《No.5》このご時世でも天使になる奴がいた.前編
玄関前に倒れていた遭難者は、客間に運び込まれたソファから天井を見上げていた。
先程渡したコップは一口で空になり、ちょうどエルカが2杯目を持ってきたところだ。
「お水、まだ飲みますか?」
「どうも……いただくよ」
半身を支えるがやっとな腕はガクガクと震えている。
エルカは青年へ2杯目を手渡すと、向かいのソファに座った。
「ぷはっ。ああ、生きてたんだなぁ。俺」
疲弊して濁った瞳が視界を彷徨う。正面のエルカに目線が合うまでも時間がかかった。
光が戻るまで瞬きを繰り返し、青年はエルカを頭上の天輪から膝下までゆっくり目を通す。
「君が助けてくれたんだよね、ありがとう。えっと……」
「……エルカです」
名前を伺おうとしているのに気づき、答えるエルカ。
「ごめん、先に聞いちゃったね。俺はヤマト。実は俺、最近天使になったばっかでさ。情けないとこ見せちゃったな」
「情けなくなんてないですよ。ほんと、助かってよかったです」
ヤマトの頭上に浮かぶ銅色の天輪は、駆け出しの天使の証。
天使の天輪は、己が実力・実績を証明する勲章である。 銅色から銀色、そして金色へ。金輪まで至った天使は歴史に名を残す偉人ばかりだ。
そして、かつて金輪を頭上に構えていた天使といえばこの男。
「よう。目ェ覚めたかよ、銅輪天使」
視界外から仏頂面の長身男が出現し、ヤマトの表情に緊張が走る。彼の目線では、カマエルは美人局の用心棒にでも見えたことだろう。
「お、お陰様で。エルカちゃんに拾ってもらえなかったら俺、今頃干からびて骨になってたかもです」
「そうか。なら感謝しとくんだな、ここまでお前を運んだ奴にもな」
線グラフのように上下するカマエルの眉。いかなる鈍感でも理解できる、完璧な呆れ顔だ。
ヤマトも彼の心情を察知できたのか、慌てて言葉を付け加えた。
「もっ、もちろんあなたにも感謝してます!こんな綺麗な部屋まで連れてきてくださって。そういえば1杯目をくれた手は男っぽかったなぁ、なんて」
「カマエルさん、そんなに拗ねなくても……」
「誰が拗ねるか。ガキじゃあるまいし」
カマエルは「やってられるか」とジェスチャーを残し、所長机に置かれたコーヒーメーカーを弄り始める。
その間にヤマトは2杯目を完飲し、ソファから上体を起こした。伸びをするだけでパキパキと肩が鳴る。
「それにしても、ちょっと驚きです。こんなところで2人も天使に会えるなんて。今じゃみーんなヴァルハラに召集されてるのに、エルカちゃんのにも召集かけられなかった?」
「え、召集ですか?」
知らぬ間に天輪を授かったエルカだ、当然召集などされる訳もない。
天使の業務などカケラも知らない彼女へカマエルが助け舟を出そうとするが、それは杞憂に終わった。
エルカは避難所でのやり取りを思い出す。カマエルは自身をこう表現した。
「今はちょっと休業中……なんです。だから私、天使のお仕事はしてなくて」
「そっか。となるとあなたも?」
ヤマトの目線はカマエルへ。当人は変わらず仏頂面でコーヒーを啜っている。
我関せずのように見えるが、聞き耳はしっかり立てていた。
「指令なら来ねえよ。俺にはな」
「カマエルさん、天使じゃないんです。輪っかはあるんですけど」
「そうなんだ?」
金銀銅のパターンから外れた透明な輪っかは、天輪と呼ぶにはあまりにも空虚な浮遊物だ。錆びついた鉄、あるいは燃え尽きた灰のように虚な光を垂れ流す。
ふつう、勇退した天使は天輪を返還するものだ。わかりやすい頭上の特徴が誤魔化すことを許さない。
見るからに訳アリの透明色だが、ヤマトには心当たりがあった。その予感を確信に変えるべく、カマをかける。
「それにしてもカマエルさんかぁ。そういえば、ヴァルハラの有名人にも同名の人いましたよね。"伝説の天使"って、知ってます?」
