第150話 元凶編 -覚醒-
「……な、んだ、よ。これ」
そのマリスの目の前に広がっていたのは、無残に転がっている肉塊と、血で濡れた葉や樹木。原型を留めていない鉄の欠片と、布きれ。そしてその中に立ち尽くしている1人の少女。
今までたくさんの惨い光景を見てきたが、ここまで現実離れした惨状を目にしたのは初めてだった。色々なことが一気に起こりすぎて、マリスは自身の目がおかしくなったのではないかと本気で疑った。何が何だか、意味が分からなかった。
「ようやく来たか。お前の番も、そこにいるぞ」
薄気味悪い微笑を浮かべながらギアスは顎でその場所を示す。
番と聞いて、混乱しきっていたマリスの表情が、見る見るうちに青ざめていった。まさか、そんな馬鹿なと、確信に近い考えを必死で打ち消す。
よろよろと、指し示されたほうへと歩いていく。マリスの目は、焦点が合っていなかった。虚空を見つめ、どこか上の空のままギアスを横切る。
この世で一番大事だったセレス。
絶対に離さないと、離れないと約束したセレス。
そのセレスが、力なく、だらしなく、血まみれで、転がっていた。
先ほどまで生きていたとは思えないほど、それは無惨な姿だった。
必死で逃げたのか、全身にはいくつも擦り傷ができていた。綺麗だった髪の毛も血と土にまみれ、背中には抉られたような大きな傷がある。光を失った目と、自然に開かれている口は、何度も見てきた死んだ人間のものと同じだった。
「…………」
マリスは言葉を失っていた。これはセレスじゃないと、目の前の光景を否定したかった。その場から逃げ出したかった。
そっと、マリスはその場にしゃがみ込み、そのか細い手をそっと握った。まだ体温が残っている。セレスと触れ合っていた日々を思い出し、マリスは静かに泣いた。
「貴様らは、世界から拒絶されている」
ギアスが呟く。
「貴様らはな、以前世界を滅ぼしかけた番の生まれ変わりなのだよ。だから私が殺しにきた。またこの世を狂わされるわけにはいかんからな」
「……俺は、俺たちは、ただ2人で」
震えた声で、マリスはギアスに言い返す。
「貴様らの意思なぞどうでも良いのだ。可能性の問題だ。その気になれば強大な力を振るうことの出来る貴様らを、野放しにできるものか」
言いながら、ギアスは再び腰の大太刀に手を掛ける。一方的な話はもう終わりのようだった。そもそもギアスには、事の次第を一から話す必要などなかったのだ。後はマリスを殺すだけだ。
空気が張り詰めていく。
ちりちりと焼けつくような殺気を、マリスは背中越しで感じていた。
「次は、僕、か……」
「当然だろう。殺さない理由などないからな」
何の情もないギアスの声は、ぞっとするほど冷たかった。おもむろに鞘から大太刀を抜き、高く振りかぶる。後は振り下ろすだけ。それだけで、憂いは全てなくなる。
「……いいことなんて、全然なかった」
不意に、マリスが口を開いた。
容赦なく刃を振るおうとしたギアスの手が、ぴたりと止まる。
「掛け替えのない存在だった。こんな腐った世界の中で、本当に大事な人だったんだ」
遺言のつもりだろうと、ギアスは思った。手を止めて損をしたと舌打ちをし、大太刀の柄を握っている手に再度力を込める。
「でも、世界にとってはセレスはそうじゃなかったんだね。僕が命懸けで守りたかったセレスは、世界からしてみれば本当にちっぽけな存在で、いてもいなくても変わらない……いや、いない方がいい存在だったわけだ」
しかし、手に力が入らない。それどころか、全身に力が入らない。おかしいと思い、マリスから離れようとするが、それすらできない。
「でもさ、それは僕にも言える話でさ。君たちが必死で戦って守ろうとしてるこの世界も、僕にとっちゃ塵同然の物なんだよ。無くなればいいって、何度思ったかわからない」
立っていることもままならず、ギアスはついには膝をついてしまう。手にしていた神抜刀は地面に落ち、倒れこんでしまわぬよう手で全身を支える。
「だからさ、消してやるよ、こんな世界。世界が僕とセレスを否定したように、今度は僕がこの世界を否定してやる。僕らを否定するこんな世界なんて、僕が全部壊してやる」
マリスはセレスの骸を抱き上げ、立ち上がった。
セレスの血がマリスの体を濡らし、全身が真っ赤に染まる。
その姿に、ギアスはどこか狂気めいたものを感じた。今まで散々マリスを監視してきたが、こんなマリスは初めてで、その姿には薄ら寒さを覚えるほどだった。
「貴様……」
「ここで君を八つ裂きにしておきたいけど、今はそれどころじゃない。全部終わった後に目を覚まして……僕と同じように自分の無力さを思い知ればいい」
マリスの体が、白く光り出す。マリスの魔力が具現化しているのだ。暖かで、優しげな色合いをしているのにも関わらず、それはどことなく不気味で、見ているだけで背筋がゾクゾクするほどのおぞましさを感じられた。
くるりと、マリスが振り返る。
予想通りではあったが、瞳孔が開き切っている。今まで魔力になどに縁もなかったマリスが、この局面で『眼』を発動させたのだ。
瞳孔が開けたマリスの目は、どこまでも醜悪に濁りきっていた。死んだ目でもここまではいかない。生気がまるで感じられず、見ている者の魂すら腐らせてしまうと錯覚させる。吐き気を催すほど胸の悪くなるその目は、常人よりもずっと長い時間を生きてきたギアスでさえ見たことのない代物であった。
その瞳を見ていたギアスの体が、さらに重くなる。腕にも力が入らなくなっていき、支えを失ったギアスは地面へと倒れ込んでしまった。
今になって、ギアスはようやく自分がマリスから攻撃を受けていることに気が付いた。今では滅多に感じることはないが、魔力を初めて使った時によく起きた現象―――体内の魔力が激減した時に酷似している。
いつの間にか、魔力による身体強化も解除されているし、時間を加速させようとしても能力自体が発動しないから間違いない。マリスは、ギアスの魔力を能力で奪ったのだ。
視界がぶれる。ぶれていく。
揺れて、揺れて、徐々に黒く染まっていく。
外側からゆっくりと視界が黒ずんでいき、ついには何も見えなくなる。
瞼を閉じたことに気が付いたのは、ギアスが意識を手放した直前のことだった。
「…………」
気絶したギアスを見届け、マリスは高く跳んだ。
標的は、時の神。
今は亡き、愛するセレスのため、マリスは夜空を駆けた。