第89話 魔界編24
見張りの騎士がいないほんの短時間を使い、この大広間まで進んできた刹那が見たものは、息を呑んでしまうほどの悲壮たる光景だった。至る所に攻撃の爪痕を残している内部に、疲労困憊満身創痍のマリア、極めつけはレオの物と思われる、瓦礫の中から伸びている血にまみれた腕。
その光景を見て、刹那は一瞬で理解する。レオとマリアは、もう敗北寸前なのだということを。自分が来なければ、マリアもレオと同じようになっていたかもしれないということを。
「・・・あなた、器?」
ジェノが刹那にそう尋ねる。
「・・・そうだ。お前が、この世界の『罠』なのか?」
話しかけられたことに一瞬だけ戸惑ったが、キッと睨み返しながら刹那が答えた。
「そう、私は神の使い。名前はジェノ。来てくれて助かった。探す手間が省けたから」
『神撃鞭』に再び魔力を込めながら、ジェノはそう答える。込める量は先ほどと同じ膨大な量。無数の鞭を形成し、一気に蹴りをつけようという腹である。
「俺も、来てよかった。来なかったら、後悔してたろうから」
確かな事実である。爆発で騎士たちが混乱していたあの時、ここへ来る決断をできなかったら、たぶん刹那は悔やんでも悔やみきれないほどの後悔をしていただろう。一方は大事な親友、一方は血の繋がっていない母親。一歩間違えていれば、その大切な人達を見殺しにするところだった。
「・・・マリアさん、大丈夫ですか?」
戦闘に入る前に、刹那は目の前のマリアに呼び掛ける。身につけている王族の服は所々擦り切れていたり破れていたりしていて、その隙間から痛々しいほどの痣になった皮膚が見えているマリアだが、幸いなことに致命傷は受けていない。そのことに、まず刹那は安堵する。
「どうして、来たのですか・・・」
刹那に背中を向けたまま、マリアは絶望を隠しきれない声色でそう言った。
その問いの答えを、刹那は歯切れ悪く答えた。
「後悔したくなかったから、です」
「・・・勝てませんよ?」
ジェノの実力を嫌というほど味わったマリアには、刹那1人の力では到底敵わないということを十分わかっていた。加減されていてこの様である。戦う状態が万全だったとしても、おそらく勝てなかっただろう。
そんな相手に、疲弊している刹那をたった1人で立ち向かわせることは、もはや見殺すことと同義。手助けをしたくとも、満足に体を動かせないのではそれすら敵わない。マリアが刹那の出現に絶望したのは、それが原因だった。息子が傷つき、疲弊し、そして弱っていく様を、ただ見ていることしかできないということを、マリアは悟ったのであった。
「・・・わかってます。それでも、戦えば何かが起きるかもしれない」
覚悟したような重みのある声色で、刹那は自分に言い聞かせるように言った。
確かに、目の前の敵は強大だ。血まみれのレオと、ぼろぼろのマリアを見ればそれがよくわかる。勝算も0に近いかもしれない。
それでも、刹那はマリアと同じように、奇跡が起こることを信じて戦う道を選んだ。それしか、3人とも生き残る道はないからだ。
「逃げなさいと言っても、聞かないでしょうね・・・」
「決意は固いので」
迷うことなくそう答える刹那の声を背中越しに聞いて、マリアも覚悟を決めた。
共に戦うことはできないが、情報を与えることならできる。こちらからは触れることは許されず、ただ一方的に攻撃されるだけというあの鞭の性質を伝えなければ、同じようにダメージを受け、そして敗北することは確実。
刹那に顔は見せず、マリアは口を開く。
「・・・あの方の持っているあの棒は、『神器』というものらしいです。その魔力を込めることで―――」
「ごめん、マリアさん。言わなくていい」
「?」
刹那の言葉に、マリアは疑問を覚える。敵の情報を知らせようというのに、それを言わなくていいということはどういうことなのか。
「先入観が入るとかえって攻めづらくなるから、知らないままのほうがいい。それに俺、正面からぶつかっていくから、能力を教えてもらってもあまり意味がないんだ」
刹那は自身の剣の未熟さを知っている。相手がレオとマリアを打ち負かしたジェノならば、今更小細工をしたところで一笑に付されることはまず間違いない。第一、ジェノの能力を知ったところで、刹那がどうできるという保証などどこにもない。
それならば、無謀と言われようが正面から向かうのが一番である。小細工も、策も何もない刹那にできるのは、ただそれだけである。
だが、マリアは納得できない。刹那が未熟であることはわかるし、真っ正面から行くのが一番いいということも理解できる。しかし、それだと本当にマリアは何もできない。唯一できることを刹那に拒否された今、邪魔にならないよう隅で小さくなっていることしかできないなんて、あんまりだ。
「・・・何も出来なくて、ごめんなさい」
自分の力のなさに半ば絶望し、マリアはただ一言だけそう刹那に言った。
当然、刹那はマリアを責めない。責める理由など、どこにもない。
「とんでもないです。心配してくれて、ありがとう」
「・・・何か、考えはありますか?」
手助けすることは諦めたが、それでもやはり心配だ。駄目なのはわかっているが、どうしても聞かずにはいられない。
「特にはないですけど、やることは1つしかないんです。だから、あとはぶつかるだけです」
「そう、ですか・・・」
もっと聞きたいことはあるが、いくらなんでも往生際が悪すぎる。それを悟り、マリアはようやく刹那に向き直った。向き直って、そして笑う。強大な敵を前にして不安に駆られているであろう刹那に少しでも安らぎを与えようと、マリアは全身を襲う痛みに構うことなく微笑みかける。
