする。そして、また拍手。もう、何度も経験した光景だった。
「今回も負けました、わたしはまたあなたの下」
舞台袖で、そう握手を求めてきたのは、同じ大学、同じ学部に通う三年生で、名前をミハヤといった。
「運が良かっただけです、たまたま審査員の好みに合っただけ、私はミハヤ先輩の絵のほうが素晴らしいと思ったもの」
差し出されたその手を握りながら、私は言う。それは謙遜などではなく本心だ。私は、お世辞なんか抜きで、先輩の描く絵が好きだった。
「いいえ、運も実力のうちだもの。あなたが羨ましいわ」
「いや、よしてくださいそんな……本当に、たまたまなんです」
握手をして交わす言葉の数々。それは高みを目指す者同士が励まし合い、賞賛し合う言葉だ。コンクールで負けたというのに笑顔で私に接する彼女は、本当に素晴らしい人間なのだろう、とそう思った。
私は当時、美術大学で水彩画を専攻していた。
小さい頃から絵を描くのは好きだった。とりわけ、青い空。突き抜けるような青い空を描くのが好きだった。今回入賞した絵も、青空を描いたものだ。
「いやぁ、実に素晴らしい。私も鼻が高いよ」
本来ならば三年生からしか入ることを許されない研究室に、私は出入りを許されていた。その研究室を受け持つ教授が、賞状を持ち帰った私を褒めちぎった。
「先生のご指導の賜物です、これからも変わらず、ご指導をお願いします」
「いやいや、僕は何もしていないよ。キミの実力だ」
研究室の仲間たち数人も、次々にやってきて私に賛辞を送った。とてもこそばゆくて、けれど嬉しいのはどうしたって我慢できない。
実力を認められる、というのは嬉しいものだ。それが自分の好きなことであるならなおさら。小さい頃から夢だった絵描きとして、私は華々しくその経歴を飾っていった。
「あぁ、お帰り。キミも、よく頑張ったね」
ふと振り返ると、いつの間にかミハヤ先輩がそこに立っていた。先輩は私と目が合うと破顔し、そしてまた賞賛をもらった。
「今夜、キミの優勝を祝して一席設けようと思うんだ、予定はどうかね?」
「あ、ありがとう、ございます。是非、お願いします」
「そうかそうか。キミも参加するだろう?」
教授はミハヤ先輩に視線を向けて言う。先輩は頷き、
「えぇ、もちろん! 教授のおごり、なんですよね?」
「え? あっはっは、いや参ったな。仕方がない、みんな少しは手加減してくれよ?」
わっ、と沸く研究室。教授は人が良くて気前が良い。もちろん指導の時は厳しくもあるけれど、総じて尊敬に値する人物だった。
「あなたはお酒はだめよ? まだ未成年なんだから」
「わかっていますよ、先輩。そもそも私はお酒、飲めませんから」
「あら? 飲んだことあるような口ぶりね、ふふ」
あ、と私は口を押さえる。そしてまた大笑い。私はこの研究室に入ることができてよかったと思う。
あまりにも毎日が輝かしくて、眩しいほどで。私は、幸せだった。
そのお祝いの席で、お祝い、とミハヤ先輩が何かを差し出してくれた。そう大きくない紙袋を開くと、
「これは――ラジオ?」
「うん、わたし、制作のときによくラジオ聞いてるの。あなたももし良かったら、って思って。あんまり、高価なものではないんだけど」
「いえ、ありがとうございます、大切にします」
コミック本ほどの大きさの、ピンクの線で象の親子が描かれた青いラジオが、外箱から出された状態で入っていた。外箱の写真には青い本体だけが描かれているから、象はきっと先輩が描いたものなのだろう。
「大切に、します」
その言葉の通り、それは私の生涯の宝物になった。
夏が過ぎて、秋になって。
私はそれまでのいくつかの功績から、大学側に特別に個室を用意されていた。小さい部屋ではあったが、私専用の制作室で、それは他の生徒にはない待遇だった。ただ一つ難を上げるとすれば、その部屋には窓がなかった。
