第75話 魔界編10
夜も更け、兵士の大半が眠りについた頃。今までずっと気絶のような状態でいた刹那は、今になってようやく目を覚ました。
「ん・・・・・」
何だか花のような優しい香りに包まれた刹那は寝ぼけ眼を擦り、辺りを見渡す。明かりも何も点いていない部屋は当然ながら真っ暗で、周りの物が何も見えない。唯一わかるのは女性の物と思われる、小さな寝息だけ。自分の近くから、それは聞こえてくる。
暗がりを見つめているうちに、だんだんと目が慣れてくる。と、自分の足元に、誰かが突っ伏しているのが目に入った。・・・さっきから聞こえてくる寝息の主は、どうやらこの人らしい。
誰だろう。そう思い、暗闇の中必死に目を凝らし、その人物を見ようとする。が、
「ん・・・、あ、起きられたのですね」
顔を覗く前に、その女性が起きてしまった。
その声と、暗闇の中のシルエットで、その人物が誰だかわかってしまう。この人は、初対面時に刹那を抱き締めながら泣いていた、この国の女王、マリアだった。
「! あ、はい」
慌てて返事をする。マリアの声は何だか穏やかで、暗闇で見えにくいはずの表情も簡単にわかってしまう。―――今マリアは、微笑んでいる。刹那を見て、ただ幸せそうに。
「えっと、レオたちは?」
「皆様は他の部屋でお休みになられてますよ。刹那くんは、無理を言って私の部屋に運ばせていただきました」
「私の部屋って・・・じゃあこのベッドって・・・!!」
理解した瞬間、刹那の顔が徐々に赤くなってくる。どおりでベッドからいい匂いがしてくるはずだ。優しく、花のようないい香り。そんな匂いが染みついた、毎日マリアが寝起きしているベッドに、自分は寝ている。
気恥ずかしさのあまり、とっさにベッドから逃げ出そうと刹那だったが、額をマリアのものと思われるすべすべの手で押さえられる。
「そんなに慌てて、どうしたのですか?」
「い、いや・・・、だって、ここってマリアさんの・・・!」
「ふふ、いいじゃありませんか。だって、親子ですもの」
親子だから。
そのたった一言で、刹那は急に大人しくなった。今のマリアの心情を理解してやれないほど、刹那は無知でも間抜けでもない。出ようとしたベッドに再び戻り、そしてマリアのほうを見つめた。
光がほとんどないこの部屋でも、目さえ慣れれば少しでも物が見えるようになる。闇の中に溶けそうな儚さと切なさを持った美女の顔を、刹那はただじっと見つめていた。
「・・・本当に、よかったです」
「俺が、この世界に来たことですか?」
思ったことを、素直に口にしてみる。
「それもですけど、あなたが立派に育ってくれていて」
「でも、血は繋がってませんよ? それでも、俺を息子だと思っているんですか?」
言ってから、しまった、と思った。刹那は純粋な疑問からそう尋ねたが、今の聞き方だと、息子という扱いをされて不満を持っている、と捉えられてしまうかもしれない。
だが、刹那のちょっとした心配をよそに、マリアは笑いを含みながら刹那の疑問に答える。
「私たちの世界では、刹那くんの世界ほど、血の繋がりにこだわっていないんです。それが文化と言いますか、常識と言いますか・・・いずれにしても、刹那くんと血が繋がっていなくても、私とメルゼ様にとっては大事な大事な子供なのです」
マリアが答え終わるなり、きゅ~、という可愛らしい音が響く。誰がどう聞こうと、腹の虫の音だった。
その音を隠すように、慌てて刹那が腹を隠す。いくら昼食と夕飯を食べていないとは言え、大事な話をしているこの時に、腹の虫が鳴り響くというのは何とも間抜けだった。
バツが悪くなり、刹那は下を向いてしまう。
「そうでしたね、ご飯、まだでしたもんね」
全てを見透かしたように、マリアが言った。
この包み込むような温かさに、刹那はくすぐったいような感覚に襲われる。
「・・・すいません」
かろうじて、それだけ呟く。
