第81話 魔界編16
「はぁ、はぁ・・・」
たった2人。たった2人相手しただけなのに、もう何十キロも走ったかのような疲労感が全身を襲う。体中が酸素を欲しがっており、それを取り入れるために刹那は過呼吸気味に空気を吸い込んでいた。
訓練と、実戦。人の命をやり取りする戦いの重さを、刹那は改めて実感する。剣を振りぬく瞬間こそそのことを忘れられるものの、その後に一歩間違えれば相手の命を奪ってしまったかもしれないという『恐怖感』を思い知る。最初に抱いていた気持ちなど、今となってはどこ吹く風だった。
その凄まじいストレスは、たった数秒のこのやり取りで刹那の体までをも蝕んでいた。相手の命のことを考えず、自分のことしか考ていなかった昔とはもう違うのだ。
相手のことを考えられる余裕ができてしまったことは、刹那の成長を示す確固たる証拠である。だが、なまじ成長した分、最初に大剣を振るったときよりも、戦いにおいてストレスがたまりやすくなってしまった。成長したことによる、戦いへの弊害がこれだった。
「はっ・・・はっ・・・はっ・・・」
吸っても吸っても、まだ足りない。どれだけ酸素を消費すれば気が済むのかというくらい、体は空気を求めている。これでは戦いに集中できない。呼吸することに夢中になってしまえば、戦闘への意識が薄れるのも無理のないことだった。
「はっ・・・はっ・・・ぐ・・・」
ついに刹那はその場にしゃがみ込む。異常に体が重く、そして動かない。先ほどまでは聞こえていた、他の騎士たちを相手にしているレオと城の兵士たちの怒声や、武器と武器が打ち合う金属音が、まったくといっていいほど耳に入らず、耳鳴りのようなキーンとした音だけが、刹那の頭の中で響いていた。
「―――っ! ―――っ!」
レオが、刹那に向かって何か叫んでいた。叫びながらも、銃を撃つのをやめない。ただ乱射しているようにしか見えないレオの銃は、騎士たちの肩や腕、足の関節を正確に狙い撃ちしていた。見事で、実に鮮やかな腕前だった。
そんなことをボーっと考えていた刹那は、レオの聞こえない叫びの意味に気付かない。レオの緊迫した表情から吐き出されるその怒声は、刹那の危機を知らせるものだということに、刹那は気付かない。
「・・・・・」
ようやくレオの叫びに疑問を持ち、刹那は顔を上げる。
「・・っつぁ!」
同時にくる、肩への激痛。
痛みを感じた部分に目をやると、真っ白な長い刃が肉を貫通しているのが見えた。
その刃は貫くことに特化した鋭く尖ったもので、それが槍の刃ということを、刹那はようやく理解した。
「っ!」
だが、それに気がついた時には、もう手遅れだった。
槍を刹那に突き刺した騎士は、手元の槍を手放し、そして腰に差してある十字の剣を抜いて縦に斬りかかる。槍を抜いて再び突きかかるよりも、剣で攻撃するほうが早いと踏んだのだろう。
「!?」
慌てて応戦しようとするものの、先ほどまで動かなかった体が、今になって急に動くわけがない。頭を両断されることだけは防ごうと、身をかわすだけで精一杯だった。
だが、それも完全回避というわけではない。必死に横へと体を逸らしたものの、刹那の左肩口から肘までの肉が、まるで鉋にかけられた木のように削ぎ落されてしまった。
「う、ぐっ!」
当然ながら走る、激痛。骨から剥がれた皮膚と肉からは鮮血が泉のように溢れだし、真紅の血液にまみれた桜色の内面に伸びている無数の神経が外気に触れ、それが痛みを増幅させる要因の1つになっていた。
魔力を傷口に一瞬で集結させ痛みを和らげるものの、騎士はそんな刹那を容赦なく蹴り飛ばす。
「っ!!」
鉄の塊に覆われた足は、刹那の腹部に深くめり込む。身体の強化をし、攻撃に対する耐性は多少強まっているものの、さすがに訓練されただけあって多少の強化などものともせず、騎士の蹴りは刹那にダメージを与えてくる。蹴りの勢いで大剣をも手放し、それは再び黒い霧となって虚空に消えていってしまった。
「う、あ・・・!?」
力一杯蹴られた刹那はわずかな浮遊を感じ、そのまま吹っ飛ばされる。
飛ばされたその先には、何もない。刹那を受け止めてくれる壁も、地面もない。ただ落下しているのみである。あるとすれば、刹那の全身を砕くであろう地面だけだ。
いくら訓練したとはいえ、魔力による身体の強化を施していない騎士の蹴りよりも、高い城壁の上から落ちたほうが、ダメージが大きいに決まっている。今、刹那が身動き1つすらほとんど取れないというこの状況ならばなおさらだ。受け身すら取れず、重力に任せて落下し、そして打ちつけられる。そんなことをされれば、確実に死ぬ。