「――」
無言で制作を続ける。室内には、先輩からもらったラジオからの音楽が控えめな音量でかかっている。部屋は電波が悪く、たまにノイズが入る。
「――」
ひたすらに、ひたすらに。キャンバスに青を塗りたくる。コンクールの〆切が迫っていて、私は少々焦っていた。
「――」
結果を出さなければならない。
認められているのは、私自身ではなく私の絵の才能だ。だから、私は絵を描かなくてはいけない。だってそうしなければ、私を評価してくれる人がいなくなってしまう。それは一種の強迫観念ともいえた。
「おぅい、聞いてるか」
「はいっ?」
静寂が支配していたはずの室内に突如響いた声。驚いて振り向く。アガツマ先輩がドアのところに立っていた。
アガツマ先輩は、教授の研究室の生徒の一人だ。気さくで人当たりがよく、みんなから慕われていた。
「す、すみません。集中していて」
「だと思ったけど。あんまり根詰め過ぎるとよくないぞ」
ほれ、と私に缶コーヒーを差し出してくる先輩。小さくお礼を言って受け取る。先輩はすぐそこにあったパイプ椅子を立てて座り、自分の分のコーヒーを一口。
「最近、研究室にも来ないし。教授に聞いたらこもって制作してるって言うから」
「……少し、時間が」
「あー、〆切来月だもんな。どうなの?」
「どう、でしょう。どうにか間に合うといいのですが」
正直なところ、間に合うかどうかは微妙だった。完成を急がなければ間に合わないし、間に合ってもコンクールで上位を狙えるかどうかはわからない出来だった。
「うーん、そうか」
アガツマ先輩は唸って腕を組む。私は缶コーヒーのプルタブを開けようと指を、
「あ、痛っ」
「ん?どうした?」
ぱき、という音。先輩が寄ってくる。
「あー、爪割れてるな」
たまたまプルタブが硬かったのか、右手の人差し指の爪が真ん中から割れてしまっていた。深く割れて、少し血が滲んでいる。
「あ、俺爪切り持ってるから、ちょっと待ってろ」
私の手を取ってそれを見た先輩は、カバンをごそごそ漁って、小さな爪切りを取り出した。それでぱちん、と私の爪の割れている部分を切り取る。
「ほれ、絆創膏。貼ってやるから、手出せ」
「え、いいですよ、自分で」
「いいから、遠慮するな、ほれ」
無理矢理に私の手を取って、絆創膏の封を切るアガツマ先輩。
「ほい、できた」
「――ありがとうございます。けど、かわいらしい絆創膏ですね」
アガツマ先輩が貼ってくれたのは、動物の絵が描かれたピンク色の絆創膏だ。おおよそ、普通の男子が持っているようなものではない。
「あぁ、まぁちょっと。気に入らなかったら家に帰って貼り変えてくれ」
指摘されると、先輩はちょっと恥ずかしそうにそっぽを向く。そして置いてあった私の缶コーヒーをかぽっと開けて、
「じゃあ俺は帰る。あんま煮詰まってるといいものできないぞ、適度に頑張れ。それじゃ、またな」
しゅび、と右手を爽やかに上げて、先輩は部屋を出て行く。先輩は、とてもいい人だ。間違いない。缶コーヒーをちびりと口に含む。冷たさと甘さ、そして少し舌がピリピリする感触。なんだか頭がすっきりした。
その日の夜。ずいぶんと暗くなってから自宅に戻った私は、風呂から上がって長い髪を乾かしながら、右手の指先を見つめていた。
「貼り変えろ、か」
アガツマ先輩はそう言った。けれど、これは男子が持っているからおかしいのであって、私が貼っているぶんにはそこまで変なものではない。
それに、アガツマ先輩が貼ってくれたのだ。剥がしてしまうのは、少しもったいない気がして。私はそれをそのままにした。
もしそれを、その時貼り変えていれば。私の運命はまた違ったのかもしれない。
翌日。私は、昨日とは違う気持ちでキャンバスに向かっていた。この壁を越えて、青空を見ているような。そんな空を、描くことができた。
「これなら」
