一緒にトイレに入って芽生える恋はある?
芦川 華 side
今日はなんか、朝からイヤな予感がしてた。
でも、それは当たった。完璧に。
というのも、私は体質的にけっこう胃腸が弱い。
季節の変わり目とか、ちょっとしたストレスとか、パンひとつで腹が反乱を起こす。
そしてそれは、昼休み、購買で買った焼きそばパンを半分食べたあたりで始まった。
お腹がギュルって鳴った。
いや、ギュルのレベルじゃない。ギュルルルルゥって、倍速で再生された低音ホラーみたいなやつ。
その瞬間、私は直感した。
──終わった、と。
教室に友達はいたけど、「トイレ行ってくる」なんて言える空気じゃない。
だって、あの子たち、すぐ言うんだもん。「一緒に行く~!」って。
トイレは連れション派の聖域。だがしかし、こちとらウンの字だ。誰とも連れたくない。ソロ一択だ。
しかも、女子トイレってなんであんな混んでるわけ?
三階の学年トイレなんて昼休みはもはや行列。個室三つでどうしろってんだ。
順番待ちの列で自分の番が来たころには、命が尽きてる可能性すらある。
というわけで私は、誰にも何も言わず、さりげなく教室を抜け出した。
目指すは――校舎の一番端、倉庫の隣にある謎の男女兼用トイレ。
誰も使わないから穴場。去年、偶然見つけて以来、非常用にキープしている秘密基地だ。
廊下を早歩きしながら、汗がにじむ。
まずい。第二波がきてる。胃腸の内戦状態。
リュックの中に整腸剤が入ってるけど、今さら手遅れ感がすごい。
「あと少し……もう少し……!」
お腹を押さえて前屈みになりながら、廊下を小走りする。制服のスカートの上から、無意識にお腹をさすっていた。さすってどうにかなるなら神にも祈るけど、もう今は本能だけが私を動かしている。
角を曲がってトイレが見えた、そのとき。
向こう側から誰かが歩いてきた。
距離、5メートル。目が合った。
おい待て、なんで今!? ここ、誰も来ないはずじゃなかったのに!?
しかも男子。地味で真面目そうなタイプ。
顔はそこそこ整ってる……って今そんなのどうでもいい!
お互い、ピタッと足を止めた。
沈黙。気まずい空気。……そして、目が合う。
そのとき、気づいた。
彼も制服の上から、さりげなく腹に手を当てていた。
眉間にうっすらしわを寄せて、どこか苦しそうな顔。
……あっ。わかる。そっちも、今“戦ってる”んだ。
私はお腹を押さえたまま、トイレのドアをちらっと見る。
便器は3つ。だけど……今日は、完全にアウトの日。
“音”のリスクMAX。左右に誰かいたら、もう死ねる。
彼はふっと視線を下げて、小さな声で言った。
「……どうぞ、先に」
えっ?
「え、あ、いや……」
一瞬うろたえた。でも、お腹の痛みが「今は迷ってる場合じゃない」と背中を押してくる。
「俺……まだあとでいいんで」
とはいえ、こっちだけが助かるのも、なんか後味が悪い。
彼だって、明らかにお腹を押さえてた。私と同類──“腹弱連盟”の民だ。
「……じゃあ、私、端っこ使うから……もし急だったら、他、使っていいから」
控えめだけど、ちゃんと“譲られっぱなしじゃない”ように。
一応の“選択肢”を残してみせた。
彼はほんの一瞬、目を見開いたあと、静かにうなずいた。
「……ありがとう」
「うん……」
「まあ、でも、ぎりぎりまで外で待ってるんで。終わったら、入るから」
その言い方が、変に重くもなく、軽すぎもしなくて、妙に自然だった。
だから私も、「……ありがと」とだけ言って、さっと中に入った。
(ああ……ありがとう、神……そして地味メガネ男子……)
もうね、感謝しかない。
彼が絶妙なタイミングで現れて、しかも譲ってくれたおかげで助かった。
あと5秒遅かったら、私の人生、そこで終わってた。
「トイレ前で伝説作った女」って、ね。
便座に腰かけて、私は深呼吸した。
