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1. ナクシとウセモノ。そんなものが存在する世界

 その日は朝からとても良く晴れていて、絶好のお出かけ日和だった。

「おーい、早くはやくっ」

「待って、アズサ! 車ロックしなくちゃ」

 急かす彼女の声に、ぼくはがちゃがちゃと慌しく車の施錠をする。父から借りてきたセダンは古いもので、リモコンでの施錠機能なんてもちろんついていない。キーを直接挿して、ロックをかけた。

「ねぇ、早くっ!」

 上気した彼女の声は、もう待ちきれないといった感じだった。その声に追いつこうと、砂と石の混じった足場の悪い駐車場を小走りで駆け出した。

「もう、遅い」

「あはは、ごめんごめん――うわ」

 がさがさと茂みを掻き分けていって、ようやく彼女の背中に追いつく。そして、ぼくの目に飛び込んできたのは一面の、青だった。

 どこまでもどこまでも左右に伸び、ゆるやかに弧を描く水平線。境目がわからなくなるほどに眩しく、きらきらと太陽の光を反射する水面には紺碧の空が映り込んで。

優しい波音と少し強い風の音、そして彼女の呼吸音。それだけが世界の全てで。

これを形容する言葉を、ぼくは持ち合わせなかった。強いて言うなら、ただ一言。

「――すごい」

 それだけだった。

 彼女は、この景色をぼくと一秒でも早く共有したかったのだろう、あんなにも急かした理由がわかった。

「正直これほどとは――思っていなかった」

「ホントすごい。あたしも友達に写真見せてもらってから、ずっと来てみたかったの」

「ぼくと?」

「うん、きみと」

 アズサははにかみながらそう言って、ぼくの右手を握る。それが物凄く嬉しくて照れ臭くて、ぼくはそっぽを向いた。その手を握り返して。

「きみの手は、あったかいね。あったかい手って、好きだな」

 言われて、ぼくはもっと照れ臭くなる。もう、どうしていいかわからなくて、ぼくはひたすらこの景色を褒めちぎった。

 どれだけの時間そうしていただろうか、きっとそう長くない時間だ。彼女がぼくの手を放し、一歩踏み出す。

「ね、波打ち際、行こう? 水着はないけど、水遊びくらいならできるし」

 振り返って笑いながら、アズサはぼくに言った。満面の笑顔で言った。

 ある夏の日。運転免許を取得して初めての長距離のドライブだった。自分の身の丈に合っているのかどうかまったく定かではない、幸せな時間だった。


「なんだか、天気悪くなってきたね」

 ちょうど肌寒さを感じたころ、アズサが言った。

 波打ち際で遊び、彼女が持ってきた手作りの、お世辞にも上手とは言えないけれど心のこもった弁当を食べ、レジャーシートの上でくつろいでしばらく経った頃だった。

 見上げればあれだけ晴れ渡っていた空は曇り、水面を輝かせていた太陽は雲に隠れてしまっていた。

「そうだね、そろそろ車に戻ろうか」

「うん、そうしよう」

 手早く片づけを済ませ、荷物を持って車に戻る。太陽の光で照らされていた車内は暑く、窓を開けて車を走らせた。

 しばらく車を走らせていると、ぽつ、ぽつとフロントにわずかな水滴が落ちてきた。それはいくつもの粒になって、やがてけたたましく車体を叩く雨となる。

「アズサ、窓閉めて。エアコン入れるよ」

 古い車だから、もちろんくるくるとハンドルを回して閉める窓だ。二人してハンドルを回して窓を閉めて、エアコンを入れて帰路を走る。

「あんなに天気、よかったのにね」

 残念そうにアズサが言う。もう少しゆっくりしていたいのはぼくも同じだった。けれど、天気ばかりはどうにもならない。

「また来よう、夏は何も今年だけじゃないし」

「んー……うん、そうだね」

 アズサと取り留めのない話をしながら、車はやがて峠道に差し掛かる。くねくねと九十九折になった道は見通しが悪く、しかもこの雨で路面は滑りやすくなっていた。

「安全運転でお願いしますね」

「うん、わかってるよ、だいじょうぶ」

 アズサに言われるまでもなく、ぼくは細心の注意を払ってハンドルを握っていた。

 ぐるっとU字を描くように曲がるカーブ。外側を走っていたぼくの車、そして対向車は大きなトラックだった。なぜそんなところでちょうどすれ違ってしまったのか、それはもはや運が悪かったとしか言えない。

 雨で滑りやすくなっていた路面はトラックの後輪をスリップさせ、車体が大きく流れた。あまりにも突然すぎる出来事に対応できるようになんて、人間はできていない。ぼくの足は数瞬遅れてブレーキを踏み、眼前に迫る銀色のトラックの荷台、甲高い音、そして、


 気付けば、そこは真っ白な天井だった。真っ白なその場所には窓があり、ひらひらと白いカーテンが揺れていた。まともに動かない体、首だけを動かしてどうにか現状を把握しようと試みる。

「事故った、んだっけ」

 何がなんだか思い出せないけれど、そういうことだろう。眼前に迫るトラックの銀色の荷台、タイヤのスリップする甲高い音。断片的にだが、思い起こすことができた。

「って、安心してる場合じゃ!」

 そう、そんな場合じゃない。がばっ、と唐突に体を起こす。あまりにも突然動いたものだからバランスが崩れて、右手をついて体を支えようとし、て。

「うわっ」

 失敗した。ベッドから転げ、がしゃがしゃ、どたんと派手な音で床に落っこちた。その音を聞きつけた白い制服の看護師の女の人がぼくをベッドに戻し、いくつかの質問をして医者を呼びに戻った。

 質問をしたのなら、こちらからも質問をさせてくれてもいいのに。いくつも、聞きたいことがあるのだ。

「くそ」

 悪態をつきながら体を起こす。頭の右側がずきんと痛んだ。先ほどベッドから落っこちたときにぶつけたりしたのだろうか。さすろうと手を伸ばして、

「――……あ、れ」

 何かが、おかしいことに気付く。決定的に、おかしい。だって、自分で手を動かしているはずだ、それなのに、頭をさすることができない。嫌な予感がする。

ぼくはベッドから立ち上がって、部屋に備え付けられた洗面台まで歩いていく。体が重くて、まるで自分の体ではないみたい。洗面台にしがみつくようにして必死にどうにか鏡を覗き込んで、そして、後悔した。

「あ……あ――」

 頭を触れなかった、体を支えられなかった理由がわかった。

 だって、鏡に映ったぼくには、右腕がなかったのだ。







1. ナクシとウセモノ。そんなものが存在する世界


 ぼくは、走った。全力で走っていた。

 なぜかって、それは。

 逃げなければ、あの得体の知れない何かに、どうにかされて――恐らくは殺されて――しまうから。

「な、なんなんだ、アレはっ!?」

 もはや体力は限界で、それでも逃げなければいけなくて。どこかに逃げ込む? それは無理だ。だって、アレが他のヒトに危害を及ぼすかもしれない。ぼくのせいで被害者が増えてしまう。それはまずい。

「けど!」

 ならば逃げずにさっさと自分ひとりで襲われろ、というのはそれこそ無茶だ。あんなよくわからないものに襲われる意味がわからないし、殺されてやる道理もない。

「あぁ、くそ!」

 深夜とはいえ、繁華街。他にも通行人はいるっていうのに、どうしてぼくだけが追われているのか。そもそも、どうしてあんなものが人間を追走しているというのに、騒ぎにすらならないのか。

 それはひとえに、アレが他の人間の目には見えていないからだろう。

 視覚はもちろん、聴覚、触覚、嗅覚。そのどれもを用いても、一般人にアレを知覚することはできないだろう。ならば、どうしてぼくはアレを知覚できるのか。

「うわぁっ!?」

 急カーブ、裏路地に入る。ガターン! と大きな音を立ててゴミの入った青いバケツを蹴り倒した。宙に浮く体、左手を伸ばして地面を転がり、一瞬の動作で起き上がって、また走り出す。アレは、相変らずぼくを追いかけてくる。

 どうしてぼくはアレを知覚できるのか、そんなの。ぼく自身が一番知りたかった!

