第90話 魔界編25
「え・・・!?」
思いがけない現象に、刹那が声をあげる。マリアの時と同じ、命中したはずなのに手応えがないことに驚きを隠せないようだった。ジェノの鞭の特性を知っていなければ、無理もないこと。現に、マリアはそれが原因で戦闘不能に陥ったのだ。
だが、刹那が本当に驚いたのは、その次に起こった現象だった。
「あ、れ?」
刹那の振るった大剣が通過した鞭。手応えなど皆無で、本当に存在するのかという疑問すら抱かせる、ジェノの『神撃鞭』から形成される鞭。
それらが、まるで古びた建物が自然に倒壊するかのように、『崩れた』。
「!?」
そのことに1番驚いたのはジェノ。鞭の形成を解いていないはずなのに、いきなり無数の鞭が1本も残らず『崩れた』のだ。当然、鞭の操作はできない。ボロボロと崩れていく鞭はだんだん細かく分解していき、終いには雪のように床へと降り注ぎ始めた。
突然の現象のせいか、ジェノは身動き1つしなかった。目を見開いて、ただ驚愕するのみだった。
刹那も同じように驚きはしたものの、ジェノのように驚きっぱなしではなかった。確かに、起こった出来事は確かに奇怪なものであるが、今は驚いている場合ではない。ジェノが呆気に取られている今こそ、攻撃の好機。
「ふっ!!」
翼の羽ばたきを再開させ、刹那はジェノへ急接近する。もはや刹那の進行を邪魔立てする鞭は存在しない。加速に加速を重ね、とにかく一瞬でも早く『崩天剣』の射程に近付こうと懸命に翼を羽ばたかせる。
「くっ・・・」
ようやく頭の切り替えをしたジェノが動き出す。再び『神撃鞭』に魔力を込め、進行してくる刹那を撃墜しようと瞬時に鞭を形成する。先ほどより本数は少ないものの、一瞬で形成したにしては十分過ぎるほどの本数であった。
だが、やはり遅い。ジェノが呆気に取られたほんの少しの時間に、刹那は『崩天剣』の射程まで接近していた。
「はぁあっ!!」
気合一閃。声をあげて大剣を振ると同時に、刹那は集中していた魔力を解き放つ。
全力で注ぎ込んだ漆黒の魔力は、もはや風などという生ぬるいものではなく『波動』と呼ぶにふさわしい強力なものだった。その衝撃によって刹那は後ろへ吹っ飛び、結果的にジェノと距離を取る形になる。
「っ!!」
刹那の放った『崩天剣』は、防御したところで無意味。避けるしか、ダメージを逃がす手段はない。それを本能的に感じ取ったのか、ジェノは声にならない声をあげ、とっさに身をねじる。
だが、ジェノの回避行動もむなしく、漆黒の波動はジェノの左腕と左脚を巻き込みつつ進行し、背後の壁さえも抉っていく。
『崩天剣』の破壊力は凄まじく、近くの床や壁の素材を砂のような大きさまでに砕き、ジェノのものと思われる肉片や血飛沫もそれに混じって舞い上がっていた。同時に、生臭い鉄の嫌な臭いが辺りに漂い始める。
「う、ぐ・・・がっ!!」
声にならない声をあげ、ジェノは引き千切れていく腕と脚の痛みに耐える。波動は連続した打撃のようなダメージであり、それらが何度も何度も体にぶつかり、肉や骨を分解していく。
1発目で肉の組織が破壊され、2発目で骨から離れ、3発目で粉々になる。骨も同様だ。ミキサーにかけたかのような粉塵となり、原形を保つことができない。
刹那の『崩天剣』、最初に使ったときよりも遥かに威力は上がっている。『眼』を使うことにより噴き出した膨大な魔力を全力で集中させた結果であることは明白であるが、それにしても強力すぎる。すべてを粉微塵にするほどに危険な黒き波動は、収まる様子を見せず、壁をどこまでも抉り進んで行った。