……ふう。間に合った。ほんとにギリギリ。
でも、気は抜けない。
外には、あの男子が待ってる。
変な気を遣わせたまま、のんびりこもるのも違う気がして……。
(よし……さっさと終わらせよ)
トイレでこんな謎の使命感を抱く日が来るとは思わなかったけど、
なんかちょっとだけ――笑えてきた。
水を流して手を洗い、ドアを開けると――
彼は、ちゃんと少し離れた壁際で待っていた。
スマホをいじってるでもなく、ただ静かに、でも不自然じゃない立ち姿で。
私が出てきたのに気づいて、彼はちらっとこっちを見た。
目が合った。
……気まずい。でも、それ以上でも以下でもない感じの、絶妙な目線。
「……ありがと、待たせた」
自然な調子でそう言うと、彼は小さくうなずいた。
「ううん、じゃあ」
そう言ってその男子はすぐにトイレに入った。
それだけ。
でも、なんか――それでよかった。
私はトイレから離れながら、
(……変な子)
と思ったけど、それと同時に、
(……悪くない)
とも思っていた。
そのうちまた、どこかで会いそうな気がした。
* * *
渡辺 圭 side
俺の腹は、たぶん戦場帰りだ。
いや、正確には“現在進行形で内戦中”。
今朝からずっと、下腹部で誰かがドンドコ祭を開催している。
過敏性腸症候群――略してIBS。
響きはちょっとカッコいいけど、実態は地獄。
テスト中、静まり返った教室で鳴るお腹の音ほど、人生の厄介さを感じる瞬間はない。
で、そんな俺が辿り着いた答えが、「人目のないトイレを確保せよ」だった。
校舎の端のあのトイレ。
男女兼用、誰も来ない、空いてる率95%、そして便器が3つ。
地味に神設備だ。
そりゃあね、本音を言えば保健室にでも引きこもりたい。
でもそれをやったら「圭って、最近いつも体調悪くね?」とか言われるのがオチ。
俺は地味に目立たず生きていきたいんだ。お願いだから静かに腹だけ壊させてくれ。
そんなわけで、今日も昼休みに教室を出て、あのトイレへ向かった。
──が。
角を曲がった瞬間、目の前から誰かが歩いてくるのが見えた。
その瞬間、俺の腹がギュルルルと悲鳴を上げる。
やべえ。今それどころじゃないんだって。頼むから誰でもいいからどいてくれ。俺の命が便器一個分にかかってる。
「……え」
声が漏れたのは、腹のせいだけじゃない。
その「誰か」は、先週ここで鉢合わせたあの女子だった。
彼女も俺に気づいて、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
お互い、無言でフリーズ。
「あ、またか」という気まずさと、「いると思った」という妙な納得が同時に顔に出てた。
その女子はスラッとしてて、顔立ちが整ってる。
ぱっと見クール系で、ちょっと近寄りがたい雰囲気もある。
でも、こうして何度か出会ってると、目元の鋭さよりも、あっさりした仕草の方が印象に残る。
今日も制服の上から腹を押さえていて、その手つきが妙にリアルだった。
俺はというと、もう顔に余裕なんて残ってない。
前回は少し余裕があったが、今回はもう無理だ。
眉間にしわを寄せて、無言で腹をさすりながら立ち尽くす。
動いたら終わる。立ち止まっても終わる。八方塞がり。
そんな俺の状態を見て、彼女はフッと視線を逸らし、
ため息をひとつついたあと、トイレの前に一歩出てきた。
そして、俺の顔をチラッと見て、気だるげに言う。
「……使っていいよ。私、待ってるから」
えっ。
一瞬、聞き間違いかと思った。
でも彼女は、別に特別な顔もせず、あくまで事務的にそう言っただけという雰囲気だった。
そのまま、トイレの横の壁に背中をあずけて、スマホを取り出すわけでもなく、腕を組んで立ち始めた。
なんか……すごく、自然だった。
先週、俺が譲ったからか? そのお返し?
