第145話 元凶編 ー火蓋ー
小屋から出る準備を終え、マリスとセレスはいつものように1つの毛布に2人一緒にくるまって眠っていた。真冬でないにしても毛布1枚だと寒いし、互いの温もりを感じていたいということで幼い頃からずっとこうやって夜を過ごしてきたのである。
仲良く並んで眠っているその姿は、官能さを醸し出すような艶めかしさは微塵も感じられず、むしろ遊び疲れた子供が寝ているような微笑ましさが感じられた。お互いが『そういったこと』を意識していないわけではないし、たまに眠れない夜があることはあるが、それでもこんな状況そんな意識をするほど危機感を抱いていないわけではない。精神的に参っていることもあり、少なくとも今日は早々に寝付いてしまった。
熟睡し、悪いか良いかはわからない夢を見ている真夜中に、『それ』は始まった。
耳を劈く爆撃音と、地震を思わせる地鳴り。
目覚ましにしてはやかましすぎるその音が2人の耳に突き刺さり、マリスとセレスはほぼ同時に跳ね起きた。
「な、なんだっ!?」
「わ、わかんない! ちょっと見てくる!」
マリスの返事も待たず、セレスは駆けだした。寝起きであるはずなのに、セレスの足取りは思いのほかしっかりしていて、音のした外へと繋がる引き戸までまっすぐ走っていった。
「ま、待ちなってば! 危ないかもしれないって!」
それを、マリスは慌てて追いかける。
まっすぐ小屋の中を駆け抜け、空きっぱなしの引き戸を通り抜ける。
戸のすぐ近くに、セレスはいた。
その肩に手を置こうとして、マリスは眼前に広がる光景に思わず息を呑んだ
「う、そだろ……」
昨日までは何1つ変わらないままだった街。
それが、燃えている。燃え盛っている。
先ほどの轟音が作り出した様が、それだった。
なぜかはすでに検討がついている。危惧していたことが現実になっただけの話だ。驚きはするが、想定していなかったわけではない。だからこそ、昨日のうちに準備は済ませておいた。いつでも逃げだせる。
大丈夫、大丈夫だ。
マリスは自分に言い聞かせ、仮初の安心を得る。
「……セレス、行こう」
「…………」
目の前のセレスにそう呼びかけるものの、返事がない。それどころか、このままここにいると危険だということをわかっているはずなのに、その場から一歩も動こうとしない。
嫌な予感がした。
慌ててセレスを振り向かせ、その顔を覗き込む。
―――真っ青だった。
ガチガチと歯を鳴らし、その身を震わせ、その瞳は何もない虚空を見つめている。
セレスは、怯えていた。以前にも同じようなことがあったからわかる。人が羽虫の如く死んでいっている状況が、恐ろしくてたまらないのだ。
しかしながら、街が燃えているだけでここまでセレスが取り乱すのはおかしい。人が殺されている様子を直に見ているわけでもないセレスが、なぜここまで怯える必要があるのか。
少し疑問に思ったマリスだったが、すぐに理由を察した。セレスは今、能力を使っている。おそらく、少しでも今の状況を掴むために様々な人にジャックしているのだろうが、それがいけなかった。
情報を得ようとすれば得ようとする度に、人々の断末魔が耳に突き刺さる。炎に身を焼かれる者や、逃げ惑う者、混乱でパニックになる者や、騒ぎに乗じて暴走する者。それらの呪詛の呟きや救いを求める絶叫が、セレスの心を抉り、狂わせる。人の死に人一倍敏感なセレスに、それが耐えられるわけがなかった。恐怖に身を震わせ、そして能力の解除を失念させるくらいに。
ここまでくると、いくら声をかけようと無駄だ。揺さぶろうが、大声で名を呼ぼうが、セレスが我に返ることはない。以前もそうだったから、やるだけ無駄なことはわかる。
それがわかっていたからこそ、マリスは何のためらいもなくセレスの頬に張り手を見舞った。軽くもなければ強くもない、正気を取り戻させるだけの張り手。妙に小気味よい音が、空っぽの小屋の中に響き渡る。
「―――ぇ? ぁ?」
何が起こったかわかっていないセレスは、ピリピリと痛む頬を押さえる。頬に残る確かな痛みは、目の前のマリスが自分を叩いたということの証拠だった。いつの間に叩かれたのか、なぜ叩かれたのか―――わけがわからず、しばらく放心する。
「……目、覚めた?」
「? ぁ、うん。ごめんなさい……」
マリスに声をかけられ、そこでようやくセレスは自身が張り手を見舞われた理由を悟った。こんな危険な状況で我を失うなど、絶対あってはならないこと。セレスがあの状態であり続けたのならば、戦域から脱出することなど叶わず戦争に巻き込まれてしまったかもしれないのだ。生き延びるためには、常に冷静でいなければならない。例えどんなことが起こってもだ。
「セレス、これから先は、あまり能力は使っちゃダメだ。いいね?」
「うん、わかった、大丈夫」