「神に逆らった馬鹿のことだろ。他にいるならぜひ御尊顔を拝みたいところだ」
ヤマトは脳の処理が遅れ、口を中途半端に開いたまま固まってしまった。エルカへ確認をとろうと首だけ動かすが、彼女の目は理解不能といった感じである。
もう一度カマエルに焦点を合わせると、その顔は確かにヴァルハラでよく見た男だった。
ヤマトだけじゃない、二十代前半の天使を志した者にとって、誰もが憧れた人物がそこにいた。
「嘘ォ!ってか、やっぱり!あの、伝説の!?マジで!?」
数秒遅れた爆発は室内にこだました。アイドルに向けるかのような黄色い悲鳴は、カマエルの眉間に皺を刻む。
「え、えっ?カマエルさん、伝説って……?」
エルカはヤマトの興奮に置き去り状態だ。
「昔の話だ、なんのことはねえよ。今じゃこのザマなんだからな」
頭上を指差すカマエルは目を細め、カップの奥底へ目線を沈めている。
出会ってまだ2日目だが、この仕草は「聞いてほしくない」と言っているのだとエルカにはわかった。
「またまたぁ。俺にはわかってるんですよ、あの事件以降姿消してたのだって、何か作戦があるからなんでしょ?」
それでもなお止まらないヤマトへ、カマエルは口調を強めた。鋭い眼光が投げナイフのように突き飛ぶ。
「言っとくがそんな大層な考えは持ち合わせてねえ。伝説なんて称号には無相応なクズ野郎、世間の評価通りだろ」
「そりゃ、まぁ。今じゃみんなはそう言ってますけど……」
冷水を浴びたように怯むヤマト。視線も前方を無作為に泳いだあと、自身の膝へと落ちる。
それでも、俺はまだ。絞り出されたような呟きが向かいのエルカに届いていた。
剣呑な雰囲気になりかけたところ、カマエルは声色を戻して問いかけた。
「そんなことより、お前こそなんでこんなとこにいるんだ。ヴァルハラに召集くらってるハズなのはお前もだろ、銅輪天使さんよ」
「そういえばそうですよね。ヤマトさんもお休みされてるんですか?」
エルカもその話題転換に乗った。デフォルトでカマエルの圧が強い分、自身で中和しようと試みる。
「いや、俺もヴァルハラ配属予定だったけど、無理言って抜けさせてもらってる感じかな」
「天界の危機って時によくそれが許されたな」
苦笑で返すヤマト。当然の世論と理解しながら、自分の行動には全く後悔の念を感じさせない表情だった。
まるでそんなこと、ヴァルハラ(むこう)で腐るほど言われたとでも言うような。
「どうしても守りたい人がいるんですって、試験受けたときの先生にもお願いして一緒に頭下げてもらいました。俺の独断じゃダメだっただろうなぁ」
「そこまでするってことは、ヤマトさんにとってすごく大切な人なんですね」
「まあね」
ヤマトは周りを探すように首を振り、ソファに立てかけてあったリュックを引き寄せた。
リュックを運んできたのはエルカだ。その大きさにしては重さを感じない、中身が空だったのかと思ったがそうではなかった。
ヤマトが取り出したのは1枚の封筒。デザインから差出人が女性だとわかる。
「お手紙、ですか?」
「幼馴染だよ。俺、昔はこっちに住んでてね、そん時ずっと面倒見てもらってた子なんだ。ヴァルハラに引っ越してからも文通してた」
後生大事に封筒を扱う所作、ヤマトの優しくも憂を帯びた瞳が過去を語る。
両者の関係にただならぬ想いがあると、出会ったばかりのエルカでも読み取れた。
「実は天使になったのもその子が理由なんだ。故郷出る時に約束までしちゃったもん。『絶対天使になって帰ってくるからね』なんてさ」
「ということは、約束通り天使になって再会ってことですね。なんだかドラマみたい」
「はは、言われてみればそうかもね。でもこの約束、とっくに"失効済"なんだよね。俺、いわゆる天使浪人だったから」