いや、たぶんそれだけじゃなくて、ただの“気遣い”なんだと思う。
そっち系のやつ同士って、言葉にしなくても通じる瞬間がある。
「……ありがとう。助かる」
って、俺は思わず頭を下げた。
「じゃあ、手前使うから」
なんかトイレ前で礼を言うとか意味わからんけど、それくらいありがたかった。
自然とお辞儀までしてしまった。
トイレ前でこんな丁寧になるとは思わなかったけど、ありがたすぎて頭が下がる。
彼女は何も言わず、廊下の壁に寄りかかって待っていてくれた。
その姿を見ながら俺はふと思った。
──あれ? 腹が弱いのって俺だけじゃないのか。もしかして……
ちょっと気まずいけど、ちょっとホッとした。
不思議と、「次に会っても、まあ、別にいいか」って気持ちにもなった。
もちろん、お腹が無事な日に限るけど。
* * *
芦川 華 side
(……あ、これ……やばいやつ来た)
お腹がキューっと収縮して、すぐに緩んで、また絞られる。
まるで小さい爆弾が何個も連続で爆発してるみたいな、そんな感覚。
私は授業中のノートを取るふりをしながら、机の下で腹をさすった。
前の席の子がシャーペンをカチカチしてる音が、やけに腹に響く。
はぁ……無理だ。もう限界。
四月ならまだよかった。
みんな新学期の雰囲気に慣れてなくて、授業中に席を立つ人もちらほらいた。
「トイレ行ってきます」も、まだ無罪だった。空気が緩い時期だった。
でも、もう五月。
クラスの席替えも終わって、名前と顔も一致してきた頃。
教師の声の調子でノートを取るタイミングすら暗黙で決まってきてる。
このタイミングでトイレに行く、つまり“ルールから外れる動き”は、
それだけで一発アウト。「あー、はいはい、うんこね」って目で見られる。
……私、たぶん今日も、認定される。
入学時に学校には、保健の先生を通して事情を伝えてある。
「過敏性腸症候群の傾向があって、突然腹痛がくることがあるので、席を立ったときは無理に止めないでください」って。
だから先生は、止めたり理由を聞いたりはしない。
けど──クラスメイトは、知らない。いや、知ったとしても笑うんだろうな。「マジでそうだったんだ」って。
(……でも、今行かなきゃ本気で死ぬ)
本気でそう思った。汗がにじんでくるし、集中なんかとっくにできてない。
私は意を決して手を挙げた。
「……トイレ、行ってきます」
先生は、ノートを見ながら静かに「はい」とだけ言った。
何も聞かれない。それが逆に、ちょっとだけありがたかった。
けど──その直後。
背後から、気配が動いた。
椅子がきしむ音、ノートをめくる手が一瞬止まる音、そして視線。
後ろの席の数人が、チラッとこっちを見た。
私は見返さない。見たら負けな気がした。
あの“無言の会話”が、怖い。
(あっ、トイレ行った)
(……うんこだな)
心の中で全員にビンタをかましたい気分だったが、
腹痛がそれどころじゃなくて、私はそそくさと廊下に出た。
あの雰囲気の教室に戻りたくないなぁ。
そう願いながら足早に曲がり角を抜けると――
「……あ」
廊下に出た瞬間、同じ方向から足音が聞こえた。
誰かが歩いてくる。
そっちを見ると――まさかの、またあの男子。
「……あ」
「……あ」
お互い、言葉を探すように目を泳がせる。
廊下はしんと静まり返っていた。
授業中だから当然だけど、その静けさが、逆に気まずさを何倍にも増幅させる。
小さな足音や、衣擦れの音すらやけに響く気がして、息をするのも気を遣うくらいだった。
教室の近くにあるのは、学年ごとの普通のトイレ。男女別で、個室も少ない。
こうして授業中に抜けてくる生徒なんてほとんどいないから、鉢合わせる確率は低いはずだったのに――。
私は小さく息を吐いて、気まずさを振り払うように口を開いた。
「……あんたも、トイレ?」
「うん。ちょっと……限界」
「わかる。私も、もうダメ」
そう言いながら、私は制服の上から腹を押さえる。
彼も同じように、スラックスの上からお腹に手を当てていた。
足音が廊下に響くたびに、自分の緊張が伝わっている気がして恥ずかしくなる。
「……こういう時に限って、廊下、静かすぎるんだよね」
ぽつりと私が言うと、彼は「うん、わかる」と苦笑した。
その一言が、なぜかちょっと気を緩めてくれた。
ふたりで並んで歩いたのは、教室があるフロア端――男女別のトイレが並ぶ。
行き先は違っても、目的は同じ。
「……じゃ、私こっち」
「うん、俺はこっち」
軽く会釈して、私たちはそれぞれのドアを開けた。
“他人”なのに、ちょっとだけ心強い。
* * *
渡辺 圭 side
昼休み、なんとなく調子が悪い気がして、俺は保健室に向かった。
この体質だし小学校のころから保健室行くのは慣れている。
毎年保健室の先生とは仲良し。
教室のざわつきを背に、俺は廊下に出た。
