第146話 元凶編 ー 森 ー
炎の海に埋もれた街並みと、そこらに転がっている兵士の死骸を見ながら、ギアスは佇んでいた。もっと早いうちから戦線に立っていれば、この街のように神に歯向かう人間共を駆逐することができたのではないかと思えるほど、この街を陥落させるのは容易かった。寝静まった頃に単騎で奇襲をかけ、混乱に乗じて他の神々を突入させる。やったことはこれだけだ。正攻法で戦ったのなら数に押されてしまうが、搦め手を仕掛ければ容易い。今のように数を集める暇さえ与えなければ、恐れるに足らぬ存在だ。
とはいえ、この街に住まわっている人間を全滅させたわけではない。何人かは取り逃がしてしまったし、今もまだささやかな反撃をしてくる人間もいる。が、それも無駄な抵抗だ。じきに完全に制圧できるだろう。
それさえ終われば、いよいよあの2人を始末できる。目障りな存在。危険な存在。抹殺してしまえば、もう神を煩わせることなどない。ギアス自身も、正式に戦線へ復帰できる。いいことづくめではないか。
「ギアスさんギアスさん、終わったんだけど、これからどうするの」
背後から聞こえる幼い女の声に反応して振り返る。幼子がいた。少女と形容されるほど拙い体つきであるギアスよりも小さく、細いその体躯の持ち主は、神々の1つである『死の神』。名はジルという。
頭の先から足元まで、まるで色がないのではないかと思えるほど真っ白な表層は、ギアスの瞳に負けず劣らず冷たい雰囲気を醸し出していた。視界にとらえるだけで不快で最悪な気分になってしまうほどの不気味さは、年相応のあどけなさが残る表情からは想像できないほどだった。
「終わったというのは掃除か?」
「うん、全部吸っちゃった」
「それなら私に聞くまでもないだろう。破壊の神にでも頼んでここを全て壊してしまえ。せっかく全滅させたのに、また戻って来られては面倒だ」
「……ジルジルはいっぱい吸えるから、そっちのが嬉しいんだけどな。仕方ない仕方ない」
唇に人差し指をやり、非常に残念そうな顔をするジルだが、特にだだをこねるようなことはしなかった。見た目も精神も幼いが、上下関係だけは叩き込まれている。そのため、自身よりも格が上であるギアスに反論などできるわけもなく、愚痴をするだけで留まった、というわけだ。
「わかったのなら、早く行け。あとは任せるぞ」
それだけ言って、ギアスは神より授かった黒衣を翻し、ジルに背を向ける。
「どこいくの?」
小首を傾げながらの問いに、ギアスは不敵な笑みで応えた。
「任務」
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長い時間をかけてようやく到着した山は、炎に包まれている街の明かりのおかげでいくらかは歩きやすくはなっていたが、それでも薄暗いことには変わりなかった。足元に転がっている石や木の根、倒れている樹木に何度も躓きながらも、2人は必死に前へと進んでいた。
小屋を出発してから、2人はお互い喋ろうとしない。お互い、必死なのだ。黙々と歩き、ただひたすらに生きようと足掻いているその姿に、余裕の色は微塵たりとも見えない。しかしそんな中でも、表情を確認することでお互いを気遣っているのは、さすがとしか言いようがない。もっとも、己よりも番である相方の方が大事である2人にしてみれば当然の事なのだが。
「……セレス、そろそろ休もう」
セレスの表情がほんの少しだけ歪んだのをマリスは見逃さず、額に浮かんだ汗を空いている腕で拭いながらそう持ちかけた。
「……まだ、大丈夫、だよ?」
誰がどう見ても、言葉通りには見えない。セレスはそういう子だ。本当につらい時や苦しい時こそ、何でもないような振りをして誤魔化そうとする。こればっかりは、長年の付き合いがあろうとなかろうと関係ない。誰だろうとわかる。
「ごめん、僕が疲れたんだ。ちょっと休ませてくれ」
だからこそマリスは、事前にこう言おうと決めていた。押しても駄目なら引くに限る。自分のためを想っての提案だったならば、セレスはきっと受け入れてはくれなかっただろう。だからこそだ。相方を何よりも大事にしているセレスだからこそ、マリスのこの提案は断れない。
セレスの返事を待たず、マリスは少々大げさにその場に座り込み、背後の大木に寄り掛かる。それを見たセレスは何も言い返そうとはしなかった。実際、休憩という選択肢は魅力的だったのだろう。当たり前のように腰を落ち着けているマリスの隣に座り、その肩に頭を乗せる。
「ふう……」
休憩を提案したマリスの口からため息が漏れる。なんだかんだ言っても、疲れは溜まる。かなりの距離を歩いてきたし、これからもずっと歩き通しということを考えれば、この時点の休憩はやはり正解なのだろう。
それにしても、ずいぶんなことになってしまったとマリスは思った。別に大きな家だっていらないし、権力だって欲しくなどない。食糧だって生きていくのに必要な分あればいいし、贅沢も望んでなどいない。盗みはかなりやってしまったが、それでこの境地に立たされていることには納得がいかなかった。盗みの罰というのならば仕方ないかもしれないが、これはあまりにも重すぎる罰のような気がしてならない。
(そんなこと言っても、どうしようもないか……)