「いえいえ、お腹が空くのも無理はないです。・・・でも、もうコック達も眠っている時間ですわね」
首を傾げマリアは悩み、そしてすぐに名案を思い付いたと言わんばかりに手を打った。
「そうですわ! 私が作ればいいんだわ!」
「え、マリアさんがですか?」
少々顔を引きつらせ、刹那は恐る恐る尋ねる。女王と言った地位の高い人物は、専属のコックがいるため滅多に料理などしない。レオやリリアがそうだった。
だからこそ、不安になる。少し前のリリアが厨房に入ったときの悲劇がまた繰り返されるのではないかと、心配で心配でたまらない。
不安いっぱいの刹那を安心させるように、マリアが笑いながら言う。
「大丈夫ですよ。そんなに不安にならなくとも、ちゃんとできますわ」
「・・・すいません、昔ちょっと大変なことがあったもので」
「あらあら、大変だったのね。それじゃ、行きましょう?」
刹那の目の前に、マリアがすっと手を出してくる。手を繋いで行こうと、そう言っているのだ。
少々迷いながらも刹那はマリアの手を取り、そしてベッドから立ち上がった。
2人は並んで部屋を出て、食堂へと向かう。離さぬようしっかり手を繋ぎ、マリアが刹那を先導しているその姿は、仲の良い親子そのものだった。
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食堂に着き、すぐさまマリアは料理に取り掛かった。
颯爽と厨房へ向かっていくマリアのその様は、名のある兵士が戦場へと赴くようで、何だか格好よくて、頼もしかった
刹那はというと、テーブルへと着き、料理が運ばれてくるのをただ待っているという状況になっている。
「マリアさん! 何か手伝いましょうか?!」
さすがに黙って待っているだけでは悪いと思ったのか、厨房にいるマリアに聞こえるよう、刹那は大きな声を出す。
「いいえ~、ゆっくり待っていてください~」
間延びした声が、厨房の中から聞こえてくる。どうやら、これがマリアの精一杯の声のようだった。
マリアにこう言われては、無理に手伝いに行くのも気が引けた。言われた通り、料理が出来上がるまで待たせてもらうことにしよう、と刹那は自分に言い聞かせた。
待っている間、厨房から小気味良い様々な音が聞こえてくる。包丁がまな板を一定のリズムで叩く音、何かを煮込んでいるような音、流れる水の音。それらの音は互いに綺麗に混ざり合い、オーケストラのようなハーモニーを奏でていた。
その安心するような音に刹那はすっかり夢中になってしまい、聞こえてくる音からマリアが何をしているのかを、目を閉じて想像していた。
{・・・何だか、懐かしいな}
自分が幼かった日々を、ふと思い出す。
空腹を我慢し、母親の料理をしている後姿を、ただじっと眺めていたあの頃。
何を作っているのかと聞いても、母親は刹那に一切知らされず、テーブルに運ばれて初めてわかる日ごとの献立は、何だかプレゼントの箱を開ける時のようなドキドキ感があったのを、よく覚えている。
そして今も、まさにその時と同じ気持ちだった。マリアが何を作っているのか予想できず、漂ってくる匂いだけを頼りに料理を想像するだけ。何が運ばれてくるのだろう、という期待が、刹那の胸をいっぱいにした。
「お待たせしました」
声と同時に、料理の乗った大皿をマリアが運んでくる。湯気と共に流れてくる匂いは徐々に強くなってきていて、刹那の空の胃袋を刺激した。
2つの大皿が刹那の目の前に置かる。一方はカットされたパンの皿で、もう1つは野菜と肉をいためた、いわゆる肉野菜炒めだった。ただ、肉野菜炒めに使われている肉や野菜は、どれも見覚えのない種類で、どんな味がするのだろうかと、刹那の好奇心を非常に強くくすぐるものだった。
「えっと、その、食べていいでしょうか?」
念のため、マリアに尋ねる。
「えぇ、もちろんですわ」
にっこりとしたマリアの了承を得て、刹那は手を合わせた。
「いただきます」