第143話 元凶編 ー2人ー
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「お呼びになられましたか?」
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「もちろんでございます。貴方様の命であれば、何なりと」
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「監視? 私は一向に構いませんが、時期が時期です。たかが1人の人間を見張るなど……」
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「なるほど、『アダム』の生まれ変わり……。放置しておけば反旗を翻す可能性も、確かにありますね。そうなれば、『第一次聖戦』の再来となりましょうな。この戦争は激化するどころの話ではなくなる……」
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「わかっております。しかし、器との相性もかなりよいのでしょう? 監視などまどろっこしい真似などせず、殺してしまえばよいのではないですか?」
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「……1度は殺められたのですから、気にせずともよいのでは? 貴方様が直接手を下さずとも、私がやっても―――」
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「―――そうおっしゃるのならば、これ以上、何も言わないでおきます。期限はどれほど?」
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「それはまた、ずいぶん長くなりそうですね。確認しておきますが、監視の途中で何かおかしな挙動をした場合は……」
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「……御意。では、行って参ります」
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ゆさゆさと、自身の体を揺さぶられて、マリスは目を覚ました。もっと眠っていたかったが、起きて食料を確保しなければならない。昨日した約束だ。反故にするわけにはいかない。その相手が―――目の前の女ならば、尚更。
「……起きた?」
「ん、起きた」
短いやり取りをかわしつつ、伸びをする。固まっていた筋肉がほぐれ、心地いい感覚が全身を包む。が、全身のだるさはどうも消えてくれない。当たり前だ。木製の床に何も敷かずに寝れば、どんなに熟睡したって疲労が完全に消えることなどない。
現在、マリスが寝起きしている場所は、町はずれにある小さなボロ屋。長年使ってきただけあって愛着こそあるが、それでも不便なことには変わりない。出来れば改築したり、それが叶わぬならばせめて寝床だけでもマシな物に変えたいと常日ごろから願ってはいるが、今日食べていくのにも困らなければならないこの状況では、そんなささやかな望みも叶わぬままだ。
色々と文句のある『家』ではあるし、不満もたくさんあるが、それでもマリスはそこそこ幸せだった。ずっと、目の前の女―――セレスと一緒だったから、どんな苦難でも乗り越えて来られたし、小さな事でも幸せに感じることができた。
神と戦争をしているこの世の中。
セレスがいたからこそ、マリスは今の貧困な生活にも幸せを見い出すことができたのだ。
「今日はどうする?」
「盗みましょ。今日は『戦喜祭』だから、お店がたくさん出る。きっとたくさん盗めると思うよ」
あぁそうだったと、マリスはセレスの言葉に頷いた。
戦争を激励するための祭り、『戦喜祭』。それは、この戦争を少しでも楽しく、そして正しいものだという認識を植え付けるという目的から、毎月開催される祭りである。それに踊らされた無邪気な人々は、主催者の思惑通り、魔力を扱う強力な駒になり、終いには得られるかどうかもわからない世界のための礎となる寸法だ。
何も知らない人々を利用する魂胆に吐き気がするが、しかしそのおかげでしばらく困らない程度の食料を得ることができるのだから、そうそう馬鹿に出来たものではない。文字通りの命綱だ。この催し事がなければ、2人はとうの昔に餓死していたことだろう。
「3日……いや、1週間分は何とか確保したいな。水と雑草だけはいくら何でも厳しいし」
「不安がらないの。1店舗じゃ無理でも、転々とすればきっと集まるよ。今までだってうまくやってこれたんだから、大丈夫大丈夫」
「相変わらずたくましいね、セレスは。羨ましいよ」