「・・・油断、した」
額に脂汗を浮かべ、その場にしゃがみこんだジェノが呟く。
残った右腕で左肩の裂傷部分を押さえて必死に止血しているが、指と指の間かどうしてもあふれ出てしまう。もちろん魔力を集結させる応急法を使用しているのだろうが、傷は想像以上に甚大なものらしく、息を荒くしながらそれに耐えている。激痛が襲っているはずなのに、顔色一つ変えないだけでも大したものだった。
「鞭が、まさかあんなことに、なるなんて・・・思わなかった」
「・・・俺だって、思わなかったよ。本当に、死ぬかと思った」
ジェノの言葉に、刹那が本心で答える。もしも襲ってきた鞭が『崩れて』いなかったら、ジェノのようになるのは刹那だったかもしれない。今更ながら、背筋に冷たいものが走ってくる。
「・・・ごめん」
「? どうして、謝る」
「わからない。わからないけど・・・謝らないといけない気がして」
「・・・愚か。優男に負けたなんて、みんなに笑われる」
そう言いながら、ジェノは手のひらに魔力を集中させ球を形成する。攻撃性のない、本当にただ魔力を集中させただけの球だった。
その球を、ジェノは空間に放つ。瞬間、地鳴りのような断続した低音が部屋内に響き、同時に空間に小さな穴が開く。その穴は徐々に巨大化し、やがて人が通れるような大きさまでに広がる。
刹那たちが幾度なく潜り抜けてきた、ゲートである。
這うようにして、ジェノはゲートの元へと移動する。床に血液を流しながら体を引きずり、動くたびに走る激痛に歯を食いしばって耐える。
刹那は、顔を歪めながらもこの場から逃亡しようと必死になっているジェノを、ただ悲しそうな顔で見つめていた。止めを刺すなんてできなかった。元から命を奪うようなことするつもりはもとよりなかったが、弱っている相手に剣を突き刺すような真似は、どうしてもできなかった。
ようやくゲートにたどり着き、ジェノは何とか片足だけで立ち上がる。そのままゲートに入って逃げるかと思いきや、不意に刹那に向き直り、そして言った。
「・・・なぜ、止めを刺さなかった? 機会なら、あったはず」
「さっき、マリアさんと話してるとき・・・あんたは攻撃しようとしなかった。あのときあんたが殺す気だったら、俺は死んでた。だから・・」
そこから先が、言えなかった。考えを言葉にできず、刹那はそのまま押し黙る。
「・・・つくづく救えない。いつか、あなたは後悔する」
それだけ言い残して、ジェノはゲートへと入っていく。入った後に再び地鳴りのような音が響き、ゲートはゆっくりと閉じていった。断続的な低音が止み、部屋は何事もなかったかのように静寂に包まれる。とりあえずは危機を脱したのだと、刹那は安堵する。
「・・・終わ、った」
全身の力が一気に抜け、そこで刹那はようやく『眼』の使用を止める。同時に大剣と背中の翼も黒い霧となって形を失い、魔力の元である刹那へと吸い込まれていった。
緊張から解放されたせいか、その場に座り込みたいという衝動に駆られるが、まだそうするわけにはいかない。2人の元へと行かなければならないからだ。
荒い息をつきながら、刹那はレオとマリアの元へと歩く。レオはすでに瓦礫の中から救出されており、マリアの膝の上に頭を乗せられていた。わずかに上下しているレオの体を見て、生きているのだと安心する。
「マリアさん、レオのほうは大丈夫ですか?」
一応、容体のほうをマリアに尋ねる。
「・・・・・」
ところが、マリアは刹那のほうを向くだけで何も言わない。表情から読み取れる感情は、驚き。何に驚いているのか刹那にはよくわからなかったが、とにかくレオの容体を訊かなければならない。