筆が走る。昨日はあれほどまでに重かった指先が、今日は軽い。右手の指先には、相変らずピンクの絆創膏。もしかしたら、先輩が力を貸してくれているのかもしれなかった。
こんこん、と。室内に音が響く。どうぞ、と私は手を止める。
「久しぶり、調子はどう?」
「先輩」
ミハヤ先輩だった。先輩がこの個室を訪ねてくるのは初めてかもしれない。
「はい、おかげさまで、少し上がってきました」
「わたしは何もしてないけどね」
先輩は肩をすくめる。
「けど、本当。調子いいみたいね。この青、とってもきれい。アガツマくんに、ひっかかっているみたいだから様子見てやってくれ、って言われてきたけれど。これなら、必要なかったかな」
「アガツマ先輩が?」
昨日の件を、ミハヤ先輩に話したのだろうか。どうやらこの先輩方は、私を本気で心配してくれているらしい。
「心配していただいて、ありがとうございます。先輩方には、お世話になってばかりで」
「そんな、いいのよ。後輩の面倒見るのは先輩の役目だもの」
私が頭を下げると、先輩は首を振って否定する。そして、手を差し出してくる。
「あなたの才能は、誰もが羨むものだもの。頑張ってもらわなくちゃ」
にっこりと、先輩は言う。いつか、握手を求められたときと同じ動作。私も右手を出して、先輩の手を握ろうとして、
「――あれ、それ」
先輩が私の手を見て、それに気付いた。キヅイテシマッタ。
「その絆創膏」
「あぁ。ちょっと昨日、軽くケガをしまして。アガツマ先輩にもらったんです」
言われて、私はその絆創膏に親指で触れる。
「――……そう」
先輩は無感情な声でそう言って、出した右手を引っ込める。私は少し疑問に思った程度で、その動作を気にも留めなかった。ケガをしているから握手を遠慮した、くらいにしか考えなかった。
「アガツマくん、ひょっとしてあなたのこと好きなんじゃないかな?」
「え?」
先輩の突然の言葉に、声が裏返る。
「そ、そんな。私、ただの絵画バカですし。好きになるんだったら、ミハヤ先輩のほうがよっぽど魅力的だと思います」
「そうかしら。あなたには将来があって、彼だっていくつもコンクールで賞、取ってるもの。お互いに刺激して高め合う関係、いいんじゃないかしら」
「そ、そうでしょうか……」
ミハヤ先輩は早口で続ける。
「私は、彼よりも絵だって下手だし、あなたよりも女性として優れていないし。才能だってないし。だから、アガツマくんはきっとあなたが好きなのね」
「ちょ、ちょっと待ってください」
ミハヤ先輩は、言っていることがおかしい。女性として優れているとかいないとか、才能があるとかないとか。そんなのは、他人を好きになる条件としては二の次ではないのか。
「そう、きっとアガツマくんはあなたが好きなのね。だって、わたし(・・・)が(・)あげた(・・・)もの(・・)を(・)あなた(・・・)に(・)あげちゃう(・・・・・)くらい(・・・)だ(・)も(・)の(・)」
「……え?」
私の頭は回っていない。もし、そこでもう少し上手く立ち回っていれば。私は。
「――さよなら、また今度ね」
はっきりとそう告げて、静かに部屋を出て行くミハヤ先輩。また今度ね、という言葉がその場にそぐわないことも、その時の私には理解できなかった。
それから数日。私の個室には誰が来ることもなく、ただずっと一人で制作に取り組んでいた。
「……」
心には、ずっしりと重たいものがのしかかっている。しかし、筆は止まることはなく。こんな気持ちでも絵が描けるのか、と私は少し自分に驚いていた。
この調子なら、コンクールに間に合う。制作は終盤に差し掛かっていた。
「……ふぅ」
息を吐いて、天井を見上げる。蛍光灯が室内を照らしている。空が見たいな、と。ふとそう思った。途端。
ばちん、と。そんな音がした。
「!?」
室内から一切の光が消える。停電?