「あ、づ……」

 さらに路地を曲がろうとして、自分の行動ルーチンの愚かさを知る。そこは、距離幾ばくもない行き止まり。端に積まれた雑誌や古新聞の束、壁にはパイプが伝っているだけの場所で、高さはざっと数メートル。とてもじゃないが、登れない。

「ぅ……」

 振り返る。あの得体の知れない何か――今改めて見ると、黒くてごわごわした質感の、服のようにも見える――が、すぐそこに迫っていた。

 季節はもう冬に変わろうとしている十月の夜、冷たい空気の中で汗だくになって、ぼくは切れた息を無理矢理押さえ込む。

 内心で悪態をつきながら周囲を見回す。退路がないのなら、一か八かアレの打倒を試みるしかない。このような人外とやり合う経験は皆無。そもそも、どこをどう殴れば昏倒してくれるのかもわかりゃしない。

(それでも)

 体力の限界に近い体に喝を入れ、深呼吸。左腕一本での構えはひどく滑稽だった。

「やるしか、ない」

 左腕を前に、間合いを測る。三歩、いや四歩か。ふわふわ、ゆらゆらと揺れる洋服お化けはこちらの動きを警戒している、ようには見えない。ただ浮いているだけだ。

(先手必勝!)

 倒さなくていい、アレの横を駆け抜けられる程度、一秒強の隙が作れればそれでいい。そこからはまた終わりの見えない長距離走になるかも知れないが、それはそれ。

「せいっ!」

 初動から初撃まで、一秒。そこらのヤンキー程度なら一撃で終わるだろうその攻撃も、もちろん人外に効果があるはずもなく。

(冗談でしょ!?)

 確かに命中したはずのぼくの左拳は、ひらりと身軽にかわされた。暖簾に腕押し、という言葉を文字通り体感する。

「しまっ――ぐ!」

 それどころか、ひらひらと動いたソレはその袖をぼくの腕に絡ませ、ぐるぐると包み込んでしまう! 締め上げられる左腕、ねじ切られるんじゃないかって痛み。明滅する視界が伸びてくるもう片方の袖を捉えた時には、もう全てが遅かった。

「あ、ぁ……」

 ぎゅるぎゅると首に巻きつき、左腕と同じように締め上げられる。胴体にも巻きついた布切れはいよいよぼくの動きを封じて、もう身動きが取れない。せめて右腕があったなら、まだ抵抗もできただろう。

 だけど生憎、ぼくは右腕を喪っている。もう、詰みだった。

 ぎちぎち、ぎりぎり。締め上げはきつく、もう全身の感覚がない。どうして、こんなことになったのか。よくわからない。けれど、こんな人生を生きているくらいなら、いっそ死んでしまったほうがいいかもしれない。そんな甘えた考えが頭をよぎって、けれどそう考えることくらいしかできなかった。

 胸が、悲しい気持ちで満ちる。どこから去来した感情なのだろうか、これは。自分の中に生まれるはずのない感情。現実味がない、不思議な気持ち。

 叶うなら、誰か。せめてコイツが、なんなのか、くらい教えてくれ。ぼくの最期の頼みを聞き入れてくれる誰か、なんてもちろんいるはずがない。

「驚いた、こんなところにウセモノがいるなんて。あなた、だいじょうぶ? 今助けてあげるから」

 いるはずがない、はずだった。真っ白になって、今にもオチそうな意識をその声が繋ぐ。向こうから、誰かが歩いてくる。こつこつと静かな、けれど確かな足音が路地裏に響いている。暗くて、誰なのかわからない。けれどその人影はこつこつ、とぼくのすぐ側でその足音を止めて、

「失せなさい、そのひとは、あなたとはなんの関係もないわ」

 伸ばした右腕が、ぼくに、いや。ぼくを締め付ける洋服お化けに触れる。その瞬間、全身の拘束が解かれ、ぼくは地面に崩れ落ちた。

「げほ、げほっ……ごほっ」

 地面に突っ伏してむせ返るぼく。途端、世界がぐにゃりと曲がった。あぁ、どうやら、一度助かった命運もここで尽きるらしい。実に、意味のわからない終わりだった。

「あぁ、逃げるなこらっ……もう。あ、ちょっとあなた、だいじょ――」

 慌てるその声は、女の子のものだった。立ち上がろうとして不恰好に倒れたぼくは、最後の力で仰向けになる。差し込む月の光。あぁ、今日は満月だったんだ。キレイだなぁ。

「――、……――」

 何かを言っている。それはもう声ではなく、よくわからない音でしかなくて。眠たくて、どうしようもない。今目を閉じれば、二秒で眠れる。自身の欲望のままにそれを行おうと、目を閉じる。

 その最後に、ぼくの視界が捉えたのは。絹のように滑らかに流れる黒い髪、月の光を反射して輝く、まるで天使みたいに神々しい、女の子の姿だった。


   * * *


 ぼくが右腕を喪ってから、二年が経っていた。

 それまでそこそこ順調だったはずの僕の人生は、その出来事を機に一変した。

 まず、それまでと同じ生活が送れなくなった。日常の何気ない行動ができなくなったのもそうだし、ずっと続けていたバイトも仕事が出来なくなったことで辞めさせられた。

 大学も休学し、ぼくは留年して。数は多くないけれどそれなりにいた友達もみんな進級して、ぼくは一人ぼっちになった。中には気にかけてくれる人間もいた気がするが、正直よく覚えていない。

 だって、あまりにも大きな変化だったから。たった一つの事故が、こうまでぼくの人生を変えてしまうなんて想像もしなかった。後悔しても、時間が戻るわけではない。それでも、後悔せずにはいられない。

 日常生活を通常に送るのにも困難を極めるようになったぼくは、やがて大学には行かなくなり、退学した。そうすればもちろん、家庭がうまくいくはずもなく。両親とも軋轢を生み、厳しい父はぼくを半ば勘当ともいえるかたちで放り出した。

 普通であれば一番の支えになってくれるはずの家族にそうされたことも衝撃ではあったけど、自身に起こった変化は、それすらも瑣末事だと感じるほどで。

 かくしてぼくは本当に一人になり、そして、


「ん……ぁ」

 いま、どうにか目を覚ましたのである。

(ここ、は?)

 見覚えのない景色だった。白い天井は病院の無機質な感じとは違う、くすんで汚れた生活感のある白。横の壁は天井と同じ色で、景色は横向き。どうやら、どこかに寝かされているらしかった。

「ぅ」

 体を起こそうとして、全身がひどく軋んだ。びきびきと関節が悲鳴をあげて、すぐには動けそうにない。その動きに紺色のソファがぎし、と鳴って、

「おや、目が覚めたかね」

 その音に気付いたのか、声が上から降ってきた。

「そのままでいいよ。もうしばらく休んでいるといい」

 声は女性のもので、大人びた、落ち着いた雰囲気の声だった。その声の主はぱたぱたという足音を立てて歩き、ぼくが寝ているソファの、テーブルを挟んで向かいのソファに腰を下ろした。

「キミを連れ込んだ本人がいま少し出ていてね、じき戻るだろうから待っていなさい」

 足を組んだ女性はその手にコーヒーカップを持ち、それをすすっている。短髪の、利発そうな女性だった。七部丈のジーンズに淡い水色のシャツ、そして真っ白いコート。いや、違う。あれは、白衣か?