セレスの顔色はまだ青いが、それでも受け答えできるくらいには回復していた。ベストコンディションとまでは到底いかないが、逃げるために走るくらいならできる。
となれば、一刻も早くここから離れなければならない。ここもいつ巻き込まれるかわかったものではないのだ。もたもたしていたら、いつの間にか物言わぬ死体と化すこともあり得る。
「よし、じゃあ逃げよう。荷物は僕が担ぐから、セレスはあとから付いてきて」
束になった荷物をおもむろに背負い、マリスは小屋の外へと出た。後ろからは、言われた通りセレスがついてくる。
以前は2人で外へ出るたびに、どこか言葉にし難い安らぎを感じたものだが、この状況ではそうもいかないようだった。平静を務めようとしても、心臓の高鳴りが治まることはないし、手の汗だって引いてはくれない。今まで何度と味わってきた「死ぬかもしれない」という緊張感が焦りを生み、冷静な判断力を奪っていく。
マリスが1人なら、そのままパニックに陥ってしまったかもしれない。どこへ行けばいいかわからずにただ闇雲に大地を駆け、終いには自ら戦線に突っ込んで死んだとしても、特段不思議ではない。死は人を恐慌に陥れる。経験があるからといって、毎度毎度狂わずにいられる保証などないのだ。
けれど、今は違う。マリスは1人ではなかった。後ろにセレスがいる。大事な家族が、頼りない自分についてきてくれている。
守らなければならない。この身に変えても、絶対に。
だからこそ、狂うわけにはいかない。最善な経路を考え、少しでもリスクの少ない道のりを選択する必要がある。
(とりあえず、街から離れるようにしないと)
セレスが先ほど能力の対象としたのは、おそらく街にいる住民。炎が上がっていることと合わせて考えてみると、街を中心に戦闘が起こっていることはほぼ間違いないだろう。そこに接近することは論外だが、かといって遠ざかることもためらわれた。マリス達の小屋から見て、燃え盛っている街の先に、次の街があるからである。
最短距離で安全圏である次の街へ向かうためには、現在戦場となっている街を突っ切らなければならない。もちろん、そんな危険を冒してまで最短距離にこだわる必要はない。要は危険度と安全度のバランスが最適なルートを選択すればいいだけの話だ。
都合のいい経路ならばある。街をコの字に囲んでいる深い山々を通っていけばいい。そこならばさすがに戦火が及んでいることなど考えられないし、万が一敵に見つかったとしても隠れる場所がある。遠回りになるが、街の中やその周辺の平原と比べると、危険度がぐっと減るのだ。選ばない手はない。
「セレス、山を通って次の街まで向かう。ちょっと遠いけど、そこなら安全に移動できるよ」
「…………」
「セレス? 聞いてる?」
「え? ぁ、ごめん。ぼーっとしてた……」
マリスの声に謝罪で応え、セレスは子犬のように頭を垂れた。
ぼーっとしたとセレスは言うが、それは半分間違った答えだ。能力の発動で戦線にいる人々の断末魔を聞いてしまったセレスは、いつマリスや自分が同じ目に遭ってしまうか不安でたまらないのである。小屋に留まるよりならば、離れたほうが確かに安全だろう。しかし、絶対ではないのだ。何らかのイレギュラーが発生し、殺されてしまうことだってないわけではないのだ。
大袈裟かと思われるセレスの反応であるが、戦線がここまで伸びてくる可能性があると話をした段階であれだけ不安がっていたのだから、この反応も仕方ないのかもしれない。自分が死ぬことをここまで恐れているのではない。この世で一番大切であるマリスがこの世からいなくなってしまうことを、セレスは何よりも恐れていた。
今にも泣き出してしまいそうなセレスの手を、マリスは突然握り締めた。荷物がそれほど多くないことが幸いした。もっとたくさんあったなら、片手で荷物を持つような事は出来なかったろうから。
いきなりのことでセレスは驚き、握られた手を引っ込めようとしたが、マリスは離さなかった。痛くならない程度に強く握り締め、じっとセレスを見つめている。優しげな瞳だった。安心しろと、言葉に言わずともマリスの気持ちは伝わっていた。
「……何があっても、僕が守るから」
「……うん」
「絶対にいなくならないから」
「うん」
「もう、大丈夫だね?」
「うん!」
マリスのその問いに、セレスは強く頷いた。唇をきゅっと閉じ、真っ直ぐにマリスを見つめ返す。その表情には不安はもう見られない。すっかり落ち着きを取り戻したようだった。
「じゃあ行くよ! 絶対に逃げ切るからね!」
「うん!」
短いやり取りをし、2人は小走りで小屋を後にした。
だが、生きるためにと駆けだした2人は知らなかった。
例え壊れようと、無くなっていようと、また絶対に戻ってこようと誓ったこの場所に、もう生きて戻ってくることができないことを。