「あ、と」
突然立ち上がろうとして、よろめく。がたんと椅子に引っかかって転んだ。床に手をついたまま、顔を上げる。誰かの気配がした。
「誰!?」
私が声をあげると同時。ぱち、と一瞬だけ。すぐそこで何かが爆ぜるような音、そして、
「あ、ぅっ……!!?」
何が起こったのか、理解できなかった。ぱんぱん! と短い破裂音の連続。あまりに強烈に、視界が真っ白になって。
「あ、ぐ……」
そして、扉が開く音と走り去っていく一人分の足音。その場に残された、焦げ臭い匂い。私は両目を手で覆う。視界が今でも真っ白なままで、やがて駆けつけた誰かしらによって、私は部屋から運び出された。
そこからさらに数日後。私は、大きな病院に入院していた。
「では、これを見てください」
医者が私に向かって、数枚のカードを出してくる。
「この中から、白いカードを選んでください」
言われて、私は真っ白いカードを指差す。医者は頷いて、
「では、今度は赤いカードを」
私はカードを指差す。それから医者は何枚かのカードを私に選ばせ、最後に、
「では、あなたの好きな色のカードを選んでください」
「……――」
私は、選ばなかった。だって、白以外がどれも同じ色に見えたから。
後天性の色覚障害。暗闇の中で急に強い光を見たことで色覚が麻痺し、色を認識する能力が著しく低下した、ということだった。私が目に浴びたのは強い光を発する花火のようなもので、ジョークグッズとして市販されているものらしかった。
視力が落ちていないのが救い、と医者は言ったが。私にとって、そんなことはどうでも良かった。
絵描きにとって、最も必要な機能である『色を認識する能力』が、私から喪われてしまったのだった。
足がなくても、絵は描ける。腕がなくても、絵筆はどうにかして持つことができるだろう。喋ることができなくても、支障はない。
しかし、色が見えなければ、絵は描けない。
医者は私の不安を、実に端的に表現した。
「もう、画家として生きていくのは不可能でしょう」
しかし障害者として保障が得られる、とか。就職先はいくらでもある、とか。そういう勘違いのフォローばかりを入れてくる医者を、張り倒してやろうかと思った。
お金なんかいらない、無職でもいい。
私は、絵が描きたかったのだ。
私の人生は、一変した。
それまでの輝かしい経歴は意味を為さなくなり、大学は在籍こそ許可したものの、そんなことに意味はなかった。今更大卒だとか、そんな資格に興味はない。
それまで散々浴びてきた賞賛は、誹謗中傷に変わった。
一つ、また一つと私の居場所はなくなっていった。
当たり前だった。私は、私自身が認められていたのではない。認められていたのは私の絵の才能で、それが使い物にならなくなれば、それに依っていた私の基盤はすべて崩れてなくなった。
もはや、その妬みを隠す必要もない。罰が当たった、天罰だ、ざまぁみろ。そんな声がどんどんと私の耳に入ってくる。
それに耐えられなくて、私は耳を塞いだ。心すらも閉ざして、そして私は大学を辞める決心をした。そうなるまでに、そう時間は必要なかった。
大学を去る最後の日。私は、せめて世話になった研究室には挨拶していくことにした。研究室のドアの前で、私は何度も深呼吸をし。ドアを叩くのも何度も逡巡して、ようやく決心を固め、右手を上げた。
『お前、どうして!』
怒声が、室内から響いた。すっかり臆病になっていた私はそれに身をすくめる。それは、聞き覚えのある声だった。
『なんでそんなことしたんだ!』
それは、アガツマ先輩の声だった。私が知る限り、とても温和だった彼がここまで声を張り上げて怒っている。いったい何の話をしているのか。
『あなたが悪いんじゃない! あなたが!』
もう一人の声。その声にも、覚えがあった。
『どうしてだ、どうしてなんだ! ミハヤ!』
ミハヤ。そう、もう一人の声は、ミハヤ先輩だ。けれど、どうしてこの二人が口論をしているのか?
『っ、もういい!』
がたん、と中で音。どすどすと怒りを隠そうともしないその足音が迫って、
「――あ」
扉を開けたアガツマ先輩が、私を見て、固まっていた。その後ろ、窓際に。ミハヤ先輩も私を見ていた。
「――……!」
アガツマ先輩は喉の奥から声を絞り出そうとして、しかし何も言わずに走り去った。開いたままの扉、立ち尽くす私に、
「入りなさいよ」
ミハヤ先輩の言葉に、私は言われるまま部屋に入る。扉を閉めて、研究室には二人きり。ミハヤ先輩は無表情で、私を見ている。
「どうしたの?」
先輩の口が開く。静かな声だった。
「あ、あの――きょう、退学届を、提出したので、ご挨拶に。教授は?」
どうしてだろう、声が震える。
「教授はいないわ。今、色々忙しいみたいだから」
「そう、ですか」
会話はそこで終わってしまう。びりびりと、痛いくらいの空気に耐えられなくて、
「あの、今――何を、言い合っていたんですか?」
そう聞いた。
「あぁ」
ミハヤ先輩は私の問いに、いったん間を置いて、
「あなたのことでね、喧嘩しちゃったの」
「え?」
心臓が跳ねる。私の、こと?