昼休みだから誰も気にしちゃいないし、保健室に向かう足取りもそれっぽくしておけばOKだ。
階段を下りて1階へ。
トイレ……じゃない。今日は保健室。大事なポイント。
保健室のドアを開けると、ひんやりした空気と、かすかに消毒液の匂いが鼻をくすぐる。
その匂いだけで、ちょっとだけ安心するから不思議だ。
中には保健の先生がいて、パソコンをカタカタ打っていた。
俺の顔を見るなり、手を止めて笑いかけてくる。
「あら、渡辺くん? どうしたの、顔色……ちょっと悪いわね」
「……ああ、なんか、ちょっと体調が……」
あいまいな言い方に先生は深く追及もせず、「はいはい」と軽く頷いてくれる。
「今ね、ベッドひとつ空いてるから使っていいわよ。もうひとり先に来てる子がいるから、静かにね」
「わかりました」
そう言われて奥を見ると、ベッドの一つにカーテンが閉まっていて、
その内側から、かすかに寝返りっぽい気配が伝わってきた。
俺は空いている隣のベッドに腰を下ろし、そっとカバンを置いた。
……そのときだった。
シーンと静まり返った保健室に、俺の胃腸が縮むような感じで小さく主張した。
やべ、って思った瞬間――
「……あんた、渡辺くん?」
カーテン越しに、少しかすれた声が聞こえた。
鼻にかかったようなぶっきらぼうな調子。
それに、なんというか……音に対する迷いのなさ。
一瞬で分かった。 声も、言い方も、雰囲気も。
カーテン越しでも、いや、音越しでも分かる――
トイレで会う、あの女子だ。
よく会う。ほんとによく会う。
場所は限定、校舎の端のあのトイレか、こういう“誰もが事情を察する系の場所”。
しかも、ただの“よく会う女子”じゃない。
顔立ちが整っていて、髪もいつもさらっとまとまってる。
ちょっと冷たそうに見えるけど、実は面倒見がよさそうな、そんなギャップ持ちタイプ。
つまり――きれいな子。俺なんかと同じ“腹弱属性”には、あまりにも場違いな。
なのに、再会率No.1。
俺の人生、たまに不思議なフラグ立てるな。
たとえば、こうして保健室で隣のベッドから美人の声がするシチュエーション。
ラブコメならここでカーテンが開いて、運命の出会い──とかなんだろうけど、
俺は今、腹を抱えて汗だくで寝ている。
いや、ほんとすみませんって感じだ。
「……うん。あ、よく会うね、最近」
正直に言った。
だって、バレてる。声も、気配も。なんなら腸のコンディションまで読まれてそうだし。
「わたし芦川。芦川 華」
フルネームきた。
芦川華。名前も見た目も華やか路線。
“渡辺圭”とはだいたい文字の線の本数が違う。
「おう、俺は渡辺圭 」
言いながら、カーテン越しに彼女が寝返りを打つ音が聞こえた。
そのあと、静かに、ぽつんと問いかけが落ちてきた。
「あんたも、お腹弱いの?」
ぐうの音も出ない。
いや、正確には「ぐう」と「ギュル」と「グルル」が今、俺の腹から出ている。
カーテン越しの自己紹介みたいになってるの、ほんとやめてほしい。
「……うん、まぁ……昔から、ね」
「それ、IBS?」
唐突な問い。しかもやたら発音がいい。
“アイビィエス”って、お前それ絶対言い慣れてるやつだろ。
いやまあ、俺もそうなんだけど。
……と、返事をする間もなく。
シャッ。
カーテンが、遠慮なく一気に横に引かれた。
「えっ!?」
反対側のベッドで起き上がった芦川華と、バッチリ目が合った。
制服の袖をまくって、こっちを見るその顔は、何度かトイレですれ違ったときよりも、ちゃんと整って見えた。
光の加減なのか、距離のせいなのか、それとも……ただ単にちゃんと見たのが初めてだからなのか。
理由なんてどうでもよくて、ただ素直に「きれいだ」と思った。
でもそれ以上に、目が真っすぐすぎて、こっちの腹事情とか全部見透かされてる気がする。
「で、どうなの?」
起き上がった芦川華が、片手を枕元に軽く添えてこちらを見る。
まるで“アンケートでも取ってます”みたいなテンションで、じっとこっちを見つめてきた。
「……うん、まあ。IBS、です」
「だよね。何回もトイレで会ったしわかる」
普通の人はこのアルファベット3文字を知らない。
ということは……
「そっちも……?」
「うん。IBSって書いて提出してあるし。先生にも言ってる」
「同じだ……」
言ってて、なんかもう笑えてきた。
まさか“同じクラスでもない女子”と、腹トラブルでこんな打ち解ける日が来るとは思ってなかった。
めっちゃわかり合ってる気がする。
あまりにあっさり言われて、ちょっと拍子抜けした。
でも、だからこそ、こっちも構えずにいられるというか……変に救われた。
なにこの共感。
保健室で、ベッドの隣同士で話してるのに、なんか安心する。
名前も、性格も、顔面レベルも、いろいろ違うのに、
“腹のやばさ”という一点だけで、ここまで話せることある?
