第118話 恋慕編11
先ほどまで、ほんの先ほどまで刹那が覚えていた空腹は、もうほとんどなかった。体は正直とよく言うものであるが、この場合は体よりも思考のほうが刹那を支配しているらしかった。隣にいる女のことを、ただ悶々と考えているだけ。目の前の食事など目に入りもしない。
そしてレナも刹那と同じ、いや、それ以上に頭の中が想い人のことで一杯だった。
隣に、刹那がいる。
自身の好いている男が、いる。
この状況で気にせず食事をするほど、レナは神経が図太くはない。刹那と同様、空腹などどこかへと行ってしまい、頭には刹那のことだけしかない。表情は赤くなっており、レナもそのことを自覚しているのか、恥ずかしがって刹那のほうを見ようとはしない。こんな顔、刹那には絶対見られたくはなかった。
お互いに顔も合わせず、そして目の前の食事に手をつけようとしない。
そのまま刻々と時間が過ぎていくものと思いきや、ついに状況が動いた。
「ん~? おいおい、お前ら食わねぇのかよ?」
リスのように大量の料理を頬張った後、豪快に呑みこんだ雷牙が2人に声をかける。食欲が旺盛極まりない雷牙にしてみれば、2人がいつまで経っても食事に手をつけないことが不思議なのに加え、更に乗せられたそれぞれの魚を狙ってのことだった。
まったくもって雷牙らしい考えであるが、欲望に任せたこの発言がこの場の流れを変えることになる。
「食わねぇのか? そんなら、もらっちまおっかな~と」
何も言わず、ぼーっとしている刹那の目の前にあるこんがりと焼けた魚に、雷牙の箸が伸びる。
「い、いやいや! 食べる! 食べるから!」
「まぁまぁ遠慮すんなって。今から俺様がおいしくいただいてやるって」
「遠慮じゃないから! 俺の楽しみを取らないでくれって!」
「っち、まぁそんなら仕方ねぇか」
何だか納得できていないような表情をしていたが、雷牙は大人しく引き下がった。もともと人の分だったというのもあるが、何よりも雷牙の隣の席に座っている風花の逆鱗に触れてしまうかと思うと、どうしてもそこから踏み込めなかったのである。
とは言え、なかなか手のつかない魚を諦めきれないのか、どこか恨めしそうな目で刹那の皿を見つめていた。
熱い視線。食事にどん欲であるその視線。
自身に向けられている、何とも言い難いそれを受けながら、刹那はようやく食事へと箸を伸ばした。先ほどから食欲よりも気になることで頭が一杯だったが、さすがにそろそろ体の欲求も激しくなり、きゅーきゅーと刹那の腹の虫が鳴いていた。
「あ、あの……、刹那」
箸が魚を突こうとしたその時に、ふとレナが口を開いた。
声が耳に入った瞬間、刹那の体は電撃が走ったかのようにびくりと撥ねた。同時に全身が硬直し、一度は落ちついた表情の赤みも戻ってくる。レナがただ名を呼んだだけなのに、こうも簡単に影響され、食事も満足にできないのだからまったく難儀なものである。
「ど、どしたんだよ」
呂律が何だか怪しい口調で、刹那はレナに視線を合わせることなくそう尋ねる。レナのほうもまた刹那から顔をそむけつつ、もじもじと体をよじらせている。表情も刹那に負けず劣らず赤く染まっており、涙目にさえなっている。ただ声をかけるという単純な行為だけでも、レナはずいぶん勇気を振り絞ったのが一目でわかる。
刹那の言葉に応えようと、レナは再び口を開こうとするのだが、なかなか言葉が出てこない。これから言うことは、たった今刹那に声をかけたことよりも勇気がいるのだ。なかなか言い出せるものではない。
高鳴っている心臓を落ちつけるために、レナは何度か呼吸を繰り返す。幸いなことに、言葉の催促を刹那がしてこないのに加え、メンバーの全員がこの光景に注目していない。落ちつく時間はまだ十分ある。