「マリアさん?」
「・・・え? あ、はい」
ようやくマリアが刹那の言葉に反応する。
あのマリアが、ここまで驚くところを見せるなんて、刹那にとっては少し意外だった。
ともあれ、訊かなければならないことを早く訊かなければならない。
「レオの容体はどうでしょうか? 致命傷は受けてはいないようですけど・・・大丈夫なんでしょうか」
「はい、命は大丈夫です。出血していた部分は止血しましたし、特に腫れあがっている部位もないようです。ただ、内部のダメージに限っては何とも言えないので、専門医の検診が必要になると思います」
「そうですか・・・。よかった」
ダメージこそ受けはしたものの、命が助かって何よりだ。安堵のため息をつき、刹那は崩れるようにその場に座り込む。不安なことがなくなり、力が一気に抜けてしまったのであった。
「・・・よかったです」
ぽつりと、マリアが言う。その言葉は誰にでもない、刹那に向けられた一言だった。
「よかった・・・」
もう1度言う。マリアは本当に安心したような表情を浮かべ、胸に手を当てながらため息をつく。
「・・・心配かけて、すみません」
頭を下げて、刹那が謝る。紙一重の戦いだっただけに、マリアが抱いた不安は生半可なものではないことを悟ったのだろう。謝ったあとは、何も言わずにマリアの答えを待った。
「いえ、生きてくれただけで十分です。本当に・・・死ぬんじゃないかって、不安でした」
「俺も、正直死ぬかと思いました。あの鞭の束が消えてくれなかったら、絶対に生きていなかったと思います」
先ほど起きた、不可解な現象。意図的に起こしたわけではなかっただけに、刹那は驚きを隠せない。九死に一生という言葉を、ひしひしと噛みしめていた。
「刹那くん、歩けますか?」
「はい、歩けますけど・・・どこに行くんですか?」
「上です。戦争の終わりを報告して、レオさんを運んでもらわなければなりません」
マリアはそう言うが、刹那は天界の者が自分たちに好意的に接してくれるとは思えなかった。この世界の『罠』であるジェノが裏で動かしていたとはいえ、天界の人々が魔界に攻撃を仕掛けたということは事実。魔族を根絶やしに、という考えが刷り込まれていないとは断言できない。
「・・・大丈夫、でしょうか」
胸の内を明けるように、刹那は一言マリアに言った。
その言葉にマリアは微笑み、そして答える。
「大丈夫です。誤解が解けたのならば、天界の方々が危害を加える理由などないはずです」
マリアの信じきった微笑みを向けられた刹那は、もう何も言うことができなくなってしまった。不安ではあるが、マリアの言う通りにするしかない。反対したところで、マリアも考えを変える気はないだろうから。
「それでは、参りましょう」
膝の上に乗せているレオの頭をゆっくりと床に降ろし、マリアは立ち上がる。
刹那もそれに倣って立ち上がり、そして2人は上へ続く階段へと向かって歩いて行った。
階段を登り終え、刹那が玉座を退かそうと手を伸ばす。重さが手に伝わってきて、ゆっくりと玉座が持ち上がった。
王の間に明かりが点いているのか、隙間から徐々に光が入り込んでくる。暗闇に目が慣れていたためか、刹那は思わず目を細める。
{・・・明かり、点いてたっけかなぁ}
そんな疑問が刹那の頭をかすめる。確か、ジェノの元へと行く最中に通った王の間は、光がまったくと言っていいほど差し込まない暗闇が広がっていたはず。普通ならば、こんな光が差し込んでくるはないのに、一体なぜ?