「そう、あなたとのこと。あなた、今日でいなくなるんでしょう? いいわ、この際だから全部話してあげる」
先輩は立ち上がり、笑う。それは、いつも見せていたような人好きのする笑顔ではなく、ぞっとするくらい冷たい、笑顔。
「あなたのその目、わたしがやったのよ」
「……――」
聞き間違いかと思った。しかし。
「わたしが、あなたの夢を絶ったの」
先輩は、そう言い直した。
「だって、あなた、目障りなんですもの」
先輩の言葉が、ナイフとなって私の全身に突き刺さっていく。
「あなたが来るまで、わたしがこの研究室で一番絵が上手かったの。みんな、わたしのことを慕ってくれたわ。教授だって、わたしのこと、すごい才能だって褒めてくれた。
けれど、あなたが来て。わたしは、見向きもされなくなった。みんながあなたしか見なくなった。
コンクールでは、いつもあなたが一番で、わたしが二番。いつだって、あなたはそうだった。あなたが出すコンクールに応募しては、わたしは辛酸を舐めさせられた。
けれど、それは実力の違いだから、認めるしかなかった。あなたの絵は、本当に素晴らしいもの、それは認めていたわ」
先輩が、一歩一歩、近づいてくる。その総身に悪意を湛えて。先輩は、わたしに言葉のナイフを投げ続ける。
「けどね、あなたはわたしから、立場だけじゃない。名声だけじゃない。
アガツマくんまで奪っていこうとした。知ってる? わたしたち付き合っていたんだから。あなたが来る前から付き合っていたの。
それなのに、後から来たあなたがアガツマくんを、アガツマくんまで取っていこうとするから、あなたがわたしから全てを奪おうとするから。
だから、それよりも先に、あなたからたったひとつ、奪わせてもらった。
ねぇ、今の気分はどう? わたしから何もかも奪おうとして、あなたの一番大切なものを失った気分はどう?」
全身を串刺しにされて、立っていられるはずがない。私は背中を扉にくっつけて、それ以上の逃げ場を求めて、床にへたり込んだ。
「わたしもね、もうすぐ大学をやめることになるわ。バレちゃったの、学校に。教授はそのせいで、いま呼び出されているの。
わかる? あなたはわたしだけじゃなくって、教授までダメにしようとしてるの。全部あなたのせい、全部、全て、みんな! あなたのせいなの!」
色を失った灰色の世界。私を見下ろす先輩は、泣いていた。ぽたぽたと、私の頬に先輩の涙が零れる。
あぁ、そうだったんだ。先輩は、私のことを認めてくれているわけではなかったんだ。ただ、ねたましくて。私という存在が邪魔だったんだ。
「――……い」
私の口からようやく出た言葉は、たったひとつ。
「……ごめんなさい」
「――謝るなら、謝るくらいなら。どうして……?」
どうして。それは、何に対してだろう。いいや、何にでもない。
全てに対して、だろう。そう理解した。だから私はよろよろと立ち上がって、扉に手をかけ、それを開けて。
「お世話に、なりました。ありがとうございました。どうか、元気で」
嫌味に聞こえてしまったかもしれない。けれどそれでも、それだけは私が言いたかったことだった。だから、言って。私はその場を後にする。
歩きながら、私は背中で先輩の慟哭を聞いた。
そして、私は全てを喪った。世界は灰色で、白黒で。手に持っている絵の具のチューブが何色なのかもわからない。文字を見れば一応何色かはわかる。けれど、こんな状態で絵が描けるわけがなかった。
「……」
私は、画材道具一式を処分した。絵の具や絵筆、イーゼルや教本など。家の庭で全てを燃やした。ぱちぱち、と爆ぜる火の粉が空に舞い上がっていく。
空は、灰色で。私の好きな青空は、もう見られない。こんな空に意味はない。いっそ、消えてなくなってしまえ。そう呪った。
するとたちまち空に黒い雲が立ち込めて、ぽつぽつ、と雨が降り出す。焚き火が消え、私の全身を雨が濡らして行く。このまま、溶けて消えてしまいたい。そんな思いは届かず、私はふらふらと家に戻る。
「大丈夫……?」