「・・・・・」
騎士はそんな刹那に目もくれてやらず、剣を携えて蟻の如く沸いている兵士たちを駆除しようと城内へと侵入する。撃破を確信したのか、もう刹那のことは目に入らないかのように背を向けて。
「刹那ぁあああっ!!」
今になって、レオの叫びがようやく刹那の耳に入る。落下する刹那を救出に向かおうと必死に向かおうとするが、レオの実力を認めた騎士たちがレオの元へと駆けつけ、それをさせない。寄せ付ける前に倒すというスタンスだったレオも、一斉に近付かれたのではそのすべてを戦闘不能にすることは叶わず、結果近距離の戦いを強いられることになってしまう。
「・・・・・」
そんなレオの戦う姿を見ながら、刹那は慣れない浮遊感に包まれながら落下していった。心なしか、落下の速度がゆっくりになっているような気がする。死ぬ前には走馬灯が見えるという類のものだろうかと、くだらないことを考え、刹那は苦笑した。
{動いて、くれたら、なぁ・・・}
せめて受け身を取れるくらいまでに身動きができたなら、まだ助かったかもしれない。だが、それも叶わぬこと。頭で動いてくれと念じても、体は言うことを聞いてくれない。落下する速度はさらに遅くなり、頭に浮かんでくるのは・・・ただ1人の表情。
{レナ・・・ごめん}
そこで浮かんだのがなぜレナの顔だったのか、そしてそれは何に対しての謝罪なのか、刹那にもわからなかった。ふと浮かんでくる、レナの笑顔、必死な顔、困った顔、嬉しそうな顔。たくさんの感情を表情に表したレナの顔が、まるで流れるかのように次々と浮かんでくる。
{・・・どうしてだろ}
疑問に思うが、別に理由なんてどうでもよかった。最期に綺麗なあの表情が見られたのだから、今から死ぬことも、そんなに悪くないように思えた。
死はもっと怖いものではないのか、と長年思ってきただけに、刹那が今覚えている安らぎにも似たような感情は、少しだけ意外だった。
{・・・まだかな}
とっくに地面に叩きつけられてもいいはずなのに、刹那はまだ空中にいた。そこでやっと、それはおかしいのではないかという疑問に至る。いくら走馬灯とはいえ、この滞空時間は少しおかしいのではないか。
地面のほうを向いてみる。そこで、刹那は驚愕した。重力に従い、そして自身を打ち砕くはずの地面は一向に近付いておらず、刹那は空に留まっていることを自覚する。落下していないのだ。まるでそう、浮かんでいるかのように。
「な、なんで・・・!」
驚きのあまり、思わず身をよじる。左へ、そして右へ。それをして、刹那はようやく気がつく。
「体が、動く?」
先ほどまではまるで鉛のように重かった体が、なぜか動く。ストレスによって蝕まれたおかげで万全の状態というわけにはいかないが、体はもう悲鳴を上げてはいない。傷口の痛みも、なぜかほとんど感じない。少なくとも、戦うには問題は何もなかった。
それに、何だか体がいつもよりも軽い気がする。力も有り余っており、まさに今まで体を押さえつけていた鎖から解き放たれたようだった。
「・・・行こう」
先ほどまでの、相手の命を奪ってしまうのではないか、という不安はもうなかった。今感じている圧倒的な力さえあれば大丈夫。自分のことを心配する必要性が薄れた分、相手のことに気を遣うことができる。先ほどまでのストレスだって、感じることなんてなくなる。
だから、行こう。
今すべきことは、前にいた位置に戻ることだった。ほんの数秒で、戦局はどんどん変わっていく。ただ闇雲に突っ込んでいったところで、的になるのがオチだ。
だから、元の位置に戻って状況を確認する。慌ててしまえば何にもならない。とりあえずは冷静にならなければならない。
だから、元いた場所に戻りたいと、そこへ行きたいと、そう『頭に思い浮かべた』。
「・・・う、わっ!」
瞬間、突然突風に煽られたかのように、刹那の体が舞い上がった。実際には風など吹いてはおらず、体を浮かせている何らかの力が動かしているのだが、今の刹那はそのことに気がつかない。自分の手足を動かしているようなあまりに自然な感覚のため、疑問に思わないのだ。
半ばつんのめるようにして元いた場所に着地し、そして辺りを見渡す。天界の騎士たちの大半はすでに城内に侵入しており、城の中にいる兵士たちが束になって騎士たちを撃破しようと団結したいた。