セレスの真っ直ぐな表情に、マリスはついつい笑みを浮かべてしまう。どんなに世界が暗くとも、醜くとも、この笑顔が照らしてくれる。マリスにとって、セレスこそが太陽だった。自身の不安を、絶望を、全て吹き飛ばしてくれる光だった。
「マリスも、ちょっとは前向きにならないとね。こんな時代だからこそ笑顔だよ! つらいことがあっても、悲しいことがあっても、笑っていさえればあっという間にこんな時代なんて終わる。そうすれば、きっとおなかいっぱい食べられる平和な世の中になるよ!」
「……そうだね。そうなればいいね」
それが例え叶わぬ夢だろうと、セレスが言うならば本当に起こり得るのではないかと思えてしまうから不思議だ。これは一種の才能なのだろう。人に希望を与えるその人柄は、決して後天的なものではなかった。幼き頃より人に優しくすることを覚え、以来笑顔を絶やさなかったセレスは、人を幸せにする才能を持った天才だった。
「それじゃ、行こっ! もうお店、開いてるよっ!」
セレスに腕を引っ張られ、マリスは起き上がった。寝不足で足元が若干ふらつくものの、慢性的であるそれは、これから行うことの妨げには大してならない。慣れてしまったからである。通常よりも悪い状態が、マリスにとっての普通だった。
だから、いつものようにセレスに微笑みかけ、その小さな手を大事に握りしめ、小屋の外へと歩き出した。
これから行う事を思えば、そんなことをしている余裕などないはずなのだが、それでも市場に着くまでは、セレスと共に穏やかな時間を過ごしたかった。
これから行う、食糧の確保。
それは、罪だった。
やらなければ生きていけないというもっともらしい言い訳を掲げて、その行為を正当化しようとしても、悪行は悪行。 長年やってきた行いではあるが、根からの悪人ではないマリスとセレスにしてみれば、それは良心の痛む行為だった。やる度にやるせなさと申し訳なさが湧き上がり、全てを終えた後には心が罪悪感でいっぱいになる。
それがわかっているからこそ、それが訪れるまではこうする。
手を繋ぎ、わずかながらの安らぎで心を潤す。
それが、2人のちっぽけな処世術だった。
こうでもしなければ、罪悪感に塗れて、とても生きていくことなどできやしなかった。
町までの道のりは、それなりに時間がある。
その時間がいつまでも訪れませんようにと願いながら、2人はゆっくりと町まで歩を進めた。
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町は人でごった返していた。普段であればそれほど人も見当たらない通りでさえ、老若男女問わず犇めいている。1つの出店に群がるその様は、さながら餌にたどり着いた蟻のようだった。これほどの人が、一体どこから湧いて出たのか、不思議でならない。
ともあれ、これだけの人数がいれば十分だ。十分、店主の目を誤魔化せるし、いつもよりも多めに食糧を盗み出すことが可能になる。うまくいけば1件目で1週間分が確保できるかもしれないし、店を転々と回れば次の戦喜祭までの分まで盗み出すのも夢ではない。もちろん、そこまでうまくはいかないだろうが、それでも必要以上の食糧を確保できるのは確実だ。期待は十分できる。
できるが……それでも罪悪感が消えることはない。
戦争真っ只中のこの世の中、食糧を作ることがどれだけの困難かを想像することなど容易い。それを対価も支払わず横からかすめ取るのだから、気分がいいわけない。
「っ……」
ぶんぶんと頭を振り、マリスはその考えを振り払った。余計なことを考えた状態で、盗みを完遂させることは不可能だ。切り替えなければ、成功はやってこない。失敗すれば、しばらくは雑草だけの毎日が待っているのだ。自分はともかく、セレスにそんな生活を送らせるわけにはいかない。
2度ほど、深く深呼吸をする。
長く吸い、長く吐く。
(……よし)
切り替えは完了した。いつでも、大丈夫。
『……マリス、聞こえる?』
頭の中に、セレスの声が響く。
セレスの魔術―――『広範囲伝達』である。これは、あらかじめ対象となる人物の魔力を記憶しておくことにより、その持ち主と言葉を交わすことのできるという能力なのだが、特筆すべきはその範囲にある。どんなに遠くに居ても、と言うにはいささか大げさだが、少なくともかなり広大であるこの国の規模でも、セレスの声が途切れることはない。『こういうこと』をするにはうってつけの能力だった。
『ちゃんと聞こえてるよ。準備できた?』
心の中で、そうセレスに呟く。
『うん、大丈夫。そっちも準備できたみたいね。それじゃ、お願い』
『了解。うまくやるよ』
短いやり取りを終え、マリスはすぐ近くにある店舗へと、しゃがんだままじりじり近づいた。決して店主には見つからないよう、音を立てず、細心の注意を払いながら、距離を縮めていく。