母が声をかけてくる。
「あぁ、大丈夫。もう、大丈夫」
タオルを差し出してくれる母のほうを見もせず、私はそれを受け取る。頭を軽く拭き、母にそのタオルを返そうとして床に落とした。
「おっと」
それを拾い上げ、母に手渡そうと、して。
「――え?」
私は、自分を疑った。いや、正確には自分の目だ。
「――緑、色……?」
それは、少しくすんだ、暗い色の緑色だった。母の服の色、ではない。なんだろう、これは。母の、ちょうど鳩尾のあたりか。そこから胸のあたりにかけて、そんな緑がもやもやと揺れ動いていた。
「母さん、その、今日の服の色は……?」
おそるおそる、聞いてみる。もしかしたら、という期待。しかし。
「きょ、今日は、ベージュのセーター、だけど。それがどうかしたの?」
「ベージュ?」
そんな、ならばこの緑色はなんだというのか。私の質問に、その緑は揺らぐ。わずかに黄色が差し、そしてまた緑色に戻る。
「これは、いったい……?」
母にタオルを押し付け、私は自室へばたばたと戻る。引き出しから取り出したのは色鉛筆。処分し忘れたそれらを机に広げ、見る。しかし、わからない。
「はいい、ろ……」
「ねぇ、どうしたの?」
母が心配して私を追いかけてきた。母のほうを向く。
「……!?」
やはり、母の胸元には、緑色のもやもやが浮かんでいる。得体の知れないそれはしかし、私をなぜか安心させる。色が、見える。
「ねぇ、本当に大丈夫……?」
「あぁ……大丈夫だよ、ありがとう」
少し落ち着きたい、と私は母を部屋から追い出す。濡れた服を着替え、ベッドに倒れこむ。この現象は、いったいなんだ?
「母の胸には緑色。部屋は灰色のまま。一部的に色覚が復活しているわけではない」
少し考えて、ふと思い立って、鏡の前に立ってみる。背の高い姿見、そこに映った自分の胸元には、
「これ、は」
母に見えたものと同じ、しかしこちらは黄色いもやもやが見えた。
私は空が晴れるのを待って、街に出た。そこで見たのは、信じられない光景だった。
「色が――見える!」
建物やネオンや車、無機物は全て灰色のままだ。街路樹や草花も灰色のまま。
しかし、道を歩く人々の胸元には、自分と、母と同じ。もやもやした色が見えた。それぞれに色は違う、しかし、私の視界は、私の世界は。
灰色の世界が、色づいていた。
「ははは――」
空は、灰色。しかし、こうして色が見えるのなら。もしかしたら、この先、もう一度この空を青く見える日がくるかもしれない。希望が、ある。
それは、それだけで私には生きる意味となった。
* * *
「私のナクシとしての能力はね、セキ。
他人の色を見ることなんだよ。相手の精神状態や位置を把握し、読み取る能力。その対価として支払ったのは、通常の色覚。
だから私の目には、ラジオの中身や配線は、ただの白黒や色の濃淡にしか見えないんだ」
画伯が話し終える。ぼくは、言葉が出なかった。
「どうしたね?」
「いやその、そんなことがあったなんて……」
足を止め振り返る画伯の顔を、ぼくは見ることができなかった。
「気にすることはないよ、セキ。私は今こうしているのが幸せだし、慣れればそこまで不自由はない。私は、日々を楽しんで生きているよ」
「けど」
それは、無理をしているんじゃないのか。だって、そんな絶望を生きてきて、楽しいはずがない。
「セキは物事を難しく捉えすぎだな。もう少し簡単でもいいのではないかな」
そう言う画伯。しかし、人間はそう簡単に行かないのではないか。
「いいや、簡単だよ、人間というのは。複雑そうに見えるだけだ」
「……ぼくにはそうは思えないです」
ぼくは首を振る。画伯は何も答えず、会話はいったんそこで終わる。雨の音だけが、ぼくらの間に横たわっていた。
「画伯は」
聞きたいことがあった。けれど、それを聞くのはなんだかためらわれて。けれど、
「どうしたね」
画伯に促されて。ぼくは、何度かためらって、けれど聞いた。
「……どうやって、その絶望から這い上がったんですか」
