第82話 魔界編17
城下町に存在する建物の上で、戦闘は繰り広げられていた。
敵の数は約30。数多い熟練の騎士を、メルゼ1人で相手をする戦況は、劣勢の一言に尽きる。
騎士の半分が槍を使った近距離戦でメルゼを攻撃し、もう大半が問題視されている『魂を壊す武器』で遠距離から攻撃する騎士たちにはほとんど隙はなく、撃退のしようがこれっぽっちも見当たらない。
もちろん、『眼』を使えばこの包囲網を突破することは不可能ではない。敵の数は30人。『眼』を使用した状態で戦えば短時間で決着がつき、スタミナ切れで窮地に立たされることはない。
だが、メルゼは『眼』を使うことはできない。なぜならば、すでに『使った後』だからである。
今こそ30人前後の騎士たちではあるが、戦闘開始直後の人数は現在の3倍。『眼』を使い、初っ端から全力で戦った結果、騎士の兵力を1/3まで落とすことに成功したのだが、そこまでだった。力を使い果たしたメルゼにはもう戦う術はなく、今のように敵の攻撃を避けるので精一杯。隙を見て逃げ出そうにも、この敵数と体力の少なさでは無理だ。
「はっ・・・くっ・・・」
結晶である剣を形成することもままならず、メルゼはただの反射神経だけで回避していた。槍を払うこともせず、防御することもせず、ただひたすら避けるのみ。誰が見ても、限界は明らかだった。ぜい、ぜい、と苦しそうな呼吸と、全身から噴き出る汗で水滴を垂らしているその姿は、見る者に憐れみの情を与えるであろう。
だが、それでも騎士たちは止めない。手加減など微塵もせず、全力で槍を振るう。遠距離から放たれる『魂を壊す武器』から放たれる、光の玉のような攻撃にも構うことなどなく、ただメルゼを追い詰める。『それ』当たっても、鎧に細工を施してあるためか、影響など全然見られない。攻撃手段のないメルゼの唯一の希望であった自滅策も無駄であった。
メルゼが『眼』の使用を止め、そして数十分続いている硬直状態。だが、次第にそれは流氷のように解け始める。一方的になぶられているだけのメルゼの体力はもう底を尽きかけており、騎士たちの攻撃は止むことがない。数で圧倒され、そして己も疲労困憊。じっと耐え、何かの機会をうかがっていたメルゼの足に、
「う・・・?」
騎士の槍が、深く突き刺さった。
衝撃がきて、それからじわりと襲ってくる激痛。それを和らげようと魔力を裂傷部分に集中させるが、『眼』の使用によって消費された魔力は予想以上に膨大なもので、その激痛が和らぐことはなかった。
「あ、っく・・・」
当然、体勢が崩れる。疲労と足の激痛の2つのせいで、いとも簡単にメルゼは膝をついてしまう。素早く立ち上がろうとするが、できない。足はまるで、泥沼にはまったかのようにぴくりとも動かなかった。
その隙を、騎士たちは逃さない。動きが止まったメルゼ目掛け、一斉に槍で襲いかかる。その背後からは遠距離の援護攻撃。もはやメルゼの前方に、逃げ道はない。
「く、そ・・・」
苦し紛れに、メルゼは身を翻し、屋根から身を投げた。それはすべてを諦め、死を悟ったからではない。ここに留まれば確実に死ぬ。ならば、この屋根から落ちるしかないと踏んだからである。
もちろん、受け身のとれないメルゼに取って、落下の際に伴うダメージは相当のものだ。だが、それで死ぬわけではない。それならば、選択肢は1つしかない。
しばしの浮遊感がメルゼを襲い、そして勢いよく地面へと叩きつけられる。痺れるような痛みが全身を襲うが、騎士たちからの攻撃は何とか避けられた。槍も、そして例の武器の攻撃も命中してはいない。
だが・・・本当にここまでだった。屋根から落ちるという行為などほんの一時しのぎ。屋根の上の騎士たちからの追撃を食らうまでのわずかな時間、延命したに過ぎない。
痛みにこらえながら、何とか這いずって移動しようとするものの、それも無駄なことだった。屋根の上の騎士たちは、死ぬ物狂いで移動しているメルゼ目掛けて槍を投げ込む。わざわざ降り立って突き刺ささないのは、騎士たちの嗜虐心からか、それとも投擲の確実性からか。
「・・・う」
メルゼもそれに気が付き、迫ってくる槍を視界に入れる。迫ってくる槍の凄まじい速度は、刺さったらまず確実に絶命することを示唆していた。
回避する術も、防御する術も、もうない。向かってくる無数の槍に全身を貫かれて、それで終いである。せめて、せめてもう少しだけ体が持ってくれたら戦況はまったく変わったかもしれないが、それはくだらない負け惜しみ。『もし』という言葉など、悔いを残すためだけのものにしか過ぎない。