「飲むかね?」

 ぼくの視線に気付いた女性がカップを掲げる。相変らず悲鳴をあげる体をどうにか起こし、背もたれに体を預ける。体にかけられていたオレンジ色のタオルケットを膝に乗せ、大きく息を吐く。

「いえ、だいじょうぶです。今は、少し気分が」

「そうか、まぁそうだろうね。何か欲しくなったら言いなさい、といっても水と麦茶とコーヒーしかないけど」

 かちゃり、とカップとソーサーをテーブルに置く女性。ふわっと漂ってくる芳香は少しだけぼくの胃袋を刺激したが、それよりも今はこの体の重さのほうが重要だ。

 幸い、全身の力を抜いて目を閉じていれば、少しずつ気分が良くなってくる。精神的によほど参っていたらしい、こんな風に安らぐのは久しぶりな気がした。

「よほど疲れていたようだね、運び込まれてからこっち、昏々と寝入っていたが」

「運び込まれて……どのぐらい寝ていたんですか、ぼくは」

「そうだな、ざっと十二時間といったところかな。ちなみに、今は昼の十一時だよ」

 そんなにも、ぼくは眠っていたのか。つまりはまるっと半日、この場所を占有し続けていたらしい。そう考えると、なんだか情けなさと申し訳なさでいっぱいになってくる。

「あの、すみません。ところで、ここは――」

『ただいま、今戻ったわ』

『はー、ただいまっす』

 ここはどこなのか、と質問をしようとしたところで、がらがらという扉の開く音。二人分の会話と足音が、近づいてきた。

「おかえり、客人が目を覚ましたよ」

 暖簾をくぐって歩いてくる二人。目の前の女性が立ち上がってそちらに歩いていく。ぼくもどうにか立ち上がろうとしたけど、やはりまだ体力が戻っていない。背もたれから体を起こすのがやっとだった。

「良かった。あまりにも良く眠っているから、このまま目を覚まさなかったらどうしようってちょっと不安だったの」

 明るいその声には、聞き覚えがあった。昨日、あの時。薄れる意識の中で聞いた、女の子の声。

「どう? からだの調子は。まともに動く?」

 ぱたぱたと早い間隔でこちらに近づき――スリッパの音だった――ぼくの顔を覗き込んでくる女の子。長い黒髪が肩からさらりと流れ落ちた。

「あ、え、えっと。体は、もう少し、かも」

 その距離があまりに近くて、戸惑ってしまう。透き通るような白い肌、瞳はきれいな茶色をしていて、とても澄んでいる。どこか幼さも感じる顔立ちはけれど、気品も同時に感じさせる。早い話が、とんでもなくかわいかった。

「んー、そっかそっか。まだ万全じゃないか。まぁ、そうよね。死にかけたんだし」

 ぼくの言葉にこくこくと頷きながら、女の子はぼくの手を取る。右手で手の平を握り、左手で手首を握る。ちょ、っと、待って。

「ん、なんか脈が早くない? あなた、ほんとにだいじょうぶ?」

「こらこら、よさないか。そんな風にしたら、脈が上がって当然だろう」

 にゅっと手が伸びてきて、女の子を引き剥がす。白衣の女性だった。

「パシリ、全員分の飲み物を。ほらほら、サイも離れて」

「了解っす」

「あはは、ごめんごめん。少しテンション上がっちゃった」

 白衣の女性がその場を取りまとめ、女の子は大人しく向かいのソファに腰を下ろした。薄いピンクのブラウスに、白いカーディガンを羽織っている。それにベージュのロングスカートのコーディネートは、地味だけれど女の子にはよく似合っていた。そして、

「はい、麦茶っす。とりあえず、こんなもんで」

 白いシャツに黒い革ジャンを羽織った、金髪を逆立てたチャラい男。あまりにも、この二人の女性とは住んでいる世界が違いすぎて困る。いったいどういう関係なのだろう。

「さて、と」

 女の子が金髪の男からグラスを受け取りきゅーっとそれを飲み干して、

「それじゃあ、ちょっとお話を聞かせてもらおうかな」

 女の子は、膝に肘をつき、両手をあごの辺りで合わせて、僕を上目遣いで見た。

「お話、っていうと?」

 もちろん、ぼくはどこから何を話せばいいやらわからない。

「そうねぇ、じゃあまず、あの洋服に襲われた経緯から、かしら」

「あぁ」

 ようやく、合点がいった。が、

「あの、その前に」

 いくつか、聞いておかなきゃいけないことがある。

「ここ、どこなんですか? あなた方は……」

 怪しい人間でないのはわかる。けれど、信用できるのかどうかは、別問題だ。助けてくれたであろう恩人を訝るのは少々気が引けるけれど。

「そうだな、サイ。まずはこちらの説明を少ししてあげたほうがいいだろう、彼はまだ警戒しているようだし」

「それもそっか。んーと」

 サイ、と呼ばれた女の子は考える仕草をして少しだけうなる。そして、

「ここは、あなたが襲われた場所から歩いて十分程度の、別の路地裏。安全な場所だから、心配しないで。それで、わたしたちは、あなたが襲われた『あぁいうの』に、少しだけ詳しい人間よ」

 あぁいうの、とはつまりあの洋服お化け、のことだろう。

「――わかりました。えっと、アレに襲われた経緯、でしたね」

 あまりにもざっくりとしすぎた説明ではあったが、嘘を言っているようにも見えない。話せば、もしかしたらどうにかなるかもしれない、そんな思いがぼくの口を開かせた。

「えっと、なんていうのか。街を歩いていたら、何かに追いかけられているような気がして。しばらくは気にしなかったんですけど、そのうちに明らかな気配に変わって。

 それで、振り返ったらアレが……いて」

「うんうん、それで?」

 女の子は興味津々、といった様子で先を促す。こんな話に興味があるなんて、この子はひょっとしてオカルトが好きだったりするんだろうか。

「それで、えっと。逃げても、追いかけてくるんです。けど、他の通行人には見えないみたいで。走るぼくを、奇異の目で見てました、けどそれどころじゃないですよね。

 逃げなきゃ、殺される。

 なんでか、そんな気がしてましたから。実際、そうなりかけましたし」

「なるほど、そっか」

 女の子は、ぼくの言葉にうんうんと頷く。

 友達の愚痴かなにかを聞いているような彼女たちの感触に、何か違和感を覚えてしまう。ひょっとしてぼくは、遊ばれているだけなんじゃないだろうか?