{・・・まさか}
嫌な予感がした。刹那は様子を確かめようと、急いで階段を上がって王の間へと出る。
そして刹那が見たものは、予想通り最悪の光景だった。
「・・・マジ、か」
地下へ続く階段のある玉座を取り囲むようにして、武装した大勢の騎士が待機していた。いつでも戦闘が始められるように武器を構えていて、どの騎士も1人残らず刹那を睨みつけている。
明らかな殺意を向けられ、刹那はまだ戦いが終わっていないことを理解した。ジェノを倒しても、まだこの大人数相手に戦闘を繰り広げなければならない。傷ついたレオとマリアの分まで、1人で。
「くそっ!」
先ほどの戦いで使用した『眼』のおかげで、ただでさえ少なかった刹那の魔力は空寸前にまで減少していたが、そんなこと気になどしていられない。せっかくこの世界の『罠』を倒したのに、ここで倒されるわけにはいかなかった。
瞬時に大剣を形成し、そして構える。これだけ数が多ければ、刹那がどう頑張ろうとも不利な戦いをせざるを得ない。戦いの途中で魔力が尽きてしまう可能性も十分あるが、それでもやらなければならない。
刹那が戦闘態勢へ入ると同時に、騎士たちも武器を構えて刹那の攻撃に備える。1人残らず刹那へ憎悪のこもった視線を送り、殺気を放っている騎士たちは、まるで肉親が殺されたに等しい感情を抱いているようにも思える。
膝を曲げ、刹那は騎士たちへ突っ込もうと足に力を込める。その力を一気に爆発させ、加速しようと思った矢先、刹那の肩に優しく手が置かれた。
何事かと思って振り向くと、そこには困ったような笑みを浮かべているマリアの姿が。この状況なのに怯えもせず、戦おうともせず、ただマリアは笑っていた。
「刹那くん、待ってください。もう、私たちが戦う必要はないじゃないですか」
「で、でも―――」
「いい子ですから、武器をしまってくださいな。大丈夫、彼らは襲ってはきませんよ」
どうも納得ができなかったが、マリアの言いようのない優しげな言葉に、刹那は言う通りにするしかなかった。大剣の形成を解き、丸腰になる。戦う気はないということをアピールするようにして、刹那は手を広げた。
だが、騎士たちの殺意は収まらない。刹那とマリアは戦う意思はないのに、それでも武器は向けられたままだ。いつ襲いかかられても不思議ではなかった。騎士のうち、誰かが1人でも攻撃してくればこの均衡は崩れ去り、戦う術を放棄した刹那とマリアは無抵抗のまま嬲られることは明らかだった。
「・・・お前たちもだ。その方たちは、戦争の原因ではない。武器をしまえ」
その騎士たちの中から、1人の男の声が響く。重みのある、静かな威圧感のある声だった。
瞬間、騎士たちの殺気が嘘のように消え失せ、構えていた武器をしまう。たった1人の声で、あんな憎悪にまみれていた騎士たちが大人しくなったことが、刹那は何を意味するのかわからなかった。
周りを囲んでいた騎士たちが、声のした場所から今刹那たちがいる玉座までの道を開ける。全員の動作は惚れ惚れするほど揃っていて、それが騎士たちの統率力が強いかを教えてくれる。
その開けた道からこちらへ向かって歩いてくるのは、足を負傷しているのか、杖をついている1人の男。刹那には見覚えがないが、マリアにはあるその男は、マキージャだった。
「マキージャ様、これはどういうことでしょうか?」
「・・・決心をしたのだ。戦争を終わらせる決心をな。騎士たちを集め、すべてを話した。そしてここへ来たが・・・遅かったようだな。申し訳ない」
マキージャの説明で、この騎士たちの集まりように合点がいった。この刹那たちを排除するために来たのではなく、この下にいるジェノを倒すべくここへやってきたのだ。先ほど向けられた憎悪のこもった視線も、刹那が戦争を引き起こした張本人なのだという勘違いから生まれたものなのだろう。
「とんでもありませんわ。お気遣い、感謝いたします」
「・・・して、すべて終わったのだろうか? 我々はもう、戦わなくともよいのだろうか?」
無益で、後には何も生まれない戦争。ただ無駄に命を費やすだけで、意味のない戦争。それがようやく終わったのだということを確認したくて、マキージャはマリアに問いかける。
「はい、すべて終わりました。私たちはもう、戦わなくともよいのです。戦う理由は、もうないのですから」
マリアは笑顔のまま、不安そうな表情を浮かべているマキージャに返した。
戦争の元凶であったジェノをこの世界から追い返した今、もう天界と魔界が争う理由などどこにもない。戦争の起こる前の共存してきた日が再びやってきたことを、マリアはマキージャに伝えた。
「・・・そうか」
ぽつりと、マキージャが言った。
「・・・よかった」
もう一言だけ言って、マキージャは表情を和らげた。
それでようやく、その場に居合わせた騎士たちも争いの終結を理解する。歓喜の叫びをあげ、手を取り、そして鎧越しに抱き合っていた。涙する者までいた。天界も魔界と同様、戦争などしたくはなかったのだということを知って、刹那はほっとため息をついた。
マリアは、戦いが終わったことを喜ぶ騎士たちを見て、何も言わず、ただ笑っていた。
その内にある感情は、安堵と喜びの他ならない。