眼前に迫りくる槍。
メルゼは、死を覚悟した。
―――そこに吹く、一陣の風。
「っ!」
突風の凄まじさに、メルゼは思わず目を閉じる。
それとほぼ同時に聞こえる、金属がへし折れる鈍い音。
視界を瞼によって遮られているメルゼには、今一体何が起きているのかがわからない。
激しい突風もようやく止み、メルゼは状況を把握するために目を開ける。
目の前には、よく見慣れた女性の後ろ姿。その高貴な服と黒くて長い髪の毛の持ち主を、メルゼは見間違えることなどない。
お辞儀をするようにスカートの裾を掴んでいた細い指先が離れ、その女性はメルゼに向き直る。
「メルゼ様、遅くなって申し訳ございませんわ」
「マリ、ア・・・」
呻くような声で、メルゼはその名を呼ぶ。
それに応えるかのように、マリアはしゃがみ込み、ポケットから白いハンカチを取り出して、血と汗でまみれたメルゼの顔を、いたわるように優しく拭いた。
「あの2人、は・・・?」
マリアがここにいるということは、すなわちリリアと風花と離れているということになる。防衛の手段を持たない2人のことが気がかりで、メルゼはそうマリアに尋ねた。
「心配には及びませんわ、安全な場所に避難させてあります。大丈夫です、あとは私にお任せください」
マリアが、いつもの笑顔でメルゼに言い聞かせる。温かく、優しいその笑顔は、傷つき、疲弊しきったメルゼにとって、計り知れない安心感があった。
だが、忘れてはならない。マリアは、今敵に背中を向けているのだ。命をかける戦いで敵に背中を向けることは、攻撃して殺してくれと言っているようなもの。
当然、騎士たちはマリアのその隙を逃さない。腰の剣を抜き、マリアに斬りかかろうと屋根から飛び降りる。頭上まで振りかぶった剣を振り下ろそうとする騎士たちの腕に、力がこもっているのがわかる。
そして剣の射程圏。マリアを真っ二つにしようと、騎士たちは一斉に剣を振り下ろした。
瞬間、騎士たちは一斉に横へと吹っ飛んだ。
轟音が鳴り響き、連なる家々を貫通しながら勢いに任せて飛んでいく。
切り刻まれるはずだったマリアはいつの間にか腰をあげており、すらりと伸びた美しい脚は、地面から垂直に伸びていた。
傍から見れば何が起こったのかわからないその状況。当然ながら、その様子を見ていた騎士たちにも理解などできるわけがない。
だが、ただ1人。メルゼだけはその理由がわかっていた。吹き飛ばされた騎士たち。それらは、マリアによって蹴り飛ばされたのであった。
温厚な性格とその端麗な容姿からは想像もできない蹴りは、騎士の鎧を砕き、肉をえぐり、そして戦闘不能にまで陥れた。手加減など微塵もせず、それはただ相手を倒すだけ考えて放たれたものであった。
「・・・お行儀の悪い方々。どうやら、死にたいようですわね」
その聖母のような笑顔に、影が落ちた。
愛する夫をここまで傷つけた騎士たちへの怒りと、メルゼがこうなるまで駆けつけることのできなかった自分自身への怒り。その2つの怒りがマリアの体を動かし、そして力を増幅させる。
見る者を安心させる笑みはもうどこにもなく、貼り付けられた仮面のような笑顔は、もはや恐怖以外の何物でもなかった。
「待、て・・・殺す、な」
かろうじて、メルゼはそれだけ言った。今のマリアなら、本気でやりかねない。『血の雨』という比喩を平然とやってのけそうな雰囲気を、目の前の聖母は醸し出していた。
心配しているメルゼを安心させるよう、マリアは再びしゃがみ込んで、その額を撫ぜる。
「わかっておりますわ。命を奪うような真似は致しません。ただ・・・」
撫ぜていた額から手を放し、マリアは『眼』を発動させた。
マリアの憤怒を具現化したかのように溢れだす魔力の量は計り知れず、どこまでも禍々しいそれは、見るものの背筋を凍らせる類の恐怖を兼ね備えていた。
「貴方に傷を負わせた罪深さを知らしめることくらいは、お許しください」
それだけ言って、マリアは屋根まで一気に跳んだ。そのあまりの速さに、屋根に残っていた騎士たちはその姿を完全にはとらえきれず、まるで瞬間移動でもしたかのような錯覚に陥る。
その驚いている騎士たちを尻目に、マリアは渾身の力で放った拳を、騎士の1人に叩きこむ。
「―――っ!!」
声をあげることも許されず、騎士は無様に吹き飛ばされた。パラパラと拳の先端から落ちる鎧の欠片が、その威力の高さを物語っていた。素手のはずであるマリアのその白く美しい手は、騎士たちの使っているような平凡の武器よりも、遥かに高い攻撃力を持ち合わせていた。
「・・・さて、次は貴方達ですわ」