「あの、ぼくの話、信じてるんですか?」

「えぇ、信じるわ」

 ぼくのその質問に、女の子は頷いて即答した。横に座った女性も、ソファのアームレストに腰掛けた金髪の男も、視線を向けるとそれぞれ頷いてみせた。

「だって、あなた嘘を言っているわけじゃないんでしょう? ただ、あったことを有りのままに話しているだけ。違う?」

「そ、そうです。嘘も誇張もない、有りのままの、真実です」

「うん、ならわたしは、わたしたちは信じるわ。だって、そんなのと、もう何度も何度も関わってるんだもの」

「え?」

 そして、さらりと。何か、すごいことを言う女の子。

「何度、も?」

「そう、何度も」

 胸に手を置き、自信満々に頷く女の子。女性は腕を組み黙って、それを肯定している。

「だから、あなたがどんな危ない目に遭ったかもわかる。きっと、今回だけじゃないんでしょう? 全部、話してほしいの」

 女の子は、真っ直ぐな瞳でぼくを見た。覗き込めば吸い込まれてしまいそうなほど美しい、澄んだ瞳。その瞳に、ぼくはどこか懐かしいものを感じた。

「……二年前、ぼくは事故に遭ったんです。車で峠道を走っていて、スリップしたトラックに巻き込まれました。

 その事故でぼくは右腕を喪いました。それが、二年前です。

 病院を退院して、自宅に戻って。しばらくはなんともなかったんです、家の外には出ませんでしたし。

 けれど、再び大学に行くようになってから。ぼくは、周りの人間には見えない『何か』が見えるようになりました。といっても、気にすれば何かが見える、程度で大したことはなかったんです。

 やがて、その『何か』は、確かな実体を伴うようになりました。ふわふわと浮かんでいるそれが、触れるようになったんです」

「触れる、ように」

 女の子は、ぼくの言葉を反芻する。

「はい、触れるようになりました。そうなってからは、もうひどいもんです。

 あの洋服お化けみたいに襲われることもあれば、ひたすらついてきて、どこまで逃げても追いかけてきたり。

 逃げて逃げて、人にぶつかったり。また事故に遭いそうになったことも一度や二度じゃないです。時間が経つにつれて、それはだんだんひどくなって。

 もう、どうしようもなくなって、家から出なくなったんです。そうしたら引きこもりだニートだ、と世間様からは後ろ指を指されるし。父はぼくに向かってひどいことを言うし、最初はかばってくれた母も、いつしかぼくをいないかのように扱うようになって。

 それで家を追い出されて。ぼくはとうとう、その意味のわからない『何か』と折り合いをつけてやっていかなくちゃならなくなったんです。

 その結果が――これです」

 左手を広げて、今の自分をアピールする。同情して欲しいわけじゃない。こんな身の上は、大して珍しくもない。世の中不幸な人間なんてごろごろしている。ぼくもそちら側の人間になってしまった、それだけの話だ。言い切って、ぼくは麦茶を飲み干した。

「そっか、あなたは、ウセモノに本当にたくさんのものを取られてしまったのね」

「あはは、取られたなんてそんな……ウセモノ?」

 案の定、同情してくれる女の子。まぁ当然の反応だろう。しかしいま、何か聞きなれない単語が聞こえた。ウセモノ、失せ物?

「えっと、ぼく、別に失くし物の話はしてないですけど……」

 いやまぁ、失くし物といえば、非常に多くのものを失くしてはいるけれど。そういう話ではない。

「うぅん、そういう話よ。あなたはウセモノにたくさんのものを奪われてしまっている。

 右腕、はどうかはわからないけれど。社会性、人間関係、居場所。人間を裕福にしてくれるたくさんのものを、あなたは喪っている」

「ちょ、ちょっと、待って」

 話が飛躍しすぎている。ちょっと大げさすぎる、いやそれ以前に。

「ウセモノ、ってなに?」

 そう、彼女の口から出てくるウセモノという単語。それがわからない。

「ウセモノはウセモノよ。きっとあなたは、たくさんのものを喪った結果、ウセモノを呼び寄せる性質を得てしまっているわ。

 そういったナクシは確かに見たことがあるけれど、あなたのそれは群を抜いている。きっとあなたの喪失が、周囲のウセモノやナクシを喪失共感で呼び寄せているのね」

「……?」

 もう、さっぱりわからない。また新しい単語が出てきたし。

「サイ、興奮するのはわかるけど少し落ち着きなさい、ほら。混乱している」

 と、そこで白衣の女性が助け舟を出してくれる。一方、金髪の男は麦茶のおかわりを出してくれた。

「あ、あぁ、ごめんなさい。わたし、ナクシやウセモノが絡むと周りが見えなくなる癖があって……気を悪くしたかしら」

「え、あ、いや。だいじょうぶ」

 女性に言われて、ぷしゅーと空気が抜けるように元気がなくなる女の子。さっきまでの真剣な顔つきはどこへやら、顔を赤くして俯いている。

「その、ウセモノとかナクシとか。よくわからないんだけど。説明して、もらえますか?」

 麦茶を一口、すっきりと意識をリセットしてぼくは聞く。

「そうだね、まずはそういったことを説明したほうがいいだろう。あぁパシリ、私にもお茶のおかわりを」

「あ、はいっす」

 白衣の女性が飲み干したグラスを金髪の男に渡し、男が奥に消えていく。お茶くみ、なんだろうか。彼。

「えぇっと、そうだな。少々荒唐無稽、というか。ぶっ飛んだ内容かもしれないのだが、理解して信じるかね?」

 女性がそう前置く。なんとも、今更だった。ぼくが頷くと、女性はうむと頷き返した。

「ナクシというのは、簡単にいえば超能力者だよ。特別な力を持った存在、だ。実に簡単な話だな」

「簡単すぎますね」

 女性の説明はあまりにもざっくりすぎる。理解して信じる、とは言ったがここまで簡単だと理解の範疇を超えている。

「世の中というのは複雑そうに見えて、その実とてもシンプルだ。しかし勘違いしないで欲しいのは、超能力者がナクシなのではなく、ナクシが超能力者である、ということだ」

「……えっと」

 つまりは、括りの問題だ。彼女らのいう『ナクシ』というのは特殊な力を持った存在であり、超能力者の一種である。しかし、世の中に存在する超能力者の全てがナクシではない、ということ。