「いきなさい、刹那」
いつも刹那を呼ぶときは、後ろに『くん』とつけて読んでいたマリア。そんなよそよそしい呼び方を止め、息子の背中を押す様な『母親』の声で刹那にそう言った。
時間にして2、3秒。刹那をじっと見つめて、そしてマリアは再び背を向けた。向かう先はレオの元。一撃のみとはいえ、胴に攻撃が入ったのだ。早く手当てをしなければと、マリアは体を引きずるようにして歩いて行った。
{・・・ありがとう、母さん}
心の中でマリアに感謝の言葉を呟き、そしてジェノを睨む。不思議な話だが、あれだけ強大に感じていたジェノも、今はそれほど脅威を感じられない。マリアの笑顔が、ここまで心を強くしてくれるとは思っていなかった。
「・・・終わったなら、かかってきて。すぐに終わらせるから」
ジェノが口を開き、刹那の攻撃を促す。あくまでも先には攻めないらしい。マリアの時と同様、接近したところを鞭で叩くつもりだ。
反撃されることは目に見えてはいるが、刹那は一度決めたことを取り消すつもりは毛頭なかった。『眼』もよくて5秒ほどしか使用できない今、短期決戦を挑むほか刹那に手はないからである。その短期決戦に求められるものはただ1つ、一撃必殺である。
未完成で、威力もどの程度のものなのか深く理解していない欠陥品ではあるが、刹那はその一撃必殺の技を持ち合わせていた。
それはすなわち、メルゼとの訓練で掘り起こした『崩天剣』。
魔力を大剣に集中し、それを放つことでメルゼさえも怯ますことのできた技だが、膨大の魔力を注ぎ込む時間がどうしても利便性を欠いてしまう。メルゼとの訓練でそのことを十分に理解していたが、『眼』の発動を可能にした刹那はあることを思いついていた。
魔力が目に見えるほど活性させることのできる『眼』を使用した状態で大剣に魔力を集中させたら、もしかしたらそれほど時間をかけずに『崩天剣』を放つことができるのではないか、というものだ。
もちろん実際に検証したわけでもないから、あくまで予想の域を出ることはない。もしかしたら、『眼』を発動しても魔力を注ぎ込む速度は変わらないかもしれないが、それでもやらないよりはよっぽどマシだ。
「・・・行っても、いいかな」
「構わない。いつでもいい」
ジェノは特に刹那の攻撃を警戒するような真似はせず、先ほどと同じ構えのまま待つ。刹那からは何の脅威を感じられないためか、特に警戒した様子は見られない。
「はぁっ!!」
短く気合を入れ、刹那は『眼』を発動させた。
体中を駆け巡っている魔力が活性化し、刹那の体から蒸気のようにそれが噴き出す。闇を思わせる真っ黒な魔力を集中させ、刹那は大剣と翼を形成した。武器となる大剣を握り締め、高速移動を可能にする漆黒の翼を広げる。
次の勝敗で全てが決まるというプレッシャーが、刹那の心臓を躍らせる。鼓動の音が大きすぎて、もうそれしか耳に入らない。だが、迷いはない。恐れもない。目の前の敵を相手に、刹那はもう向かっていくことしか頭になかった。
息を大きく吸い込み、止める。同時に、広げた背中の翼を羽ばたかせる。背後に突風が巻き起こり、刹那はジェノに向かって一直線に飛んだ。
{頼むから、成功してくれよな・・・}
心の中でそう呟きながら、刹那は大剣にありったけの魔力を込める。体内から噴き出ている黒い魔力が大剣に集中し、もともと闇のように黒かった色がさらに濃くなっていく。光さえも吸収しそうな深淵の色は、『崩天剣』を放つ量まで魔力が溜まったことを証明していた。
{よしっ!}
予想していた通り、通常では使い物にならない未完成だった『崩天剣』も、『眼』を使用すれば強力な戦力になった。あとは大剣に溜まった魔力を、射程圏まで近づいてジェノに放つだけ。
「・・・寄らせない」
さすがのジェノも、刹那の『崩天剣』が命中することを恐れたのか、早めのうちに鞭を形成した。レオとマリアを襲った時と同数の鞭が瞬時に形成され、それが刹那目掛けて襲いかかる。上、下右、左、そして前。唯一の逃げ道は後ろだが、加速した刹那はもう後戻りできない。
「くっ!!」
ジェノの攻撃に一瞬だけ驚くが、それでも刹那は速度を緩めない。緩めたところでもう遅いということを理解しているからだ。攻撃されるよりも先に攻撃するのが、手段としては一番だ。
しかし、今のジェノとの距離では『崩天剣』を当てることはできない。このままだと、攻撃が届く前に鞭に叩かれてしまう。鞭の威力はもう知れている。一撃でも当たったら、その時点で終わりだ。
前から迫ってくる鞭を、大剣で防御しながら強引に進んだところで、弱っている刹那には大剣越しに伝わってくる衝撃には耐えられない。鞭をかわそうにも、小回りが利かない刹那の翼では、襲ってくる無数の鞭をかわしきることは無理だ。となれば、道は1つ。迫りくる目の前の鞭を剣で弾き、その隙をついてジェノに攻撃を仕掛けることだ。
「だぁっ!!」
その考えにたどり着いた刹那は、迷うことなく鞭を目掛けて大剣を振るう。『崩天剣』はまだ使う様子はない。鞭を弾いた後に、もう少しだけ近づいて放つつもりだ。
だが、刹那は知らない。
ジェノの鞭に、物理的な攻撃は与えられないということに。
鞭を空振りしたら、もう最期なのだということに。
「それはダメぇっ!!」
鞭の特性を知っているマリアが叫ぶが、もはや遅い。勢いのついた大剣は止まることはない。
何も知らない刹那は持っている大剣を渾身の力で振り抜き・・・
そして、弾くはずだったジェノの鞭を・・・通過した。