第126話 恋慕編19
探す手間が省けた、というのが刹那の率直な感想だった。刹那とて覚悟を決めた身。決意が揺るがないうちに事を済ますことができるのならば、それに越したことはないのだ。
ないのだけれども、やはり心の準備くらいはしないといけなかったらしい。予想はしていたとは言え、レナとこうやって対面することの緊張感を再確認させられる。想い人であるレナの表情を見た途端、刹那の心拍数は急激に上昇し、平常だった表情もみるみるうちに赤みを帯びていく。更には、何か気の利いた言葉の1つでも言おうとするものの、緊張のあまりに何を喋っているかわからないという、何とも情けない有様である。先ほど決めた覚悟は何だったのやらと思わずにはいられない光景だ。
しかしながら、土壇場に弱いのは刹那だけではないようで、その原因たるレナも同じように頬を赤らめていた。心なしか涙目でもあるし、足も少しだけ震えているようにも見える。刹那にはわかっていないが、心臓の鼓動も激しくなっており、一目で極度の緊張状態だと窺える。
だがその瞳の奥の光だけは、まるで別の雰囲気を醸し出していた。しっかりとした意思と決意を秘めており、目的である刹那から一瞬たりとも目を離したりはしない。食事の時間はあれほど顔を逸らしていたというのに、今は何かの決まりごとかのようにじっと刹那を見つめているのだから驚きだ。
ともあれ、だ。
役者は揃った。
舞台はお世辞にも素晴らしいとは言えぬただの庭ではあるが、程よく吹いている夜風と、辺りを明るく照らしてくれている満月が、何とも上手い具合にいい雰囲気を作り上げていた。若人の告白の場には十分過ぎる状況だ。あとはタイミングと度胸、そして覚悟である。
刹那はともかくとして、レナは覚悟を決めてこの場に立っているわけであるが、何せタイミングがつかめない。恋愛事に疎く、そういった経験が皆無であるレナも、いきなり想いを告げるのはあまりよろしくない事くらいは予想がつくし、そこまでの度胸もない。当たり障りのない会話から初めて、徐々に徐々に核心に近づいていったほうが取っ付きやすいものだと判断し、何か刹那に話を振ろうとするのだが、いかんせん何と刹那に話しかけたらいいかわからない。
月が綺麗だね。
風が気持ちいいね。
2人きりだね。
会話のきっかけとなる物言いはたくさんあるはずなのだけれど、どうしても声が出てくれない。体全体が石のようになったとレナは錯覚した。こ言葉が出ないどころか、息をするのすらもやっとのようで、レナの肩はいつもより激しく上下している。こまでの緊張も、生まれて初めての経験であった。
刹那もレナも同じように固まった状態であるため、その場は硬直状態に陥ってしまった。お互いに話すこともせず、歩み寄ることもしない。ただいたずらに時間が過ぎて行く中、2人とも身動き一つしない。それなのに、2人とも視線を合わせたまま逸らそうとしないというのは、なかなか面白い光景であった。
{このままじゃ、まずいよ、な}
刹那がそれに気がついたのも、硬直してからほんの少しの事だった。心の声の通り、このままでいいわけがないのだ。想いを伝えると覚悟したはずなのに、いざ肝心要のレナと会ってみればこの様で、何の口火も切らずにただじっと見つめているだけ。何をやっているのだと、軽い自己嫌悪に駆られる。
動かなければならない。
言葉を発しなければならない。
想いを伝えなければならない。
わかっているが、できない。当たり前だ。できたら今すぐにでもやっている。それなのに刹那がやろうと
しないのは、自分の意思で体が動いてくれないからだ。動こうにも、言葉を発しようにも、想いを伝えようにも、自身の思い通りに体が動かなければどうしようもない。唯一思い通りになるのは思考だけという、今この状況ではほとんど役に立たないものだ。エスパーでもなし、思考だけで想いを伝えることなど刹那にはできっこない。
ならば、諦めるか。
何もせず、このまま無為に時間を過ごし、この機会をうやむやにしてしまうのか。
そう問われれば、迷うことなく刹那は違うと叫ぶだろう。レナを目の前にするという機会を、ここでみすみす捨ててどうするというのか。これを逃せば、おそらくもう2度とレナに想いを伝える機会は訪れないであろうことを、刹那は薄々だが理解している。今こそが絶対の好機なのである。それを棒に振り、再び機を窺うなど愚かとしか言えない。
やるなら今。
告白するなら今。
想いを告げるなら今。
{言え……っ! 言っちまえ……っ!}
自身にそう言い聞かせ、刹那は言葉を発しようとする。
たったの一言でいい。
好きという気持ちだけ伝えられればいいのだ。
それだけでいい。
それだけでいいのに。
たった一言の言葉を発すればいいだけなのに。
やはり刹那は言えなかった。
無意識のうちであるだろうが、言葉が喉の奥から出てこない。何かがつっかえて邪魔をしているかのように、声と呼べるものすら出てこない。それと同時に、頬がますます赤みを帯びてくる。恥ずかしさと悔しさの合わせ混じった高揚の証だ。
これはもう誰が見ても明らかである。刹那の体が、レナにアプローチをかけることを拒否しているのだ。それに抗おうとしても、できない。まるで自分の体が自分のものでないかのように、動かない。
固まった体はさらに硬くなり、少しながらでも働いていた思考もそれを拒否していく。
どれだけ必死になっても、どれだけ抗っても、目の前の女には絶対に届かない。
それが何とも情けなく、歯痒く、悔しかった。
{刹那……}
激しく後悔し、自身の本番弱さに落胆した刹那を見たレナは、心の中でその名を呟いた。
刹那に声をかけた時からずっと固まり、何もできずにいたレナ。その胸の内は刹那と同じく、いかにして気持ちを伝えればいいかを模索している状態だった。言葉にしようと思っても言葉にならず、行動で示そうと思っても体が動かず、頼みの綱の思考すらも徐々に麻痺してくる。このまま想いを伝えることはできないのはごめんだと思っていたのも、まるきり刹那と同じだった。
それが先ほどまでのレナの状態であったのであるが、今は違う。まるっきり正反対になったと言ってもいい。真剣さを帯びていた瞳はいつしか情愛に満ちた優しげなものへと変わっていき、極度の緊張のせいで強張っていた全身もいつしか弛緩し始める。
レナは、刹那が今何を想って何をしようとしているのかに気がついたのだ。真っ赤にしながらも決して目を逸らさず、向かってくる意思はあるのに踏み出せないというその様を見ればわかる。先ほどまで自分が同じような状態だったから尚更にだ。
同じ気持ちだったのだ。
刹那も、自身のことを好いてくれていた。
想いを告げようとしていた。
それがわかった途端に、レナは刹那のことが愛おしくてたまらなくなる。目の前の1人の男があまりにも可愛くて、好きで、どうしようもなくなる。やっぱり自分は刹那のことが好きなんだと、改めてレナは再確認させられた。
もう迷うことなんてない。
戸惑いなんていらない。
そっと、レナは刹那に近付く。足の震えはもう止まっている。その歩みを妨げる物は何もない。
近づいてくるレナを見て、刹那の緊張は最高潮に達し、顔は倒れてしまうのではないのだろうかと思うほどに赤く染まっている。その慌てぶりすらも、レナは愛おしかった。
間近。
本当に息がかかるような距離まで、レナは刹那に詰め寄った。
あとは、言葉にすればいいだけ。
「刹那」
「え、あ……な、なんだ?」
「私ね、刹那に伝えたいことがあるの」