「いや、その言い方だと超能力者が世界中にいっぱいいるみたいじゃないですか?」

「あぁ、その通りだよ」

 さらりと言い放つ女性。いや、待って。なんだか、このひとたちと関わってはいけない気がしてきた。

「超能力者、がいっぱいいるのかはわからないけれど」

 さっきまで元気がなかった女の子がようやく復活してきて、話題に加わる。

「わたしたちナクシは、こうしてここに存在しているわ。あなただって同じ。他人には見えない『何か』が見えて、その『何か』に殺されかけて、ここにいる。

 百聞は一見にしかず、という言葉があるけれど。あなたは、自分が今まで見てきたものの一切を否定するのかしら?」

「――」

 そう、重要なのは超能力者がどこにいるか、じゃない。ぼくがどうしてこんな風になってしまったか、ということだ。そして、今また一つ、新たな疑問が沸いてしまった。

「わたしたち、ナクシ?」

「そう、わたしたち」

 僕の言葉に、女の子は大きく頷いてみせる。

「わたしも、そしてあなたも。こうして出会ったのはきっと、わたしたちがナクシだから。少なくとも、わたしはそう思っているわ」

 何の説明にもなっていないはずの、その言葉。けれどどうしてだろう、ぼくはなぜかその言葉に納得してしまっていた。

「自己紹介がまだだったわね」

 ぼくが女の子の言葉にぽかん、としていると、彼女は突然立ち上がる。黒い髪と、長いスカートがふわりと揺れた。

「この大人のおねーさんは画伯。とっても物知り」

「画伯だ、好きに呼んでくれて構わないよ」

 はい、と示された女性が立ち上がって、白衣のポケットに手を突っ込む。その姿はとても彼女に似合っていた。なるほど、画伯だから白衣と。

「それから」

 女の子が、ぼくを指差す。いや、ぼくじゃない。ぼくの後ろに、金髪の男が立っていた。

「彼はパシリ。まぁ、雑用全般にかけては役に立つわ」

「ちょ、その言い方ひどいっすよサイさん」

身もフタもない紹介のされ方に抗議をする男、しかし女の子はまるでそれが聞こえていないかのように無視をして、

「そして、わたしはサイ。よろしくね、セキ」

「あ、うん。よろしく――セキ?」

 聞きなれない単語だった。

「うん、セキ。あなたの名前」

「え?いや、ぼくの名前は……」

「色々考えていたんだけれど、やっぱりこれが短くて呼びやすいと思うの。

隻腕だからセキ、ちょっと安直な気もするけれど、この響きはあなたにとても合っていると思う」

 うんうん、となんだか一人ごちているサイ。いや、ちょっと待って。ぼく、ちゃんと名前あるんだけど。

「あぁ、諦めろ少年。サイは基本的に決まったことに対してそれを変更することはしないから。なに、そう悪い名前じゃないんだし、コードネームとでも受け取っておいてくれ」

「はぁ」

 なにやら釈然としないが、確かに本名でなければいけないというわけではない。むしろ、今の時点では彼女たちに本名を名乗るのは少し危ない気がした。

「さて、もう少し詳しく説明をしたいところなんだけれど」

 サイが壁に掛かった丸い時計を見上げる。時刻はやがて十二時。

「少し出掛ける用事があるから行かなくちゃね。セキ、あなたも一緒に来て欲しい」

「はい?」

 なんだろう、いつの間にか彼女のペースに乗せられてしまっている気がする。

「一緒に、ってどこに行くのさ?」

「今日は依頼があってね、さっき出かけていたのは、依頼主と会っていたからなの。その依頼を調査するから、セキ。あなたにも来て欲しいの」

「その、それって……ぼくが一緒に行く意味あるの?」

「えぇ、あるわ。百聞は一見にしかず、さっき言ったと思うけれど。この事件にはウセモノが絡んでいるから。あなたも一緒に来れば、それがなんなのかよりわかりやすいと思うの。

説明、して欲しいんでしょう? だったら、一緒に来たほうがなにかとお得だと思うわ。あなたの身を守ってあげることもできるしね」

「身を、守る?」

 そういえば。ぼくが洋服お化けに襲われていたときに、助けてくれたのはサイだったはずだ。どうやったのかは、まったくわからないけれど。

「そう。一人でここにいても、外にいるのとそう大差はないわ。

調査を手伝って、とはいわない。ただわたしの側にいるのなら、わたしがあなたの安全を保証する。……どうかしら、悪い条件ではないと思うけど」

「……――」

 どうしてそんな条件が提示されるのか、ぼくにはよくわからない。ぼくが側にいたとして、邪魔にはなっても役に立つことはないはずだ。けれど、

「助けてもらった恩がある。何の役に立てるかはわからないけど、こんな体でももしかしたら、使えるかもしれない。

 連れて行ってくれるかな、サイ」

 借りっぱなしは、性に合わない。ぼくはそう答えた。


   * * *


 揃って室内から出て行くサイたちについて、ぼくも外に出る。

 ぼくたちが今までいた建物は、言われたとおり路地裏にあった。

 コンクリ二階建ての建物は古く年季が入っている。一階部分が先ほどいた場所で、二階には二つほど部屋が確認できた。家屋の横には階段がついていて、そこから上り下りができるらしい。

「『ナクシ探しもの事務所 ウセモノのことはどうぞこちらに』」

 一階に掲げられた看板にはそう書かれている。なんだかもう、怪しさ全開。けれど、この怪しいものが実在していると、ぼくは知っている。未だにナクシだとかウセモノだとか意味がわからないけれど、それがあるのは確か。

「どうしたの、セキ?」

「あ、ううん、なんでもない」

 サイに呼びかけられ、ぼくは首を振る。少しだけ先を歩いていたその背中に追いついて、四人で歩き出す。先頭をサイとパシリ、そして真ん中にぼくで、後ろが画伯。サイとパシリは、物凄くどうでもいい世間話をぺちゃくちゃと繰り広げている。

「どこに向かっているの?」

「依頼主の家の近所ね。そのあたりで、どうもウセモノが出ているみたいだから」

 またそれだ。相変らず、その単語の意味がわからない。彼女たちの口ぶりから言って、どうやらあの布切れ洋服お化けもウセモノ、らしいのだが。

「ウセモノって、つまりは害のある存在、のこと?」

 おそるおそる聞いてみる。すると、画伯がほう、と声を出した。

「その認識で間違ってはいないよ。世界に害を成すナクシのことを、私たちはウセモノと呼んでいる」

「そうね、ナクシは無害か、有益な存在。ウセモノは有害な存在と解釈すればいいと思うわ。細かいことは、追々わかってくると思うし」

 追々、というのはいつのことだろう。今のところ、さっぱり理解できる気がしないのだけれど。

「なに、これから行く場所のウセモノは、聞いたところこちらが近づかなければ被害がないタイプらしいからね、いざとなったら少年は離れていればいい」

「そうね、いざとなったらパシリを差し出して逃げましょう」

「ちょ、サイさん!? 何言ってるんすか!?」

 彼女たちは、終始この調子だった。


   * * *


 この街は上空から見ると、ちょうどばってんの形に街が分かれている。南東から北西へ街を二つに分ける大きな川と、南西から北東へ道を繋ぐ大きな国道。

 ここ曲野市(まがりのし)では、それらの区画にそれぞれ方角をつけて呼ぶのが定例となっている。

 北曲野はオフィス街で、背の高いビルやガラス張りの建物が乱立していて、いかにも栄えていますといった感じのする区。

 対する南曲野は、工業区。海に面していることもあり、輸出入がさかんだ。外国からの働き手なども多数おり、団地が多く、一種閉じられたコミュニティである。

 いまぼくらがいるのが東曲野。大きな商業施設が多数あり、外の街からもたくさんの人間が出入りする。非常に活気のある区で、またこの街の裏側の多くを内包している区でもある。

 そして、これから向かうのが、西曲野。ここはいわゆるベッドタウンで、学校や住宅街などが多い。東や北で働く人間の大半がここに住んでおり、ぼくの実家もこの区にある。


   * * *


 四区の巡回バスに揺られること二十分。ぼくらは閑静な住宅街でバスを降りた。

「セキ、一応周囲に気をつけて。わたしたちがいるけど、必ずしも襲われない、とはいえないから」

「あ、うん」

 歩きだしながら、サイに言われる。

 気をつけろ、と言われてもどうしたらいいのか。とりあえず周囲をきょろきょろと見回して警戒してみる。空はとてもいい天気で、気持ちのいい秋晴れだった。

「といっても、このあたりにはナクシやウセモノはいないはずだけど」

「……」

 からかわれているんだろうか、ぼく。実はどっかでドッキリ大成功って看板持った誰かがいたりしないだろうか。相変らずてくてく歩いて、やがてサイの足が止まる。

「このあたりね」

 パシリの腰に下がっているポーチから紙切れを取り出して、サイはあたりを確認する。電信柱に書かれた住所を見て「間違いない」と頷いた。

「パシリ、この近くに青い屋根の一軒家はあるかしら」

「うっす、見てきます!」

 サイの言葉にパシリが走り出す。名前の由来がわかってしまったのがすごく寂しい。「じゃあぼくも探しに」と一歩を踏み出そうとすると、サイがそれを制した。

「セキはわたしといたほうがいいわ。もしかしたら、ウセモノにふらふら〜、っと引き寄せられてぱくっ! と食べられてしまうかもしれないし」

「食べられ……?」

 そんなに大きなヤツなんだろうか。犬とか?

