第117話 恋慕編10
その後、3人は皆の待つ家へと帰還した。家の近くまで近づくと、何やら食欲のそそられる良い匂いが漂ってき、3人の空っぽの胃を刺激する。匂いから察するに、今回の食事は魚をメインにしたものらしい。独特の香りと香ばしさが、家に近付くにつれ徐々に強くなってくる。
食事が待ち遠しいと思う反面、刹那は家へと向かいたくないという気持ちが混じっていた。家にはレナがいる。先ほどのことからして、きっとレナを見ただけで心臓が跳ねあがり、そして赤面してしまうことは、実に容易に予想がつく。そんな無様な姿をレナに見られてしまうことは、刹那にとってあまり好ましいことではない。
とはいえ、レナの作った料理を食べることができないというのもつらいし、何よりレナの顔を見られないのも嫌である。会いたいのに、会いたくない。姿を見たいが、見たくない。一緒に居たいが、居たくない。真逆の感情から板挟みされている刹那は、もう押しつぶされてしまいそうだった。どうすればいいか、まったくわからない。教えてもらえるものなら、誰かにどうすればいいかを教えてもらいたかった。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか家の前まで辿りつく。食欲をそそる匂いも強くなると同時に、心臓の跳ねる回数も多くなり、音も大きくなる。ドアを開ければ、きっとみんながテーブルに座って、刹那たちがやってくるのを今か今かと待っていることだろう。その中には、もちろんレナもいる。
ドアに手をかけるが、そのほんの少しの不安から、刹那はそのノブを回せずにいた。回そう回そうと自身の中で急かすのだが、どうしてか手が動いてくれない。回してくれない。
「おいおい、早く開けてくれよ。どうしたんだ?」
「い、いや、その……、何でもないんだけど、何でもあるっていうか、何と言うか……」
訝しむレオに、言い訳にもならない言い訳をする刹那。
なぜか開かないなどというわけのわからないいい分など、言えるはずもない。
「もーっ! じれったいなぁっ! ほら、どいたどいた! あたしが開けるからさ!」
「え? うわ!」
いつまでも開けようとしない刹那を押しのけ、風蘭が刹那の代わりにドアノブに手を伸ばす。
まだ心の準備ができていない刹那であるが、そんなことお構いなしにドアは開けられてしまった。
「ただいま! 連れてきたよん!」
開口一番、風蘭はそう言ってさっさと家の中へと入ってき、それに次いでレオも入っていく。
刹那はというと、未だに中へ入ることを躊躇していた。風蘭、レオと一緒に入ってしまえば楽だったのだが、一歩でも遅れてしまってはこの通り、玄関先で立ち往生してしまうことになってしまう。
家の中へと踏み出そうとしては、その場で踏みとどまろうとする。傍から見れば不審極まりない行為であるが、当の本人である刹那は至って真面目なつもりである。入りたくとも入れないのだ。
「なにやってるんだ刹那。とっとと来いよ」
いつまでも入ってこない刹那を疑問に思ったのか、レオは首を傾げながら戻ってくる。
「わ、わかってるんだけどさ……」
「? ほら、行くぞ」
何かを口走ろうとする刹那の腕を捕まえ、レオは引きずるような形でそのまま家の中へと入っていく。もちろん引きずられたからと言って、刹那の心の準備ができるというわけではないのだから、刹那は内心レオに対して抗議したい気持ちと、掴まれているレオの手を振り払いたい気持ちで一杯になった。……のはつかの間。ほんの一瞬だった。次の瞬間には、この先にレナがいる、自身をこんなに狂わせている人物がいるのだという考えが、刹那の頭の中を一杯にした。つい一瞬前の気持ちなど、もうどこかへと消え去っていた。あるのはレナの事。ただそれだけだった。
「おかえり~。もう食べるだけだよ~。早く席について~。もう私、おなか減っちゃって減っちゃって~」
