誘惑
夕食も食べ終わり、頼人と優理が居間でのんびりしていると、風呂から上がったばかりの沙希がやってくる。
頼人はアミナに言われたことを引きずってしまい、未だにそれが抜け落ちないせいで、沙希から不自然に視線を逸らしてしまっていた。そのせいで食事も上手くとれない始末。
しかも、今度は風呂上がりのせいで、頼人にとって心の中はさらに修羅場と化していた。
「お兄さん、優理ちゃん、お風呂貸してくれてありがとう」
沙希が居間にやってくると、二人にそう言い、ちょこんと頼人の向かい側の座布団に座る。
「いいよ、気にしないで」
「泊まるんだから、風呂ぐらいは貸さないと怒られるからな」
優理と頼人はそれぞれに返事を返す。
「でも、私が一番風呂でよかったんですか?」
「んー、それは何の問題ないよ? 順番とか気にしてたら掃除とかできないしね。沙希ちゃんはお客様だから、一番風呂は当たり前だと思うし……。そうでしょ、お兄ちゃん」
「その通り。というより、俺は最後だろうが最初だろうが特に気にしてない。女の子とは意識が違うせいだな」
優理に話を振られた頼人は、テレビを見ながら、なるべく沙希の方は見ないようにして答えた。
「だから気にしなくていいよ、沙希ちゃん。んで、今度はどっちが入る?」
「んー、優理が入ればいいんじゃないか? 沙希ちゃんと話してる最中に『風呂に入れ』って言われて、会話を途切れさせられるのも嫌だろ?」
「そか、分かった。じゃあ、今日の掃除はよろしくね」
「了解」
頼人の返事を聞いた優理は立ち上がると、そそくさと風呂場へと移動する。
しかし、頼人は気付いていなかった。
優理を先に入らせることで自分をさらに追い込んでいたことを。
そして、そのことに気づいたのは番組がCMに入った時だった。
――なんで俺は二人っきりになる状況を作ってんだよー!!
頼人はテレビから視線を外すと、沙希が頼人のことを訝しげにジッと見ていた。
その視線は食事の頃から頼人へ発せられていた視線。つまり、頼人が視線をわざと外すようにしていた理由を探ろうとしているものだった。
――うし、逃げよう。
風呂場からはドアが閉まる音が聞こえた同時に頼人がそう考えた。
しかし、それは沙希によって立ち上がる前に阻止される。
「お兄さん、食事の頃から私と視線を合わせようとしてませんよね? どうかしたんですか?」
「え、そう? 俺、ちょっと――」
「逃げるんですか?」
「いや、そんなわけないじゃん。うん、喉が渇いたなって思って……」
「じゃあ私が持って来てあげますね。オレンジジュースでいいです?」
沙希が素早く立ち上がり、頼人の返事を聞かずに台所へ一度姿を消す。
――自分で逃げ道塞いでどうするよ……!
そして、戻ってきた沙希は頼人の隣にわざわざ座る。そして、テーブルにオレンジジュースが注がれたコップを置いた。
実際、喉が渇いていた頼人はそれを一気に飲み干し、テーブルに空になったコップを置くと、
「それで、なんで視線を外すんですか?」
待っていたかのように再び沙希の質問が投げかけられる。しかも、頼人の顔を両手で掴み、無理矢理自分の方へ顔を向けさせることで、今度は視線すらも外させないようにして。
頼人は観念して、沙希の顔を見つめる。
沙希の顔からは化粧が完全に落とされているものの、きれいな顔だった。優理の顔はこんな風に近くで何度も見たことはあったが、他人の顔をこんなにも近くで見るのは初めてのため、頼人は顔が赤くなってしまう。
そのことを問いただされたくなかった頼人は、その質問を拒否するために視線を胸元へ向ける。
が、そこにも頼人の顔が赤くなってしまう要因しかなかった。
――う、ウソだろ……。
胸の谷間が見えるぐらい服のボタンが開けられていたからだ。
台所へ行くまでの間に沙希をチラっとしか見ていなかったが、その時はちゃんと閉められていたはずだった。なのに、開かれているということは、『台所へ行っている間にわざわざ服のボタンを開けて来た』ということを頼人は予想させられてしまう。
そして、その行為から導き出される答えさえも……。
「お兄さんのエッチ」
「ご、ごめん!」
考えている最中に沙希から投げかけられた言葉に頼人は慌てて視線を戻す。しかし、目の前には沙希の顔。顔を両手で押さえられている時点で逃げ場のない頼人は、大人しく沙希の顔を見つめることにした。
しかし、沙希からは驚く発言が飛び出る。
「お兄さんならいいですよ?」
「え?」
「私の胸、見ても……。あ、もしかして触りたいですか?」
「な、なんでそうなるんだよ!?」
「冗談ですよー!」
恥ずかしそうに言っていたかと思えば、急に楽しそうに笑う沙希。
頼人の発言は反射的ではあったものの、常識的に考えるとまともな回答だった。しかし、異性からのお誘いが冗談だったと知らされるとショックに受けてしまうのは、男としてまともな反応。
それに気付いた沙希は、
「そんなにショックを受けないでくださいよ。本当に触りたかったら、触ってもいいんですよ? お兄さんになら私、いいです」
と、頼人の顔を押さえていた両手を離して、両手の人差し指をツンツンとしながら、上目使いで頼人を見つめる。
それが頼人には可愛く映った。
今まで沙希に対して、持ったことのない感情。
それ以前に優理の友達であり、関係的には妹に近かったからこそ、抱くに至らずに終わっていた。
その関係を沙希から破ろうとしてくれているのだからこそ、頼人はそれに乗るべきなのではないか、と考えてしまう。
「あ、でも……私的には関係をはっきりしたい……かな……?」
「か、関係?」
「はい。だから、ちゃんと私に伝えてください。じゃないと触らせてあげません」
慌てた様子で沙希は胸を腕でガードした。
この辺は相変わらずしっかりとした行動に頼人は思わず感心してしまう。
付き合ってもいない他人に胸などの部分を触らせる行為を嫌がるのは当たり前であり、沙希の場合は家柄が家柄なので余計に関係が重要なのだ。
ただ、頼人の気持ちは止まらないほど焦らされてしまっているのも事実だった。
気持ちそのものが沙希にくぎ付けになってしまっており、沙希のことも好きか嫌いかの二択ならば、間違いなく好きの部類に入る。だから、付き合っても後悔することもない。
そんな損得勘定で考えている中、
「優理ちゃんがいない今がチャンス……ですよ……? 私じゃ駄目ですか?」
最終的なトドメとして用いられた言葉に、頼人の気持ちは完全に固まり、気持ちを伝えようと口を開く。
「俺は沙希ちゃんのことが――」
そのタイミングで風呂場のドアが開く音が耳に入り、頼人はハッと我に返る。
――俺は今、なんて言おうとした!?
優理の存在を完全に忘れてしまうほど、頼人は沙希に夢中になってしまっていたことに気付くと、心の中が一気に寒くなる。
沙希は頼人が普通に戻ったことに対し、ちょっとだけつまらなさそうに「ちぇっ」と言った後、それを誤魔化すように苦笑し始める。
その様子を見た頼人は、なぜか沙希が怖くなってしまった。