「画伯はどう?」

「ふむ、今のところは見えないな」

 聞かれた画伯は周囲を見回すでもなく、屋根を探すでもなく首を振った。

「そう、ならもう少し向こうなのかしら。パシリが戻ってくるのを待ちましょう」

 ほどなくして、息を切らしたパシリが戻ってくる。どうやら、目当ての青い屋根の家が見つかったようだった。


 その家は、真っ直ぐな道のちょうど真ん中ほどにあった。閑静な住宅街、そのほぼ中心といっていい場所。大きな屋敷だった。

「画伯、どうかしら」

「うむ、中に居るな。一人二人……三人か。ひどく薄いが」

「なら、ここで間違いなさそうね」

 サイと画伯の会話は、さっぱり意味がわからない。青い瓦屋根のそこは一階建てだが、門があり庭があり、敷地はかなりのものだと思う。けれど、

「なんだ……この家」

 そう、大きく違和感がある。家全体が何か別のものにすり替わっているような、そもそもこれは家なのだろうか、と疑いたくなってしまうような、そんな違和感。

「気付いたかね。この家は、ナクシ――いや、ウセモノだ」

 ナクシやウセモノがどういうものなのかはまだよく理解できない。

けれど、この家がぼくらに、いや。この世界になにかしらの悪影響を与える存在である、ということは否が応にもわかってしまった。

「行方不明者の数は三人、中にいるのも三人。さすがに、出来すぎよね」

「行方不明者?」

 そういえば、依頼がどうの、と言っていたっけ。ぼくの疑問に、サイが答える。

「えぇ。最近、この付近で行方不明者が出ているの。一人は会社員の男性、一人は家出中の女子高生。そして、男子大学生。どれもこの近所に住んでいる人間ね。最初に行方不明になったのは、会社員。それが、およそ二週間前ね。

依頼主は、その不明者のうち、男子大学生の知り合いの女の子から。彼女はその大学生の最後の目撃者であり、そして彼を最後に目撃した場所が」

「この家、なの?」

「正確にはこの家のある通り、だけれど。女の子は、ある日知り合いの大学生を見かけた。けれど、彼の家とは違う方向に歩いていく。どこへ行くのか気になってあとをこっそりつけたそうよ。

 そして、彼がこの通りに曲がるのを見た女の子が角を曲がり、この通りを見通すと……大学生の彼の姿は忽然と消えていた」

「まるで、ありきたりなホラーっすよね」

 立派な門をがちゃがちゃといじって開けようとしているパシリ。しかしカギがかかっているのか、門が開く様子はない。

「そうね。見ての通り、この通りにはほかの道に曲がるような路地はない。直線、ざっと数十メートルはある。そんな通りで人を見失う、というのはちょっと考えづらいし。

 そこで、出てくるのがもう一つの噂ね」

 屋敷を囲う白い塀に手で触れ、押したり蹴ったり(蹴ったり!?)しているサイ。別に隠し扉があったりするわけではないし、そんなことをしたって中に入れるわけがない。

「この屋敷に、幽霊が出るという噂があってな」

 サイの説明を、画伯が引き継ぐ。

「この屋敷の持ち主は、身寄りのない老婆だったそうだ。その老婆は二ヶ月前に亡くなり、今はこの屋敷は無人だ。

 それなのに、夜になると明かりがついている、とか。誰かが出入りした痕跡がある、とか。そういった噂が少し前から流れ出したのだそうだ。そして、その噂が流れ出したのが、およそ二週間前、というわけだ」

「確かに、ちょっと出来すぎですね」

 ぼくでもそう思う。行方不明者が出たのが二週間前、幽霊の噂が出始めたのも二週間前。偶然というには、少し整いすぎている。

「警察は、捜査していないんですか?」

「警察もいちおう動いてはいるようなんだけどね。ほら、あのひとたち頭かったいから。幽霊だとかそんなのに振り回されるわけにはいかないのよ」

「電気がついていたのは親族が来ていたのでは、とかいった決め付けを一方的に押し付けて、可能性のひとつを調べもせずに潰してしまったわけだ。

 まったく、血税で食っているのだから市民の言うことにはもっと耳を傾けるべきだな」

 結局門は開かず、隠し扉もなかったようで、物色を諦めるサイたち。そういえば、パシリがいない。

「サイさん、これでどうっすか?」

「あぁ、いいわねそれ」

 と、現れたパシリはその手に青い大きなポリバケツを持っている。どこから持ってきたんだろうか。

「よし、じゃあ行きましょう」

 それをどん、と塀の前に置き、よいしょと登るサイ。そして、壁をよじ登り始めた!

「ちょ、ちょっと!? なんで入ろうとしてるの!?」

 慌てて止めに入るが、サイたちは逆に不思議そうな顔でぼくを見ている。

「だって、中に入らなければ調べられないもの。正面から入れないのなら、どこか別の場所から入るしかないわ」

「だけど! これ犯罪じゃないですか!?」

「バレればな。なに、誰も目撃者はいないし、支障はないよ」

「ささ、誰か通りかからないうちに行くっすよ」

 身軽な動きでひょいと壁を飛び越え、姿を消すサイ。ほどなくして、

「さ、入れるわよ」

 がちゃん、と門の内側で音がして、サイが出てきた。門の開錠を済ませたらしい。

「正面から入るぶんには問題ないわよね?」

 にこっと、笑ってみせるサイ。その笑顔には、一切有無を言わせない説得力があった。

 連なった四角い石畳の上を歩き、玄関の前に立つ。玄関も立派な構えで、普通であれば多少の迫力も感じるのだろう。

 だが、今この玄関から、この家全体から感じるのは、妙な違和感。なんだか気味の悪い感覚に背中がぞくぞくする。悪寒、と言えばいいのだろうか。

「やっぱりこちらも鍵がかかってるわね」

 玄関の引き戸をがちゃがちゃいじり、息を吐くサイ。今度はさすがにガラスを割って中に進入したりするわけにはいかないだろう。

「パシリ、出番だ」

「うっす」

 画伯の声と共に、パシリが前へ躍り出る。腰のポーチから取り出したのは、くにゃくにゃと折れ曲がった二本の針金だ。

「ちょいと待っててくださいね〜」

 鼻歌交じりに、その針金を鍵穴に突っ込んで、上下左右に動かすパシリ。そして、がちゃんと。開錠される音が静かな庭に響く。

「よし、これで大丈夫っす」

 がらがら、と引き戸を開き、中へと入っていく三人。ちょっと、色々犯罪です。

「さぁ、行くわよセキ。ここにいては危ないわ」

「……この中、すごく嫌な感じがする」

 手を引かれ、屋内へと引っ張り込まれる。玄関に立ち入っただけだというのに、この嫌悪感。胃の中身がせり上がってくるような。気分が悪い。

「これは、何?」

「この建物自体が変質した結果ね。言うなれば、この玄関は怪物の口。わたしたちは、今から怪物の胃袋に自ら飛び込もうとしているわ」

 怪物。そう、言われてみれば、その表現がぴったりだ。暗い長い廊下は折れ曲がって、その先が見えない。まるで生きているかのように明滅する気配。これが、ウセモノ?