人間ってすごいな。腸って偉大だな。
話してる内容は“腹”だけなのに、なんだこの落ち着き。
「もう、あれだよね」
カーテンの向こう――じゃなくて、もう開けたままのその先で、芦川さんがぽつりと言った。
声のトーンが、いつもよりほんの少しだけ柔らかい気がした。
「ここまで来たら、気まずいとかないよね」
「うん。なんかもう、同志……みたいな?」
俺は笑いながら返す。自虐っぽく言ったつもりだったけど、芦川さんはちょっと首をかしげて、
「……トイレ同志?」
と真顔で聞き返してきた。
「それは言い方悪すぎない?」
俺が思わず笑うと、芦川さんもククッと肩を揺らして笑った。
なんか、妙に楽しそうだ。
「でも実際さ、お互い腹弱いってだけで、話通じるの早くない?」
彼女はそう言って、ベッドの柵にひじをつく。
サバサバした喋り方のわりに、表情はどこか安心しているようだった。
「確かに。通じるよね、“その感じわかる”って瞬間」
俺がうなずくと、彼女は少し顔を上げて言った。
「朝のホームルーム中にギュルッて鳴ったときの絶望とかさ」
「うわ、それマジである。『今じゃない感』がすごいやつ」
「あと、教科書出そうとして立ち上がった瞬間、腹が『やめとけ』って反乱起こすとか」
「『あと5分でチャイム』の絶望もセットで来るよな……」
気づけば、ぽんぽんと言葉が続く。
笑えるような話じゃないはずなのに、今なら笑えた。
同じ目に遭ったことがあるからこそ、妙に細かい描写が刺さる。
そして、不思議と心の距離も、ぐっと近づいた気がした。
ふと芦川さんの笑い顔を見た。
普段はサバサバしてそうな子なのに、笑うとちょっとだけ雰囲気が変わる。
口元がやわらかくなって、目の端に小さくしわが寄る。
その顔が――なんか、ちょっとだけ可愛いと思ってしまった。
彼女は目を細めて、静かにうなずいた。
「だよね」
なんかちょっと嬉しかった。
こうして、俺たちは無言の共犯者から、ちょっとだけ“仲間”に進化した気がした。
* * *
芦川 華 side
昼休み。今日も、腹の調子は最悪だった。
あーもう、ほんと毎日毎日……なんでこんなに繊細なんだ、私の胃腸は。
なんか悪いことした? 昔、何かを呪ったっけ? 牛乳嫌いだったから? ねぇ?