冷やかなその言葉で、その場に居合わせた騎士たちはようやく我に返り、腰の剣を抜いて斬りかかる。遠距離に位置する騎士たちも、『魂を壊す武器』でマリアを狙い撃つ。
マリアは自らに降り注がれる刃の雨をいとも容易く避け、カウンターで蹴りと拳を周りの騎士たちに叩き込んだ。その威力は凄まじく、当たった部分に骨があればそれを砕き、肉があれば容赦なく突き破る。急所こそ外しているものの、騎士たちの体から噴き出る血で、マリアの白い服は、真っ赤に染まっていた。
動きの速さと、攻撃の重さ。近距離の攻撃すら当たらない今のマリアに、遠距離の攻撃が当たるわけがない。光の玉のような攻撃を簡単に避けつつ、近距離で攻撃してくる騎士たちを次々と制圧していく。
その姿は、まさしく鬼神。誰にも止められず、そして何がどうなっているのか理解する前に攻撃され、沈む。風のように騎士たちの間を移動し、そして鉄球でも落とされたかのような攻撃を仕掛けるマリアを捉えることなど、この場にいる人間ではできやしない。
ものの数秒で接近戦を仕掛けていた騎士たちを撃破し、今度は離れた距離にいる騎士へとマリアは攻撃を仕掛けようと、足元に落ちていた騎士たちの剣を手に取り、それを容赦なく投げつける。
投げられた剣はまるで投げナイフのように騎士の1人目掛けて飛んでゆく。その速度は『魂を壊す武器』から放たれる攻撃よりも速く、あまりの速さに面喰っている騎士の腿に、鍔の部分まで深々と突き刺さった。その激しく燃えるような痛みに騎士は悶絶し、その場に倒れてのたうち回る。
そんな騎士の姿に目も暮れず、マリアは再び足元の剣を、騎士の1人に投げつける。先ほどと同様にそれは凄まじい速さで飛んでゆくが、一直線に飛んでくる平凡な遠距離の攻撃に当たるほど、騎士たちは無能ではない。
剣の飛んでくる軌道はわかっているのだから、それからちょっとでもずれてしまえば命中することはない。騎士は身を右に倒し、飛んできた剣は騎士の元いた場所を通過してそのまま飛んで行った。
攻撃を避けた騎士は、すかさずマリア目掛け、持っていた『魂を壊す武器』を放とうと狙いを定ようとする。が、その的であるマリアが見当たらない。見まわしてみても、あの恐ろしい鬼神の姿が目に入らない。
「・・・上、ですよ」
騎士の頭上から降ってくる言葉。それに驚き、騎士は慌てて顔を声のしたほうへと向ける。瞬間、顔面に重い衝撃が襲いかかり、騎士は勢いよく屋根に叩き伏せられた。
マリアも、直線的な攻撃が2度も連続で命中などしないことを予測できないほど無能ではない。剣を投げた瞬間に空へと跳び上がり、騎士の頭上へと降り立ったのだ。剣を投げ、それを避けされることで、攻撃をさせずに撃破するという手段である。
残りの騎士たちを見る。圧倒的すぎるその力に騎士たちはそこで初めて恐怖した。マリアから感じ取れる驚異的な力と、それを増幅させている憤怒は、もしかしたら死ぬことよりももっと恐ろしいものなのかもしれない。
それを目の当たりにした騎士たちは、狂ったかのように『魂を壊す武器』を乱射する。錯乱状態にある今の騎士たちは、もはやマリアを撃破するという目的を忘れ、ただ目の前の恐怖から逃げ出そうとしているだけだった。
そうなってしまえば、あとは簡単だった。冷静さを失った攻撃が、マリアに命中するわけもない。次々とでたらめな方向へと放たれる光の玉を避け、騎士に接近する。錯乱した騎士には、もう逃げるという選択肢を選べる余裕は存在しない。
呆気なく距離を縮められ、そしてマリアは容赦なく拳を振るう。もちろん急所は外すが、それでも戦闘不能にさせるには十分すぎる威力だ。
1人を潰し、さらにもう1人潰し、そしてまた1人潰す。
何度かそれを繰り返した後、もう立っている騎士は誰1人としていなかった。敵をすべて戦闘不能に陥れたことによってマリアの怒りも収まったのか、先ほどよりは冷静になっていた。
「おしまい、ですわね」
腕を組んで、今なすべきことを考える。
今倒した騎士たちは、もう立ち上がれない。傷つけた自分が断言できる。生きてはいるが、わざわざ戦うことなどできっこない。そういう『箇所』に攻撃したのだから、動こうにも動けないはずである。
それならば、今成すべきことはただ1つ。メルゼを城へと運ぶことだ。
怪我は槍が1つ脚に刺さっただけで済んだが、問題は使用した魔力の量だ。生命の源のようなものである魔力を、体が動かなくなるまで使用したとなれば、メルゼの生命活動の維持に関わる。
血にまみれた腕と手を服で拭い、マリアは倒れているメルゼの元へと向かった。