「ここまで成長する例はそう多くないが。……原因はなんにせよ、中に入らなければな」

 言って、画伯はどん、と。靴を履いたまま廊下に上がった。他の二人も同じように。

「え、ちょっと。靴脱がないの?」

「だって、靴を脱いだらすぐに逃げられないじゃない」

 さも当たり前のように言われる。まるで、これから逃げなきゃいけない事態が発生するみたいに。

「画伯、どこかしら」

「奥のほうだな。三人まとまっているようだ」

「そう、なら行きましょう。パシリ、しんがりは任せるわ」

「了解っす。さ、早く上がって。行くっすよ」

 ぐいぐいと背中を押され、画伯を先頭、最後尾をパシリに、ぼくとサイが間に挟まれるかたちで廊下を歩く。そして、辿り着いたのか廊下を折れた突き当たり。

「この中だな」

「では、行きましょうか」

 閉じたふすまに手をかけ、サイがその戸を開いた。薄暗いがそこはどうやら居間で、畳が敷かれた広い部屋だった。

テレビがあり、壁にカレンダーがかかり、窓にはカーテンが引かれ、そして中央のちゃぶ台には、仲良く車座になる三人の家族。

「か、ぞく?」

 そんなはずがない。この家は無人のはずじゃないか。それに、窓からわずかに明かりが入って来ているから室内が見えるけれど、電気もついていない暗い部屋で、家族が団欒をしているなんておかしいじゃないか。

「電気は、つかないっすね」

 パシリが壁のスイッチをかちかちといじってみるが、反応はない。それはそうだろう、無人の家に電気が通っているはずがない。

 サイと画伯が中央まで歩き、ちゃぶ台の周りに座っている人物三人の顔を確認する。

「間違いないわね、彼ら、行方不明者よ」

 スーツを着た、少しくたびれた男性と、十月だというのに肩を出した格好の若い女の子、そして、ごくごく平凡な、肩掛けリュックを背負ったぼくと同い年くらいの男。

「どうして、こんなところに……」

 腰をかがめて、同い年くらいの男の顔を覗き込む。しかし、その表情は、

「う、わっ!」

 驚いて、尻餅をつく。

その表情は、まるで能面みたいに無表情でまるで生気を感じない。そう、人形だ。体がわずかに動いているから、呼吸をしているのはわかる。けれどこれは、人間じゃない。

人間そっくりの機構をした、ツクリモノ。

「どうやら、必要最低限の機能以外を剥奪されているようだね。まさしく、人形だ」

「かわいそうに。さっさと運び出してあげましょう」

サイが女子高生の女の子の肩に触れる。それが合図となったのか。

突如、室内の。いや、この建物の様子が変貌した。

「う、わ!? な、なんだこれ!」

 床が揺れている。地震? いや、違う。もっと流動的な動き、床自体が動いている?

「やはり、ただでは帰してくれないようね」

「お、おぉ、おっとと――ど、どど、どうするっすか?」

 ぐらぐら、ゆらゆらと揺れる床。壁にもたれかかって、パシリはうろたえている。対して他の二人は冷静だ。サイが女子高生を引っ張り上げて背負い、画伯は大学生を担ぎ上げた。

「パシリ、もう一人の男性を頼む」

「あ、は、はいっす!」

 言われて、揺れる床を這うように移動し、パシリはどうにかサラリーマンのもとまで辿り着いた。

「ちょ、どうするの!?」

 どうにか壁に手をついて立ち上がったが、揺れは収まらない。そう、この揺れはまさしく、怪物の脈動だ。体内に入った異物を警戒し、排出しようとする本能。

「逃げるに決まってるじゃない。さ、どうにかして脱出するわよ」

 開けっ放しのふすまから、ぼく以外の三人がそれぞれ一人ずつを背負って廊下に出る。しかし、その廊下は、ありえない様子に変貌していた。

「あっれー、廊下ってこんなに長かったっすか!?」

 そう、廊下が、にょろにょろ、ぐねぐねと。うねって伸びて、玄関までの距離を遠ざけている!