「――それを説明するには、もう少しあとのことを話さなければならないね」
画伯は再び話し出す。雨脚は、少しだけその強さを和らげたようだった。
* * *
日常生活に支障ない程度までその目に慣れたころ。私は再度、大学を訪れていた。
「……お久しぶりです、教授」
どうにかまだ生きていたつてを頼り、私はなんとか教授とアポを取った。
「やぁ、久しぶりだね」
教授は優しい笑顔で私を出迎えてくれた。研究室には他に誰もおらず、教授は一人教本を読んでいた。その胸には、母と同じ、緑色のもやもやが浮いている。これは他人を心配している時や不安な時の色だった。
「ははは、他の生徒もみんなよその研究室に行ってしまってね。僕の教え子は、もう一人もいないんだ」
教授は苦笑する。仕方ない、と肩をすくめて。私が謝ると、教授はその必要はないと私の頭を上げさせた。
「君のせいじゃないさ。誰のせいでもない。ただ、少し運が悪かった。それだけだ」
椅子を勧められ、私は座り慣れた木製の椅子に腰掛ける。制作の際にいつも使っていたものだった。
「何か飲むかね?」
「いえ、けっこうです。今日は、聞きたいことがあって」
「聞きたいこと?」
腰を上げた教授は椅子に戻り、私の質問を待つ。がたがたと風で窓が揺れる。やがて冬になろうとしていた。
「ミハヤ先輩の、住所を教えてほしいんです」
「ミハヤくんの……?」
教授は私の言葉に眉をひそめる。当然だろう。教授の緑色が、少し色を濃くする。
「待ちたまえ、どうして君が」
「別に、復讐だとか、そんなんじゃないです、決して。そこまで乱心はしていませんから。ただ、もう一度、話がしたいんです」
教授の言葉を遮った私の言葉に、教授はうぅむ、と唸る。
ただでさえ個人情報の漏洩は問題だろうし、それがもし犯罪の引き金になったりしたら、今度こそ教授も大学には居られない。緑色はさらに色濃くなり、黒ずんできている。
「決して、問題は起こしません。どうか、教えていただけませんか?」
頭を下げる。土下座でもするくらいの気概で、今日はここに来た。そして、
「――どうしてもと言うなら教えるが」
教授が、押しに弱いこともわかっていた。私は顔を上げる。
「ただし」
言葉が続く。
「ぼくも一緒に行く。何か問題を起こそうとすれば、力ずくでも止める。いいね?」
私はその言葉に、無言で頷いた。
教授が車を出してくれ、大学から何十分か車を走らせて、ミハヤ先輩の自宅にやってきた。風が強い。びゅうびゅうと吹き付ける風は木の葉を散らして舞い上げる。
「ここが、ミハヤくんの家だ」
ごく普通の、いや一般よりは大きい二階建ての一軒家だ。私は二階を見上げる。部屋が二階にある、というのは在学中に聞いていた。
「どうしたね?」
呼び鈴を押そうとしていた教授が立ち尽くす私に気付いて寄ってくる。私は、自分の胸を締め付けるこの思いをなんと表現していいのかわからなかった。
「……教授、申し訳ありません。もう、充分です」
私は二階から視線を逸らす。地面に投げた視線、灰色の視界には、今見た色が焼きついていた。
「……ごめんなさい、ミハヤ先輩。ごめんなさい……」
そうして、私は泣いた。ぼろぼろと、教授がいるのも構わず子供のようになきじゃくった。場所が悪いからと車の助手席に押し込められて、それでもなお、私は泣き続けた。
私が見た色。それは間違いなくミハヤ先輩のものだ。真っ黒く、どす黒く染まり、渦巻いて。それは、後悔、自責、怨嗟。ありとあらゆる負の感情が交わりあって生まれたどす黒い『絶望』という感情。そして、その中に、一つだけ、一滴だけの白。
奇しくも、私と彼女。双方がお互いに伝えたいことは、同じだったのだ。
後日、私は教授から教わった住所に宛てて、一通の手紙を書いた。便箋には、ただほんのわずかの言葉と、そして最も伝えたかった言葉を書いた。
驚いたのは、それに対して返信があったということだ。真っ白い封筒から出てきた便箋には、先輩の少し丸い文字。私よりは多いいくつかの言葉と、そして私が最後に綴ったのと同じ言葉が書かれていた。