天界に遣える職業、天使。目指す者は多かれど、狭き門をくぐれるのはごく僅かである。
天使を志す者は皆、少年時代から過酷な訓練に身を浸す。同世代の者が青春を謳歌する横で血肉を煮え続け、夢のスタートラインを目指す。
しかし、それでも芽が出始めるのは早くても20台後半からだ。試験後に戦意を喪失する者、試験にすら辿り着けない者、不屈の心を持ちながら成果を得られない者。挫折の道は三者三様である。
「あの頃の俺は世間知らず過ぎたからなぁ。それこそ、今の歳くらいには銀輪になってるつもりだったのにさ」
「二十歳前後の天使すらレアモンだろうに、それは流石に銀輪をナメすぎだ」
他人の語りは興味ないと、聞かぬふりをしていたカマエルが口を挟む。
「いやいや、カマエルさんに言われても説得力がないですよ。学生の頃から天使やってたって噂だけど、ホントのとこはどうなんです?」
「17からだ、俺は」
「ほらね。そこから10年ちょっとで金輪まで行っちゃうのも、流石は伝説の天使って感じですけど」
"若き伝説"の称号、金輪昇格を歴代最年少で成し遂げた際に生まれたものだ。早熟なだけですぐ頭打ちになるという下馬評価は少なくなかったが、金輪になる頃には全てがひっくり返っていた。
結局その後、さらなる特大ちゃぶ台返しが待っていたのだが。
「そう言えば、エルカちゃんもめちゃめちゃ若年天使だよね。なんならカマエルさんより早いんじゃないの?」
「たしかに例外中の例外だよ、エルカはな」
彼女をフォローするためか、はたまた口を滑らせないようにするためか。エルカに飛んだ話題にカマエルが先手を打った。
正規の天使でないことは、たしかに大っぴらに話すべきではないのかもしれない。エルカもその意図を汲み取り、話題をひとつ前に戻した。
「でもヤマトさん、約束が無くなっちゃっても諦めずに天使になったんですよね。今のヤマトさんを見たら、幼馴染の方もきっと見直してくれますよ」
「見直す、かぁ。見直してくれるかな」
「銅色の輪っかとスーツ、すごくカッコいいですよ」
ヤマトへの励ましが思ったほど効力を持たず、エルカは続けて賞賛を送る。容姿を褒めるにしてもあまりに薄っぺらだ。
エルカは急にこみ上げてきた羞恥心に頬を染めた。
「ありがとう。エルカちゃんはいい子だね。俺もそれくらい純粋なら、あの子に認めてもらえただろうな」
「で、でも約束を破ったわけじゃないですし」
「ううん、破るよりもっと酷いんだよ。浪人してた十何年、ずっと誤魔化し続けてたんだ。マトモに努力してたのなんて最初の数ヶ月間だったクセにさ」
自嘲するような口調だが、ヤマトの表情はわずかに引き攣っていた。
「気づけば文通もしなくなってた。そうなればもうあっという間さ。惰性でいる時ってなんでこんな早いんだろうね、時間の流れ」
試験のことを誤魔化した次は、一方的に励ましを受けるようになった。やがてはその話題にも触れなくなり、文通さえも打ち止めになった。
結果残ったのは誤魔化した自分への罪悪感だ。
その罪悪感に苛まれることを苦労や努力に置き換えながら、何も成すことなく生きていた。
「きっとあの子も気づいてたんだろうな。ちょうど1年前だっけ、久々に手紙が届いたと思ったらなんて書かれてたと思う?」
『わからない』の表情で答えるエルカ。
「……結婚するってさ。ご丁寧に写真まで入ってたんだよ、めっちゃいい男そうだった」
お互い、相手を見つけていてもおかしくない年齢だ。頭の片隅で小さな覚悟はできていた。
だからこそ、ヤマト自身はそれを知って絶望するものと思っていた。
実際はどうだ。胸の中に生まれたのは絶望感でもなんでもない。
–––––諦めるにはちょうどいい口実だろ。
感じたのは安堵だった。この瞬間、憧れの幼馴染が他人へと変わり、ドラマチックな約束は時の風化により消え去っていた。