「これぞまさしくルームランナーね……!」

「ははは、うまいなサイ」

「なごんでる場合じゃないでしょ!?」

なんだかのどかな二人だが、本当にそんな場合なじゃない。全力で走っても一向に玄関には近づかず、それどころか逆に遠ざかっている気さえする。

「あぁ、もう……やっぱり、根元を断つしかないみたいね。パシリ、こっちもお願い!」

「え!? ふ、二人は無理っすよ……ぐえ」

 抗議は無視、サイは女子高生をパシリに渡す。右肩に大学生を担いでいたパシリは左肩に女子高生を担ぎ、その双肩に二人分の体重を乗せて、伸びる廊下を走る。

「ほら、走る走る。男の子でしょう」

「ひっ、ひっ……そんなん、カンケー、ねっすよおぉ……」

 情けない声で口答えするが、割としっかり走っているパシリ。なんだろう、ものすごい根性だった。

「もう、しょうがない、なぁっ!」

 その泣き言に、サイがため息をついて足を止める。しゃがみこんで、廊下に右手を触れた。突如、がくんと。全身が慣性で前に飛び出しそうになった。

「廊下が、元に……?」

「さぁパシリ、画伯。先に行っててちょうだい。わたしはこの家、どうにかしなくちゃ」

「うむ、任せるぞ」

「これ以上仕事押し付けられたくないっす、先に行くっす!」

 廊下を走りぬけ、玄関へ向かう二人。何が起こっているのか、さっぱりわからない。肩で息をしながら、ぼくはただその二人の背中を見送って。

「さぁ、セキ」

 ぼくの前に、手が差し出される。サイが、その右手を伸ばしていた。

「ナクシやウセモノ。それがどういったものなのか、理解できると思うわ。百聞は一見にしかず、ってね」

 真っ直ぐな眼差しで、ぼくを見つめるサイ。この手を掴めと。一緒に来いと。その瞳が告げていた。

「――ここまで来たんだ、最後まで付き合うさ」

 その手に、ぼくは左手を重ねる。サイはその手を力強く握り、笑顔になる。

「セキの手はあったかいね」

「え?」

 それは、いつか言われたことのある言葉で。

「さ、行きましょう」

 ぐい、とサイに手を引っ張られる。それを思い出す暇は、与えてくれなかった。


 再びぐねぐねと廊下が動き出し始め、ぼくとサイは繋いだ手をそのままに走る。

 いくつかのふすまを通り抜け、ある部屋の前でサイは足を止めてふすまを開けるや否やそこに転がり込んだ。

「あった……!」

 サイが切れた息を思い切り吐き、整える。その部屋は六畳ほどの大きさで、いくつかのタンスと押入れ、そして古い鏡台のある部屋だった。

「サイ、ここは?」

「ここが、このウセモノの中心。この場所を中心に、この家は変貌したのね」

 どくんどくん、と。まさしく生き物のように脈動しているその部屋に満ちている感情があった。胸が締め付けられるような想い。

 ずきん、と。胸に重たいものを乗せられたような、鈍い痛み。サイの手を離し、左手で自分の胸を掴む。この感覚は、いったい何なのだろう。

「だいじょうぶ、セキ? ……あなたは、とても優しいのね」

「……え?」

 この場にそぐわない台詞。その言葉の意味を考えてみる。けれど、答えが出るはずはなかった。

「いま、どんな気持ちかしら?」

「……よく、わからない。何か、大切なものが手から零れ落ちたような。とても悲しくて、泣き出して、叫びたい。

 けど、それができなくて、どうすることもできない――寂しい。すごく、寂しい。

 ねぇサイ、これは、この気持ちはなんなの?」

 声が震える。この感情は、知っている。もっと程度は低いけれど、ぼくの人生の中に何度もあった感覚だ。けれど、どうしていまそんな気持ちになるのか。

「やっぱり、あなたはとても優しいのね。他人の痛みを感じることができる。

 その気持ちは、この家が感じているもの。あなたは、ナクシやウセモノに対して並外れた共感性を持っているみたい。その類稀な性質が、そういう気持ちにさせているの。

 ――その悲しみから、この家はナクシになり、そしてウセモノになってしまったのね」

 ぼくの手を今度は優しく握り、サイは部屋の中心でしゃがむ。ぼくもその横にしゃがんだ。畳にぼくの手をあて、その上から自分の手を重ねて目を閉じる。

「あなたの心の隙間、わたしが埋めてあげるから」

 言って、サイはその力の一環を解放する。家全体が震え出し、突如眩い光が部屋を満たして、世界が真っ白になる。そんな中でぼくが見たのは、不思議な映像だった。


部屋の中央で、汗だくになりながら。今生まれたばかりの生命に愛おしそうに触れている大人の女性。その周囲にいるのは、笑顔の家族。

子供が、元気に遊びまわっている。部屋を所狭しとどたばたと駆け回り、ふすまに穴を開ける。少しの痛み、しかしそれでも、幸せで。

誰かが部屋の中央に寝かされて、顔には布が掛かっている。部屋全体が悲しみに満ちている。その側に突っ伏して、いつまでも泣いている女の子。

女学生の制服に身を包み、姿見で何度もその姿を確認している女の子。

女の子はやがて大きくなって、そして、たくさんの出来事がその部屋であって。

立派な女性になった女の子が白無垢を身に纏っている。

男のひとが彼女の隣にいて。

家族が増えて。

幸せに包まれながら、家族はこの家で、この部屋で長い時間を過ごして。

そうして、最後。すっかり年老いた女の子は、部屋の中央で。

誰に看取られることもなく、一人息を引き取る。

看取ったのは、たったひとつ。この家だけだった。

この映像は、この家の記憶だった。家族の一生を。幸せで、不幸で、楽しくて、悲しいその一生を見つめ続けた、ずっと共にあり続けたこの家の記憶だった。


 ぎしぎしと、家全体が軋む。変貌してしまったものが消去されていく音。物言わぬこの家のそれは慟哭だった。

「安心して。あなたのその寂しさ、悲しさはわたしが、わたしたちが理解してあげる。

 あなたを大事に使ってくれるひとを、きっと探してきてあげるわ。

 だから、他の人間を、他に帰るところがある人間を無理矢理住まわせてはだめよ」

 サイは、子供に語りかけるような、優しい声で畳を撫でる。ぼくの中にあった悲しい気持ちは、もうなくなっていた。ただ、ぼくの頬には、涙が流れていた。

 ひらり、とどこからか何かが落ちてくる。ちょうどぼくたちの目の前に落ちてきたそれをサイが拾い上げ、見て微笑む。

「宝物をくれるみたい。大事にしましょう」

 その紙切れを手渡してくるサイ。左手で受け取り、見る。肩口でその涙をふき取って。

「……大事に、しなきゃね」

 それは、白黒の写真だった。色褪せて茶色くなっているそれには、立派な袴を着た花婿と、白無垢に身を包んだ美しい花嫁が写っていた。


「お、出てきたっすよ」

 外に出ると、もう陽が暮れかかっていた。そんなにも長い時間、中にいたのだろうか。

「彼らの容態はどう?」

「うむ、問題はないよ。中にいる間はまるで時間が経過していなかったようだね」

「そう。次は喪わないようにしていたのかもしれないわね。……それじゃあ」

 画伯がサイの言葉に頷き、携帯電話を取り出す。ダイヤルしたのは、どうやら百十九番のようだ。

「さ、それじゃあ帰りましょうか」

「え? このひとたちを引き渡すんじゃ……」

 玄関に寄りかからせるかたちで、いまだ眠っている三人。しかし、

「ほら、オレら不法侵入者っすから」

「そう、ここに残っていると、色々面倒なのだよ」

「えぇ、というわけで……」

 つかつか、と足早に歩き出す三人。なるほど、合点がいった。ぼくも慌ててそのあとを追いかける。

「逃げるわよ!」

「はいっす!」

「うむ!」

「ま、待って、ぼくも!」

 サイの言葉と同時に、ぼくらは走り出す。夕暮れの市街地はそれなりの人通りがある。何人かの人たちが、ぼくたちを訝る目で見たけれど、そんなのは気にならなかった。


 バスに乗り込み、東曲野まで戻ってくる。事務所に辿り着いたときには、もう空は暗くなっていて。

「はひー、疲れたっすね」

「そうね、おなかが空いたわ。パシリ、夕飯」

「今夜のメニューはなにかね、パシリ」

「ちょ、少しは休ませてくださいよ……!」

 事務所に入って短い廊下を歩きながら、三人はそんな話をして、パシリは泣きながらキッチンに入って行った。どうやら、彼は飯炊きでもあるらしい。

「あ、そうだ」

 ソファに腰を下ろそうとしたサイが、いきなり言い出して立ち上がる。ぱたぱたとスリッパを鳴らして、部屋の奥にある扉に入っていく。がたがた、がたんと何かを倒したりどかしたりする音が響く。

「……?」

 短い廊下を歩き、なぜかかかっている暖簾をくぐったところで立ち尽くすぼく。画伯はソファに腰掛け、テレビのリモコンを手繰り寄せてスイッチを入れた。

「あったあった、セキ、これをあげるわ」

 少しして、サイが頭に綿のようなホコリを乗せて出てくる。その手には、古びた木製のフレームの写真立て。

「……ありがとう」

 それを受け取る。テーブルにそれを置き、四苦八苦しながら、どうにか宝物の写真を収めて、立てる。

「うん、いいかんじね」

 サイが覗き込んで、にっこりと笑う。その笑顔が、とても無邪気で。ぼくの心が、どくんと跳ねた。

 少し時間が経って、台所からいい匂いがし始めて。

「あれ、セキ。どこ行くんすか?」

 事務所を出ようとしていたら、パシリに声をかけられた。

「どこって……うちに帰ろうかと」

「何言ってんすか、セキのぶんも夕飯用意してるのに」

「え?」

 不思議な話だ、どうしてぼくのぶんまで夕飯があるのか。

「どうしたの、セキ。食べていかないの?」

 暖簾をめくって、サイも出てくる。玄関で靴を履き終わったぼくは、正直戸惑っていた。

「だって、ただでさえ昨日助けられているのに。これ以上厄介にはなれないよ」

 そんなに恩を受けても、返す術がぼくにはない。

「そんなの、気にしなくていいのに」

「そうっすよ」

「けど」

 結局今日だって、特に何か役に立ったわけでもないし。

「そんなことはないぞ、セキ」

 ついに画伯までが玄関に出てきてしまう。

「役に立っていないことなどはない、今日のサイはとても楽しそうだったぞ」

「そうね、わたしは楽しかったわ。一人増えたら、そのぶん楽しさが増えるのは当然だし。ごはんを食べるのだって、それは一緒よ。そう思わない?」

「そうっす、ごはんはみんなで食べるほうがおいしいっす」

「けど……」

 サイたちがぼくに留まって欲しいのは、十分に伝わってくる。それでも、ぼくは一緒にいるわけにはいかないのだ、と思う。誰かと関われば、それはまたいつか別れが訪れる、ということではないのか。

「セキは心配性だな」

「え?」

「キミの葛藤はある意味正しい。だがね、セキ」

 画伯の言葉を制し、サイが口を開く。

「所長命令よ! 一緒にごはんを食べましょう」

 びし! とぼくを指差して。サイは高らかにそう告げた。

「セキが一緒に食べてくれないと、わたし二人分ごはんを食べることになるわ、そうしたらわたしは太ってしまって、セキを恨むかも。……そうなってもいいのかしら」

 そんなの、むちゃくちゃだ。けど、

「――わかった、負けた」

 あまりにむちゃくちゃすぎて、もう反論する意思も沸かない。

「夕飯だけなら。ご相伴に預からせていただきます」

「よし、決まりね!」

 言うが早いか、サイはぼくの左腕を引っ張って部屋に引きずり込む。

「ちょ、ちょっと待って! 靴、くつ! 脱いでないから!」

 結局、ぼくはサイたちと夕飯を一緒に食べることになって。そうして、ぼくがナクシ相談事務所で過ごした、最初の一日が終わる。



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