心の声を口にしたところで、今が変わるわけでもない。そんなことを考えている余裕があったら、体力を回復させることに集中すべきだ。
瞼を閉じているセレスを横目で見た後、マリスも同じように瞼を閉じる。
疲労は思っていたよりもずっと蓄積しており、すぐにマリスは眠りについた。
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2人が浅い眠りについてから1時間ほど経過した頃、パキパキという枝の折れた音と、枯葉を踏みつぶした乾いた音でマリスは飛び起きた。音の源は決して近くではなかったが、神経が過敏になっているマリスには確かに音が耳に届いた。
自分たち以外の誰かが、森の中にいる。それが逃げ延びた人々なのか、はたまた残党狩りを目論む神々なのかわからないが、少なくとも味方ではない。街から逃げてきた民からすれば、乞食である2人は蔑まれるべき存在であるし、神々からすれば狩りの対象になるからだ。
「セレス……! セレス……!」
未だ眠りについているセレスを揺さぶる。すぐにセレスは目を開けるが、意識がまだ朦朧としているようで、何も言わず、ただじっとマリスを見つめ返していた。
「しっかりして……! 誰か来るよ……!」
マリスのその言葉で、セレスの意識は一瞬で覚醒した。マリスと同様、味方ではない人物が近くにいることがいかに危険かを瞬時に理解し、そのか細い身を強張らせる。鉢合わせになってしまえば、相手が誰であろうと良くないことが起こるに決まっているのだから当然だ。
足音がだんだん大きくなってくるにつれ、『あること』がわかってくる。どうやら、こちらへ向かっているらしい。それも1人ではない。2……いや、少なくとも3人はいる。神々がたかが残党狩りのためにそこまでの戦力を割くとは考えづらい。やってくるのは、十中八九、戦火から逃れた人々だ。
背もたれにしていた大木を陰に、マリスはそっと足音の方を覗き見る。
暗くて細部まではわかりかねるが、大まかな人数と様相はわかる。数はやはり2から3人。それ自体は別におかしくはない。まとまって歩くほうが危険は少ないし、どうしようもない敵と遭遇したらばらけてしまえば的を絞られずに済む。
おかしいのは、そいつらの装備。武骨な大斧と巨大な鉈。棍棒や刃の長い剣もあるか。それに長い間使っていたのか、ずいぶんとくたびれた胸当てや腰当を付けている。いずれも、緊急時に避難する場合に持つべき物ではない。命がかかっているのにも関わらず、わざわざ防具を付け、重い武器を選んでいるのはどう考えてもおかしい。
一応、身を守るためという理由があるのかもしれないが、それにしては奴等の表情には恐れや焦燥はまるで見られない。むしろ、今の状況を楽しんでいるかのような薄い笑いさえ浮かべているように思える。
おそらく、奴らは街から逃げてきた避難民ではない。山賊だ。確かに、命辛々逃げてきた街の人々は、恰好の獲物になる。それを狙ってここいらを徘徊しているのだろう。
吐き気がした。
人の行いではない。
(……どうする?)
装備のくたびれ具合から言って、山賊は相当の手練れであることがわかる。正面突破はまず適わない。かと言って、音の鳴る枯葉や小枝などが敷き詰められている森の中を走り、奴等の手から逃れることもできないだろう。もう足音が聞こえてしまう距離だ。必ずバレる。
ここに居ても、いずれは鉢合わせになる。しかしながら、逃げることもできない。
ならばどうするか。
簡単だ、山賊たちの進路を変えさせればいい。
(これでいいか)
足元に落ちていた適当な小枝を拾う。これを遠くの茂みにでも投げれば、山賊たちは自ずとその方へ向かうだろう。その隙に、できる限り静かにその場を離脱するのが、一番いいように思えた。
なるべく遠くへ投げようと、大きく振りかぶり、そして思い切り腕を振るう。枝は回転しながら弧を描き、茂みへと落下する。バサバサと、思ったよりもずっと大きな音が森の中に響き、その音に驚いたのか、眠っていた鳥たちが目を覚まして慌てて飛び去っていく。
少々悪いことをしたとは思ったが、その甲斐もあって山賊たちが急にルートを変え始めた。目論み通り、小枝を投げた方へと走っていく。あれだけ音を立てて走っていれば、こちらが多少動いてもバレやしないだろう。ここを抜けるなら、今しかない。
「セレス、行くよ。走れるね?」
「う、うん」
お互いに手を繋ぎ、小走りでその場を駆けだす。足音はどうしても出てしまうが、先ほどの奴等には察知されてはいないようだった。獲物を見つけたと錯覚している間抜けな山賊たちを尻目に、マリスとセレスは薄暗い森の中を駆け抜けた。
邪魔な木々の間を抜け、枝を腕で払い、何度も何度も躓きながらも、2人は走ることを止めなかった。恐ろしかったのだ。もしかしたら、先ほどうまく騙せた山賊たちが、自分たちも気が付かない間に追いかけて来、今にも頭目がけて武器を振り下ろしてくるのではないかという恐怖が、2人の足を止めることをしなかった。
息が切れ、膝が笑う。いつ転んでもおかしくない状態だ。それでも、足は止めない。もう周りに気を遣う余裕もなく、立ちはだかる木に肩をぶつけ、枝に頬を引っかかれる。体中が酸素を渇望しており、激しい呼吸を何度も繰り返す。全身がボロボロになりながらも、マリスはセレスの手を引き続けた。