ほんの20秒ほど。その短い、しかし実に濃密に感じられた時間でレナは覚悟を決め、おもむろに口を開いた。
「その……、今雷牙に言ったじゃない。楽しみを取らないでくれって」
「あ、あぁ。言った。言ったけど……?」
「えっと……、それって、その……どういう意味かなって、思って」
消え入りそうな声で、レナはそう言った。
料理を作った側としては、食べてもらった際の感想をぜひ聞きたいもの。それが想い人のものならばなおさらだ。ただレナには、この料理を作ったのがレナであるということを踏まえて先ほどの発言を刹那がしたのかわからない。
要するにレナは、自身の作った料理が楽しみなのか、それとも食事が楽しみなのかを刹那に聞きたいわけである。単刀直入に聞きたくとも、なかなか気恥ずかしくて回りくどい聞き方をするのが、見て見ぬふりをしているメンバーにしてみれば可愛らしくて仕方がない。
レナにそう尋ねられ、刹那は特に躊躇することなくその言葉に応えた。
「言葉のままだよ。その……レナの作るご飯おいしいし、レパートリー広いし、家庭的な味って言うか、なんて言えばいいか……。と、とにかく楽しみなんだよ、いつもさ」
そう答える刹那の視線は、相変わらずレナに向けられてはいなかった。
だから、その言葉を聞いたレナの表情が、とても嬉しそうだったことに気がつかない。
「……私の料理、楽しみ?」
「そりゃ……もちろん」
「本当に?」
「嘘は言わないよ」
「……よかった」
本当に。
本当にほっとしたようなため息をつき、レナは改めて表情を綻ばせた。
それは見ている万人が笑みを浮かべそうなほど幸せな表情で、レナの歳相応の実に可愛らしいものであり、その様子を見ていたメンバーも思わず見とれてしまうほどだった。
まるで刹那への想いが、そっくりそのまま表れているような。
これが恋する女の顔だと誰もが納得できる、そんな表情。
ただ惜しむべきは、それを刹那が見ていないことだ。
それさえ見ていれば、間違いなく刹那はレナに惚れ直したことだろう。
「そ、そういうことだからさ」
ばつが悪くなったのか、刹那はそれだけ言って自分の食事を始めた。今度こそ箸は止まることはなく、皿の上に乗っていた魚はほぐされ、刹那の口へ運ばれていく。その一連の流れを、レナはただボーっと見ていた。背けていた顔は、いつの間にか刹那へと釘づけとなっていて、自身の食事の時間さえも惜しまず、自身の惚れた男の横顔をただ見つめる。
そんな中、空気の読めない男が1人、手のつけられていないレナの食事に注目する。
「お、レナ。何だ何だ食欲がねぇのか。仕方ねぇ。そんなら俺様がおいしく―――」
そう言って身を乗り出してきた雷牙は、学習能力というものがないらしい。
その横っ面目掛けて、隣に座っていた風花の肘が飛んでくる。
何と言うか、それはもう目にも止まらぬ速さと鋭さで。
「ん? 何? 何を言いかけたの? ん?」
放たれた肘がめり込んだこめかみを押さえている雷牙に、風花がにぃっこりと笑顔のままそう言う。一番最初に顎を狙ったときよりも、その表情は恐ろしく見える。なぜこの女は笑顔のままこうも強烈な攻撃ができるのだろうと、雷牙は何度も味わってきた風花へとの畏怖を覚える。
「な、何でもないです」
それだけ言うのが精一杯だった。
というより、それ以外のことを口にするという選択肢がなかった。
「? どうしたの雷牙。何か言ったみたいだけど」
今の出来事を見ていなかったせいで、雷牙の言ったことを聞き取れなかったレナが、そう尋ねる。
「い、いや何でもねぇ。気にすんな」
それならいいんだけど、と言い、レナは再び刹那の横顔を見始めた。
結局、レナはそれからしばらく刹那の顔から目を逸らさなかった。
ようやく食事に手をつけ始めた頃には、せっかくの料理が冷めていたというのは言うまでもない。