店主は気づいていない。それどころか、通りを歩いている人々もマリスに気が付いていなかった。細心の注意を払っていることもあるが、ここまでうまく気配を消せるのは一重に経験であった。物心ついた時から、浮浪者や国の警護隊を相手に逃げ隠れし回っていたマリスにとって、これくらいならば朝飯前。その気になれば、このまま何品かの食糧を盗み出すことだって可能だ。
しかし、それでは駄目だ。これから行う作戦に比べれば、手に入る量が少なくなってしまう。少しでも多く盗まなければならないのに、そんなことをするわけにはいかない。
余裕を持ち、決して気づかれないであろう位置でマリスは待機する。遠すぎず、かといって近すぎないその距離は、店主だけでなく往来している人々からも存在を気取られぬ最適な距離だった。
『……よし、いいよ』
心の中で、聞いているであろうセレスに向かって呟く。
『了解。それじゃ、行くね』
その返事から数秒もしないうちに、店主の前にセレスが現れる。辺りにいる人々と違い、薄汚れている服のセレスは、明らかに浮いていた。人々の視線はもちろん、その店の店主さえも、セレスのみすぼらしい恰好へ視線を注いでいる。
浮浪者がいること自体は珍しくはない。おかしいのは、こうも堂々と店の前までやってきているということだ。いきなり盗みを働くのではないのか、はたまた何かろくでもないことをやらかすのではないか。そんな考えが浮かんだ店主の表情は、自然と険しくなっていた。おかしなことは絶対させまいと、セレスに悟られぬよう身構える。
「おじさん! お願い、食べ物をわけてください!」
大声で叫び、セレスは深々と頭を下げた。
その大声に、あるいは様子に、なんだなんだと次々と人々が集まってくる。
思いもよらないセレスの行動に驚き、店主は狼狽しながらも叫ぶ。
「い、いきなりなんだお前はっ! お客さんの迷惑だろうがっ!」
「お願いです! 私の弟がこのままだと餓えて死んでしまうんです! どうか、どうか食べ物を恵んでください!」
頭を下げたまま、それでも大声でセレスは叫ぶ。あたかも本当のことのような必死さを醸し出してはいるが、もちろんセレスに弟などいない。口からのでまかせである。演技がこれだけ上達したのも、全ては生きるため。こんな時代でなければ、舞台の上で脚光を浴びることもできたのだろうが、それも叶わぬ夢である。
セレスのあまりの真剣さに、店主は一瞬ひるんだようだったが、すぐに気を取り直して吐き捨てるように言葉を放つ。
「黙れっ! 金も持ち合わせておらん乞食が何をほざくかっ!」
「お願いします! お願い、します……」
「駄目だ駄目だ! 品物をただで渡すことなどできるか! さっさと失せろ、この愚図!」
「で、でも! それだと弟がっ!」
「知ったことかそんな事! 乞食が何人死のうと一向に構わんわっ! いい加減にせぬと叩き伏せるぞ小娘!」
「……っ!」
悔しさを表情に滲ませ、流れる涙も拭うことなく、セレスは走り出し、そのまま路地へと入り込んだ。その表情も涙も演技であるが、店主はおろか、観客の誰もがそれを本物であると疑わなかった。店主に煙たがられるのは仕方ないことだとわかっているし、金がないのに無料で品物を渡すわけにもいかないことも理解できているのだが、それでもセレスに同情してしまうのは、それだけ演技が素晴らしいものである何よりの証拠だった。
路地に入ったセレスはあらかじめ決めておいた集合場所へと向かった。誰にも悟られることなく、演技を継続したまま向かうと、そこにマリスがいた。手には膨らんだ風呂敷。中身はもちろん、先ほどの店の品物。ご察しの通り、セレスが演技をして皆の注目を集めている間に、マリスはこうして一仕事終えたわけである。店主や観客には、盗んだことを一切悟らせてはいないその手腕は、セレスの演技力に匹敵する熟練度を誇っていた。
「おかえり、こっちはうまくいったよ」
涙目になっているセレスにそう言い、マリスは風呂敷を持ち上げて笑ってみせる。
それを確認してようやく緊張の糸が切れたのか、セレスは目に溜まっていた涙を拭った。
「さすがだね、マリス。この調子でいけば、すぐ集まっちゃいそう」
赤くなった目に似合わぬほど、嬉そうな笑顔を見せるセレス。ここまでうまくいったのもずいぶん久しぶりのことなのだ。喜ばずにはいられないだろう。
「このペースだと、あと2、3回やれば集まりそうだね。今度はもう少し離れた場所でやろうか」
「りょ~かい。それじゃ早速行こ! 手筈はさっきと同じだよね?」
うきうきといった様子で、セレスはマリスの手を取って走り出す。
いきなりだったからか、マリスの足も少々もつれ気味だったが、それでもはしゃぐセレスに言葉をかける。
「わ、わかったから引っ張らないでってば! そ、それと! 次だって慎重にやらないとダメだからね!」
「わかってるわかってる!」
マリスの言葉もそこそこに、セレスは実に楽しげにマリスと共に駆ける。
2人は走る。
生きるために、走っていく。
薄暗く、誰もいない不気味な裏通りを、2人の楽しげな足音だけが、いつまでも反響していた。