家に入るなり、風蘭がそう言う。
いつものようににこにこと笑っている。それなのに、刹那にはちょっとした違和感があった。うまくは言えないが、何か違う。笑顔の裏に、何かが隠されている。その何かはわからないのだが、強いているのなら、風蘭が先ほど見せた笑みに隠れていたものと似ているような気がした。刹那をからかうがため、顔を近づけてぼそっとレナのことを口走ったあの時のものだ。
何やら嫌な予感が、刹那に走った。
先ほどの風蘭のように、風花もまた、レナのことを刹那に口走ってくるかもしれない。これは何の確証もないただの予想で、風蘭と同様、風花も刹那のレナに対する気持ちに気が付いていることなどあるわけがないはずなのだが、風花のその笑顔を見ていると不安になってくる。ここで万が一にでもレナの話を振られでもしたら、誤魔化すに誤魔化せない。問題の中心人物であるレナも含め、集まっている皆にもろくでもない姿を見られてしまう。それだけは絶対にあってはならない。生き恥にもほどがある。
短い時間の中でとてつもない思慮を巡らせた刹那であったが、そんなことをしても状況は変わらない。ただ川の如く流れに身を任せるだけである。風花の言葉に対して、ああ悪かったよと歯切れ悪く答える。
「2人で何の話してたの~? 大事な話~?」
「まぁ、大事な話さ。あんまり気にするなよ」
「ん~、わかったよ~。気になるけどね~」
風花とレオがそんなやり取りをかわす。実際のところは、刹那とレオがどんな話をしていたのかを風花はわかっているのだが、誤魔化すために念をいれたらしい。それを聞いた刹那は、やはりレオとの会話は聞かれてないんだなと安心したのだが、全ては風花の手のひらの上で踊っているに過ぎない。刹那とレナを除くメンバー全員(雷牙も怪しいが)が2人の内情を知っていることなど知る由もないのだ。
ともあれ、このまま立ちっぱなしでいるというのも、刹那にしてみれば何やら居心地があまりよくない。さっさと自分の席に着こうとして―――そこでようやく『そのこと』を思い出した。
「………………」
「………………」
ふと目と目が合う2人。
一瞬だけ呆け、先ほどの痴態を思い出してか、すぐに赤くなって目を逸らす。
御察しの通り。
刹那の隣の席の人物は、レナなのである。
なぜ今の今までそのことを忘れていたのだろうという野暮な疑問は、すぐに刹那の頭から消え失せた。そんなこと決まっている。思い出す余裕さえも、刹那にはなかっただけの話だ。
いつもは適当に挨拶をして、すぐに席へ腰かけるのだが、今回ばかりはそう簡単にはいかない。言葉なんてうまく喉から出てこないし、席に座ろうにも先ほどと同じように足が動いてくれない。機械で言うなら故障だ。うんともすんとも言わないというこの状況下で、刹那はただ顔を赤らめていることしかできなかった。
「また固まって……。ほら、さっさと座れ。いつまで経っても飯が食えないじゃないか」
レオに肩を掴まれ、刹那はそのまま椅子に座らせられる。すとんと音を立てて座ったすぐ横には、頬を真っ赤に染めたレナ。刹那の心臓は、破裂するのではないかと思ってしまうくらいに高鳴っていた。それでも、まったく嫌な、不快な感じがしないというのが、不思議でしょうがない。思考も動いていないのに、この感覚がどことなく心地よくさえ、刹那は思い始めていた。
「やぁっと揃ったか。腹減ったぁ!」
ずいぶん待たされたのか、雷牙は本当に待ちくたびれたと言わんばかりに喜ぶ。目の前に食事があるのに、全員が揃うまで食べることができないというお預けをくらっていたのだ。食欲旺盛である雷牙ならば、こうなってしまうのも仕方がない。
「それじゃみんな揃ったし、食べましょうか! いただきま~す!」
風蘭の号令の後に合掌。
そして食事の時間が始まった。
「………………」
「………………」
お互いの挙動をちら見しながら、刹那とレナも食事に手をつけ始める。