教室を出て、自然な足取りで例のトイレに向かう。
もう最近は慣れすぎて、足が勝手に動くレベル。
そして、角を曲がったところで、また会った。
──圭くん。
彼も私を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
目の奥に「はいはい、また君ね」みたいな苦笑がにじんでる。
こっちはこっちで「ですよね」って顔してると思う。
もう何回目だっけ、このトイレ前ファーストコンタクト。
「……また会ったね」
「うん。もう、ここで定期的に出会う運命かも」
気づけば、トイレの前で自然と立ち話するようになっていた。
最初は気まずかった。っていうか、普通に地獄だった。
校舎の端っこで男女が鉢合わせるとか、変な噂でも立とうもんなら即アウト。
でも今は、もうそんなことどうでもよくなるくらい、腹の方が優先順位高い。
“この人も、あれ系なんだ”ってわかってる相手がいるだけで、救われるのだ。
学校において、自分の腸事情を理解してくれる人間は貴重だ。希少種だ。神。
私は制服の上から腹を押さえながら、ぼそっと言った。
「……あんた、今日も?」
「うん。今朝からリズムが変だった。そっちは?」
「まあね。昼のパンがトリガーだった気がする。あんこ入りメロンパンって何考えてんの?」
「俺、チキンカツだった。完敗」
「……揚げ物やばいの、わかってて食べたの? 勇者?」
くだらない会話。でも、それがなんか心地いい。
話してるうちに、さっきまでギュルギュルいってた腹の主張が、少しずつ静まっていく。
本当に気のせいかもしれないけど――
いや、たぶん気のせいだけど、「一人じゃない」ってだけで、だいぶマシになる。
私がお腹をさすりながらため息をついていると、
隣で立っていた圭くんが、なんとなくモジモジしてた。
けど、その前に私の方が口を開いた。
「……ねぇ。もうさ、いっそ一緒に入ってよくない?」
「は?」
めっちゃくちゃ驚いた顔をされた。いや、その反応はわかる。
「個室は別よ。当たり前じゃん」
「そ、そりゃそうだよね……うん……」
「同じタイミングで入って、隣で済ませるって意味」
「いやまあ……それでもなかなか……」
「お互い、もう待てる余裕ないでしょ?」
タイミング的にも、物理的にも、余裕はゼロだ。
私のお腹はすでにタイムリミットのカウントダウンに入ってるし、彼も顔に“切羽詰まってます”って書いてある。
「……あー、それはそうかも」
圭くんは苦笑しながら、ちょっとだけ姿勢を崩した。
うん、その動き、明らかに腹をかばってる。お仲間確定。
「でしょ。どうせここでしか会わないし、トイレの縁ってことで」
あえて堂々と言ってやった。こういうのは、逆に開き直ったほうが楽だ。
私が“トイレ ”とか言ってるのを聞いて、彼は一瞬固まったあと、口元を引きつらせた。
「トイレの縁……」
「え? なに。笑うとこ?」
「うん……いや、だって、普通“縁”って言葉、そういうとこに使わないでしょ」
ちょっと笑いを堪えながらそう言う彼に、私は肩をすくめてみせた。
「でも合ってるじゃん。トイレでしか会わないし、トイレでは気が合うし」
圭くんが吹き出した。
「……じゃあ、トイレ友ってことで」
「それ、あんたが言うんかい」
私たちは顔を見合わせて、声を出して笑った。
「……じゃ、行ってくる」
私は軽く息を吐いて、ドアに手をかけた。
すると横から、圭くんがぽそっと言った。
「うん、端っこ同士で使お。中央はお互いNGゾーンってことで」
「暗黙のルール化すな」
「……音とか、聞くなよ?」
「そっちこそ。ちゃんと流しながらやるんでしょ?」
「えっ、流しながら?」
「女子は基本、2度流し文化だよ。トイレ音は“水に紛れさせる”のが常識」
「マジか……知らんかった……文化の違い……」
「男子って、どうしてんの?」
「いや、もう……“察してくれ”の世界で生きてる」
「それ、地獄じゃん」
笑いがこみ上げて、思わず2人とも吹き出した。
他の人に聞かれたら完全に変な会話だけど、この場ではこれが正解なんだと思った。
「さんきゅ、トイレ友」
私がそう言うと、圭くんはちょっと困った顔で返した。
「……それ、そろそろやめない?」
「えー、じゃあ何? トイレ同盟?」
「それはそれで物々しいな」
私は笑いながら、再びドアノブに手をかけた。
ほんのちょっとだけ、心が軽かった。
変な関係だけど、なんか、悪くない。
そう思いながら、私は“端っこ”の個室に入った。
クラスも違うし、性別も違う。
でも――同じ体質の悩みがあるってだけで 、不思議と親近感があった。
そして、なんだか妙に、安心できた。
気づけば、もっと話してみたいって思ってた。
トイレじゃない場所で。