第116話 恋慕編9
レオとの会話のおかげで、刹那は自身の感情に気がついたわけなのであるが、途端に何だか妙に気恥ずかしくなり、レオと林から出てくるときも顔をずっと赤くしたままだった。何と言っても、初めて恋という感情に気がついたのだ。嬉しいことは嬉しいのだが、その半面レナのことをちょっと思い浮かべただけでどうしようもなく心臓が高鳴ってしまう。知らなければ不思議だなと気にも留めなかったはずなのに、一度気がついてしまえばもう止まらなかった。
初めて味わった恋というものだが、これまた苦しいものだった。レナのことを考えれば胸が切なくなってしまうというのに、どうしてもレナのことを想わずにはいられない。締め付けられるような感覚さえ覚えるというのに、決して不快感ではないその気持ちは、まさしく恋。刹那は、そのことを実感していた。
「なんだ、さっきから黙りこくって。もう少し嬉しそうな顔でもしたらいいじゃないか、初恋なんだろ?」
何やら笑みを浮かべながら、レオは刹那にそう声をかける。どうしてそんなにレオが嬉しそうなのかはわからないが、刹那には両手を上げて無邪気に喜ぶような真似ごとはできなかった。確かに嬉しくないと言えば嘘になるのだが、その半面、この胸が締め付けられるような感覚を素直に喜ぼうという気にもなれない。苦しいのだ。苦しいけれど、嬉しい。そんな、何とも言えない感情を、持て余していると言ってもいい。初めて味わう恋の味は、刹那には少し酸っぱすぎるようだった。
「そうだけど、よくわからない。でも、心臓がかなり早くなってるし、さっきからレナの顔が頭から離れない」
「そうか。まぁ、ちょっと時間を置いて気持ちを落ち着けた方がいいんじゃないのか? 初めてのことでどうしたらいいかわからんだろう。ちょうど昼時だし、飯でも食ってのんびり構えてろよ。今日の当番はレナだしな」
初めての体験は、良くも悪くも精神的に疲労するものである。刹那は今回の『恋』という感情によってずいぶん忙しなく心が揺れ動いたようで、何となく自身もレオの言う通りに落ちついたほうがいいような気がしてきた。
心なしか、腹も空腹を訴えている。この精神で食べ物が喉を通るかほんの少しばかり心配だが、実際に目の前に食事が置かれればどんなことがあったとしても食べてしまうのだろうなと、刹那は苦笑した。それがレナの手料理ならばなおさらだ。早く口いっぱいに、その優しい味付けの料理を頬張りたいと、空腹が刹那にそう言っていた。
「おーい2人ともーっ!!」
林から出るなり、大声が聞こえてくる。
声の主は風蘭だった。手を振りながらこちらへと近づいてくる。レナとの用事が終わったからなのか、その表情は実ににこやかである。
「やぁやぁ、そっちの用事はもう終わったのかなぁ?」
「お、終わったけど……」
「ほうほう、終わったのね~。……ってことは?」
視線を刹那からレオへと移し、短く尋ねる。問いかけの内容は知れたこと、刹那は自身の気持ちに気がついたのかどうかだ。刹那がいるから声にこそ出せないが、話がわかっているレオならばそれで伝わるはず。
予想通り、風蘭の問いかけの意図を読み取ったのか、レオは微笑みながら短く頷いた。それが答えだった。刹那は自身の気持ちに気がついたのだ。レオも笑っているということは、レナへの想いが本物だったという何よりの証拠だった。
「ほ~、な~るほどねぇ~。うんうん、それならいいんだけどね~」
やけに嬉しそうに笑い、風蘭は刹那を見つめる。風蘭が中心となっているこの計画を知らない刹那にしてみれば、今行われたやり取りに含まれていた内情を知ることはできない。2人で何を笑っているのかという感じだ。もしかしたら顔に何かついているのかもしれないと、まったく見当違いな心配から刹那は腕で頬をぬぐった。
「何やってんだお前?」
レオが不思議そうに刹那に尋ねる。
別に自身の顔には何もついていないということを、刹那は今更ながら理解した。
というよりも、完全な勘違いだった。
「い、いや別に何でもないよ。それよりさ、どうしたんだよ風蘭。何か用があるのか?」
話を逸らすようにして、刹那が風蘭に話を振る。さっきからやけににやついていることはさておき、風蘭がこんな林の中にまで来るなんてことは珍しい。となれば、林ではなく刹那たちに用があると考えるのが普通である。またレオと同じような内容だろうかと、刹那は少しだけ身構えた。
「あ~、用っちゃ用かな。刹那だけじゃなくてレオもなんだけど」
「? どういうこと」
「ご飯ってことよ、出来たから呼びに来たってわけ。話は終わったんでしょ? みんなもう揃ってるよ」
風蘭がそこまで言って、刹那は納得した。そろそろ食事の時間だと、先ほどレオと話したばかりだ。となれば、家までいけばすぐに食べることができるわけだ。空腹な刹那にしてみればこれ以上ない朗報である。
食事が楽しみで表情が緩む刹那。それを見た風蘭は何を思ったのかにやっと笑い、さささっと刹那の横へと接近し、耳元でぼそっと呟いた。
「……そんなにレナが作った料理が楽しみなの~? 顔、にやけてますよ~」
「は!? え、は、はぁ!?」
突然の風蘭の言葉に刹那は顔を真っ赤にさせ、激しく狼狽する。先ほどのレオとの会話を、風蘭は聞いていない。つまりは、刹那がレナのことを想っているということを、風蘭は知らないはずなのだ。それなのに、なぜ風蘭はレオと同じようにして笑い、レナのことについてからかってくるのだろうか?
もしかしたら知っているのではないかと、刹那はますます慌てる。こんな恥ずかしいこと、レオの他に風蘭まで知られたとなれば、もう平常通りに誰かと接することなどできっこなどない。いつ他の面子にばらされるか、気が気でないからだ。
実際は風蘭が先ほどの会話を聞いていたなどということはないのであるが、刹那がレナのことを想っていることは、レオとのやり取りで知り得たのだから、刹那の心配はあながち見当はずれというわけでもない。
顔を赤くし、何とかうまく誤魔化そうとしている刹那を見て、風蘭がけらけらと笑い出す。
「そんなに慌てなくってもいいじゃないの! 冗談だってば冗談!」
「じょ、冗談……? な、なんだよそりゃ……」
「いやいや、あんまりにも嬉しそうにしてたから、ちょっとだけからかいたくなってね~。そんなに怒らないでってば!」
「お、怒ってはないけどさ。……はぁ~」
慌てて損をしたと、刹那は肩を落とした。
本当ならば風蘭だけではなく、レナを除いた全員がこのことに感づいているのであるが、事情を知らない刹那は本当に安堵しているようだった。風蘭も、それ以上突いてボロを出してしまっては、今後の計画に支障が出るかもしれないと、それ以上からかうことを止めた。楽しみはまだまだこれから。それをここでご破算にしてしまっては勿体ない。
「それじゃ行きましょ。みんな待ちくたびれてると思うから、早くね!」
そう言って、風蘭は皆の待つ家へと走った。
どことなく嬉しそうにしているその後ろ姿は、おそらく気のせいではない。
「レオ、行こう」
「ああ」
短いやり取りをかわし、2人は風蘭と同じように家へと一直線に駆けて行った。