* * *
「私はね、もう彼女を許した。彼女も、きっと私を許してくれている、と思う。
そう思ったらね、もう絶望だとかそんなことを考えるのがバカらしくなってしまったんだよ。だから、私はもうそういったネガティブなことを考えるのはやめた。
そのかわり、そこで絶望して落っことしたぶん。今を、これからを楽しく、幸せに過ごそうと思った。
だから、私はここにいる。私は、今の自分に満足している。
セキ、君にもいつかわかると思うよ、今はまだ早いかもしれないけどね」
画伯はそこまで話し終えて、再度足を止めた。画伯は、笑っていた。
「そうそう、私が雨の日を好きな理由だがね」
それは、予想が付いた。元々青空が好きだった画伯が色を喪って、世界が灰色になった。だから、この灰色の、鉛色の空が好きになったのだろう、と。
「……何か難しく考えていないかね? 決してセキの思っているようなことではないよ」
「え?」
「私が雨を好きなのはね――ポイントカードだよ」
「ぽいんと?」
「そう、行きつけの本屋があるのだがね、その本屋は雨の日にはポイントが倍になるサービスをやっているんだ。ポイントが貯まれば景品と交換できるしね。おいしい話だろう?」
なんていうか、これはまた煙に巻かれているんじゃないか、という気がした。けれどそうじゃない。画伯はおそらく本心で言っている。
「言ったろう? 世の中そう複雑じゃないと。それに、私は雨の日だって好きだが、ちゃんと晴れの日も好きだ。私は今でも、あの空の青さを忘れたことはないよ」
雨はもうほとんど止んで。わずかにその名残を残すだけ。バス停に着くと、サイとパシリは屋根の下でひたすらしりとりをしていたらしい。
「サイさん、謎の人名をでっち上げるのは反則っすよ」
「ふふ、まだまだ修行が足りないわねパシリ」
結局傘を差さずに、ぼくらは事務所へ向かって歩く。すっかり上がってしまった雨に傘を畳み、雲の切れ目からは太陽の光が漏れている。
「あぁ、すごくきれいな空ね」
サイが見上げ、言う。強い風が雲をどかし、突き抜けるような真っ青な空が見えた。パシリも見上げ、おぉーと一人声を上げた。
「うむ、とてもきれいな青色だな」
画伯のその言葉に、ぼくは画伯を見る。空を見上げるサイとパシリ。画伯は、そんなサイを見ていた。
「青色?」
「あぁ。サイはね、私が大好きだった青空のように青い。とても澄んだ、けれど確かな存在感を持った、素晴らしい色だ」
白衣のポケットに手を突っ込み、サイから視線を外して空を見る画伯。その目には、この空はどう映っているんだろう。
「きれいだな」
ぽつりと。画伯はそれだけ言った。それが彼女の心から出た言葉だと思った。
「……そうですね」
だからぼくも空を見上げて、それに頷いた。
「ちなみにな、セキ。君は、非常に複雑な色をしている」
「え?」
「基本は黒……いまだ、絶望から抜け出せていない証拠だな。しかし、その中に時折見える青や緑――ここしばらく君を見ていたが。君の本質は、きっとそちらなのだろうね」
画伯はぼくの胸を人差し指でとん、と抑える。
「君は、生来とても優しい人間なのだろう。だが、今は他の事柄に気を取られ、それを出し切れないでいる。それがなんなのかはわからないが――実にもったいないな」
「……――」
その言葉にぼくは立ち止まり、画伯が抑えた胸を左手で掴んだ。息を吐いて、自分の胸にいまだ渦巻くその感情は、二年経った今でも消えることはない。
「早く帰りましょう、少し冷えてきちゃったし」
「あ、オレ買い物してから帰るっすよ。今夜はシチューとかどうっすか?」
「ほう、ではとろとろのビーフシチューをリクエストしよう」
気が付けば、みんなと少し距離が離れている。画伯がパシリの提案に難易度の高い注文をぶつけて、三人仲良く並んで歩き出す。
「セキ、どうしたの? 置いていってしまうわよ」
サイに呼ばれて、はっとする。慌てて駆け出して、みんなの背中に追いついて。今度は四人で並んで、歩きだした。