《No.11》せめて、それまでは一緒に
30分の支度後に出発する。
エルカは血染めのパーカーを脱ぎ、避難所で支給されたシャツに着替える。白無地の長袖。ジーンズと合わせれば及第点だ。
同じく支給品である小さなリュック、そこにパーカーを入れる。
ダンボールにはまだ食料など入っているが、必要ないだろう。
寝室に使っていた部屋も片付ける。タオルケットを折り畳み、布団のシワをなるべく消しておく。
立つ鳥跡を濁さず。もうここに帰ることはない。
「んじゃあ、行くか」
リビングで待っていたカマエルは、リュックを背負ったエルカを見て目を細めた。
直接言わずとも、これで互いの別れになる雰囲気は作られたようだった。
「場所はわかるか?」
「はい。方向は覚えてるから、そこを辿っていけば」
移動には人工翼を使う。避難所に行った時と、ヤマトを送った時のもの。そして次は、エルカ自身も。
飛び立ったのは昼過ぎだった。紫水晶の瘴気が日光を阻んでいるのか、あまり暖かくはない。
「たしかあそこでしたよね、カマエルさんに助けてもらったのって」
「ああ」
フライト中はほとんど話さなかった。2人が出会った倉庫を飛び越え、方角は西へと進んでいく。
逃避行していた時の記憶を頼りに、ゴーストタウンの目印を見つける。
倒壊した医者の看板、対角にある本屋の跡、これを越えた先に。
「……お姉ちゃん」
エルカが先に高度を落とし、カマエルが続く。
降り立って目の前にあったのは、木造の小屋だった。両脇を倒壊した民家に挟まれ、確かにこれは隠れ家にちょうどいい。
そしてあの時と変わらないものと言えば、玄関を塞ぐように展開されている紫水晶である。
「……ただいま、お姉ちゃん」
早くなる呼吸と鼓動の隙をついて、短く一言発する。
状況はあの日のまま、凍結したように保存されている。
押し倒された人間の形状に、それに巻き込まれたもうひとつのシルエット。
「やっぱり、そうだ。私、お姉ちゃんに守られてたんだ」
平常時でも足の遅いエルカが、なぜ震える足で鬼から逃げられたのか。
それは姉が鬼を道連れに結晶化したからだ。自身の体を八つ裂きにされながらも、怒号のような悲鳴を上げながらも、決して離さなかった。
カマエルは黙ってエルカを見守る。肩の震えには気づいているが、それでも手出しはしない。
エルカの見つめる紫水晶は、外界の光を吸い込むように煌めく。こっちにおいでと手招きしているようだ。
でもその手招きは姉のものではない。天界にさらなる犠牲者を増やさんとする、紫水晶の意思だ。
触れてしまえばこちらも結晶化する。想い人の元へ還った、あの時のヤマトのように。
(そのために帰ってきたんだから)
震える掌を紫水晶へ向けたただけで動悸がする。視界が端から白く濁り、冷汗が止まらなくなる。
触れるだけでいい。あと少し手を伸ばすだけで、全ては終わる。
なのに、どうしても数ミリが届かない。
結局、それに触れるだけの勇気と無謀さはなかった。
「……最低ですよね。ここまで来ておいて、お姉ちゃんの元に行く覚悟もないなんて。ヤマトさんだって最後は、大好きだった人と一緒になったのに」
誰かの枷になって苦しませ続けるくらいなら、すっぱり消えて無くなった方がマシ。
そんな自分で立てた計画すら実行できなかった。
震えたまま動けない自分が、憎い。
「アイツは最初から目的が決まってたしな。1人の女のために天使になったって言ってたろ。彼女のいない世界での用は済ませてたんだ。エルカがアイツに倣うことはねえよ」
「それなら私だって、もうこんな世界で生きていたってしょうがないんです!お姉ちゃんやカマエルさんみたいに、誰かを守れるわけじゃない!」
エルカには何かを為すだけのチカラはない。腕力も心も。
誰かを助けられるでもなく、自分の人生を終わらせる度胸もない。惨めに生きながらえているだけだ。
こんな人間に、涙を流す価値すらない。ずっと胸に抱えていたものを言葉にしてみれば、自分でも納得の有り様だった。
「こんなことなら、私なんかよりお姉ちゃんが生きていた方がよかったのに」
うずくまるエルカの横で、カマエルは膝を落とした。
紫水晶に触れる寸前の手を、それより大きなサイズの手で包み込む。
「姉ちゃんかエルカか……実際、どっちが生き残るべきだったかなんて、証明できる奴はいない。それに生かされた側からしたら、なんで自分なんかを助けたのか聞きたくても聞けないもんな」
答えを持つ人は紫水晶の中だ。
それに触れて自らも命を捨てたとして、知りたいことが聞けるとは限らない。
この中でひとつになっても、対話ができる保障がない。
「結局生存者にできるのは、自分に生き残る価値があったのか探すことだけだ。その答えを知る機会だって、生きていなきゃ見つけられないしな」
エルカが手を握り返さないことが、カマエルへの返答だった。
「生きて答えを探すか、立ち止まって終わりを待つか。今ここで結論を出してもいい。だが……」
握る手に力が籠った。暖かく、そして熱い体温が掌を通して伝わってくる。
「その答えが見つかるまでは、それまでは一緒にいよう」
生きる希望も死ぬ勇気もないエルカに対して、カマエルは肯定も否定もしなかった。
示したのは一本の道だ。
「それでも、変わらないかもしれないですよ」
紫水晶に向いていた目線同士がぶつかる。濁ったエルカの瞳とは対象的に、カマエルの目は確信の色をしていた。
「立派な姉ちゃんが命懸けるほどの妹なんだろ」
姉のことに頷いた時、ようやく自身の思い違いに気づいた。
親を切り捨て、大好きな姉に生かされたことは、罪悪感を強めるための足枷ではない。
絶望の海で溺れないよう姉に背中を押し上げられ、手を取って引き上げてくれたカマエル。
大切な人たちに導かれて、ようやく向こう岸に辿り着くことができた。
もし皆が、私に生きる価値を見出して逝ったとすれば。
私が生きてすべきことは、それが間違っていなかったと証明することだ。
–––––大好きな人たちに守ってもらえるくらい、愛された私だから。
心の中で溜まっていたものが外へ湧き出てきた。
瞳が熱く、そこから線を引いて頬が熱い。堰を切って流れる、大粒の涙だった。
こんなにも溜まっていたのか。思った以上に止まらない。でも、それでいい。
もう何も我慢する必要はない。泣く価値が無いとも、生きる意味が無いとも、もう思わない。
自分が非力なことは変わらないとしても、こんな自分だとしても。
–––––生きたい。
悲しみの残り火は優しく心を温める。一緒に溶けた口角が緩み、今一度視線を上げた。
涙と光が混じった世界は、滲んで透明に見えた。