それはまるで、巨大な昆虫を相手に戦う兵隊蟻のようだった。個々の力は弱くとも、集まり合って力を合わせれば、多少の強者ならば打ち倒せる蟻。城壁の上から見た絵図は、まさにそれだった。
城内は何とか対応していて硬直状態に持ちこんでいるものの、少し離れた城壁の上で戦っている1人の男は、若干焦りの表情を交えながら3人の騎士を同時に相手していた。
3本の槍を手持ちの銃を使って上手く避けているものの、その場から逃げれば追撃をもらい、攻撃する暇もないという劣勢であった。ここでもう1人騎士側に助けが入れば、さすがのレオもやられてしまう。
だからこそ、真っ先に駆けつけなければならないのは、レオの元だった。
「レオっ!」
名を呼び、再び刹那は飛ぶ。まるで背中に羽でも生えているかのように刹那は自在に空を駆け抜け、その最中に大剣を再び形成する。もちろん、飛んでいる勢いに任せてでたらめに大剣を騎士目掛けて振り下ろすような真似はしない。やるのは騎士ではなく、その手に持っているものだ。
「ふっ!」
レオに向かって伸びている3本の槍。漆黒の大剣はそれらを見事に両断することに成功する。余りに余った力は底を知らず、先ほどまでの剣を振る速度がふざけていたのではないかと思うくらい、今の刹那は速く、そして強かった。
「!? 刹那っ!」
驚いた声で名を呼ぶレオに構わず、刹那は騎士たち3人に目掛けて横一文字に蹴りを放つ。もちろん力の加減はしている。命には関わらない程度のダメージで済むはずだ。
「ぐ・・・」
「・・・あ、が」
「う・・・」
三者三様の呻き声と共に、騎士たちはその場に倒れ伏してしまう。何も無理に吹っ飛ばさずとも、当たり所が悪ければこのように立ち上がらなくするのは簡単なことだ。激痛を抑制する術を知らない騎士たちは、ダメージを与えてやればすぐに動かなくなる。命を奪わずとも、勝てるのだ。
「レオ、無事?」
「それは俺のセリフだ。まぁ、助かったよ」
ふっ、と笑い、レオが何やら嬉しそうに言う。
「刹那、お前、いいもの背中に付けてるじゃないか。似合ってるぜ」
「え?」
レオに言われて、ふと刹那は自分の背中を見てみる。
そこにあったのは、2対の黒い翼。まるで天使のような羽を持つそれは大剣と同じく漆黒の色をしていて、禍々しさしか感じられない、まさしく悪魔の翼であった。
これを見て、刹那はようやく先ほどの空中浮遊に合点がいった。おそらく、無意識のうちにこの翼を動かしていたのだろう。死を覚悟していたのに、心の奥底ではまだ生きたいと思っていたなど、皮肉もいいところだった。
「・・・もしかして、俺、『眼』が」
背中の黒い翼を目にした瞬間からふと思っていたことを、ぽつりと呟く。
「そういうことだ。瞳孔も開いてるし、お前もさっきよりは体が動くだろ?」
「うん、さっきとは全然違うよ」
手にしたいと願っていた念願の『眼』。きっかけはおそらく、先ほどの『死の自覚』。窮地に立たされた刹那が、無意識のうちのそれを発動させてしまったのかもしれない。まったくもって、思わぬ副産物だった。
何にせよ、強大な力を得ることはできた。それを利用してこの場を鎮めればいい。迅速に、被害を出さないように、そして命を奪わないように。
「お前がそうなったんなら、俺もちんたらやってるわけにもいかないな」
言うなり、レオも刹那と同様、『眼』を発動させる。蒸気のようにレオの体から染み出ている魔力が、その証だった。
「最初から使ってればよかったのに」
刹那がもっともなことを言う。初っ端から『眼』を使用していれば、もっと早く肩がついたはずなのにと、若干責めるような口調で。
「疲労が著しく蓄積するんだ。使ったところで短時間のうちにこの戦いが終わるとも限らないし、
長引けば疲労で動けなくなっちまう。お前が落ちたときには使おうと思ったが、
魔力の気配がずっと空に浮きっぱなしだったから、あえて使わなかったんだ」
魔力による気配の探知。レオは訓練していた内容を、いつの間にか会得していたようだった。本当は刹那のことを思うあまり、必死になって探知をした結果なのだが、それをレオは言わない。そして、刹那もそのことには気がつかない。
「そっか。じゃあ、倒れる前に終わらそう」
「あぁ、とっととな」
言葉を交わし、2人兵士たちと戦闘を繰り広げている騎士たちを制圧しようと、城内へと降り立ったのだった。
『眼』を発動させた2人に、魔力を使う術を知らない騎士たち。
結果は、歴然であった。