導き
その事務所は商店街の片隅に建つ雑居ビルの3階にあった。
雑居ビルの扉を開け中に足を踏み入れる。
扉の直ぐ右側に郵便受けが8つ、左側に管理人室と書かれたプレートが貼られたドアがあった。
ドアの横にある小窓から中を覗く、人はおらずビルの所有者が物置として使っているのか、管理人室の中には乱雑に物が積み上げられている。
扉から奥に向かって通路が伸びており、右側にドアが2つどちらの部屋からも物音は聞こえてこない。
管理人室の後ろ側には共用のトイレがあって、通路の一番奥には故障中と書かれた紙が貼られたエレベーター、エレベーターの脇に階段。
階段を上る。
2階は通路の右側にドアが2つ左側に1つ、左側のドアの脇に探偵事務所の看板が打ちつけてあって中から人の話し声が漏れ聞こえていた。
さらに階段を上がり3階に向かう。
3階の踊り場で足を止め周りを見渡す。
この上に屋上でもあるのか、階段はさらに上に向かって続いている。
3階も2階と同じ間取りで、右側にドアが2つ左側に1つあった。
私に声をかけてくれた女性に駅のホームで渡された此処の場所が書かれた紙をもう一度見て確認し、看板の類いが全く見当たらない左側のドアをノックしてから開ける。
入って直ぐ前に衝立があり部屋の中は見渡せない。
衝立の奥に向けて声をかける。
「こんにちは。
どなたかいらっしゃいますか?」
声をかけた事で部屋の主が私に気が付いたらしく、奥から返事が返って来た。
「あ! お客さんだ。
どうぞ中にお入りください」
衝立を回り込み部屋の奥に足を踏み入れる。
部屋の奥には女性が2人、あ、違う、3人いた。
窓の近くに置かれた机の前に座っている有名女子校の制服を着た可愛い女の子。
それに私に駅のホームで声をかけてくれた20代前半の綺麗な女性と、その女性に抱き抱えられた4~5歳の幼女の3人。
幼女を抱いた女性が私の顔に気が付き声をかけて来る。
「駅にいた方ですよね?
お待ちしていました、どうぞお座りください」
机の前にある応接セットのソファーを指し示す。
そのあと机の前に座る女子高生に声をかけた。
「この子の住所を調べさせに探偵事務所に行ってくるから、後をお願い」
女性は私に会釈して部屋から出て行く。
女子高生は無言で頷き、紙とペンを持って椅子から立ち上がると私が座っているソファーの対面に座り直して、私に声をかけて来た。
「あなたのお名前と、住所、電話番号、その他思い出せる事を全て教えてください」
彼女の言葉に私は頭を抱えてしまう。
部屋から出て行った女性に声をかけられたとき私は、駅のホームで途方に暮れていた。
何故なら私は私自身の名前も住所も電話番号も何故その駅のホームにいるのかさえ思い出せず、ホームのベンチに座り込み思い出せない記憶を必死に手繰っているところだったから。
私は両手を頭から外して頭を上げ女子高生の顔を見ながら返事を返す。
「思い出せない、一生懸命思いだそうとしているのに、全然頭に浮かんでこないのです。
どうしよう? これから私は如何すれば良いのだろう?」
「思い出せませんか? 困りましたね。
それでは暫くの間、この事務所で寝泊まりしませんか?」
「え?
ありがたい話しですが、よろしいのですか?」
「はい。
ここに来るお客様の多くが、あなたのように記憶を無くされて来店されます。
ですが、この事務所で寝泊まりして他のお客様の事を見ているうちに、記憶が戻ってくる事が多いのです」
「そうなのですか?
それではお言葉に甘えて、暫くお世話になります」
「ではこちらにどうぞ」
彼女は立ち上がり、事務所の奥にある3畳程の部屋に案内してくれた。
私はこの部屋に寝泊まりして同じように彼女たちの世話になっている幼女と共に、彼女たちの仕事を毎日観察する。
また学校や仕事先に出かける事が多い彼女たちに代わり、幼女の面倒を引き受けていた。
この事務所で寝泊まりするようになってから20日程経ったある日、年長の女性が30歳前後の女性を伴って事務所に帰ってくる。
その女性の顔を見て私と遊んでいた幼女が歓喜の声を上げて女性に駆け寄って行く。
「ママー!」
だがどうしたことか幼女が女性の足にすがりつき呼びかけているにも拘わらず、幼女の母親らしい女性は怪訝な顔で事務所の中を見渡しているだけ。
その女性の背中に年長の女性が手を当ててお経のような呪文を唱えた。
その途端女性が叫ぶ。
「美奈ぁー!」
女性はその場に座り込みすがりついてくる娘を力一杯抱きしめ、その背中を優しく撫でる。
「ママ! ママ! ママ!」
「美奈! 美奈! 美奈!」
「あたしね、ママが迎えに来るのをあそこでずぅーと待っていたんだよ」
「ごめんね、ごめんね、迎えに行かなくてごめんね」
「ママに会えて良かったぁー。
でも……でも、あたし……死んじゃったんだよね、トラックにひかれて……」
「美奈……」
「あ! おじいちゃんとおばあちゃんだぁー」
事務所の壁を突き抜けて眩しい程の光が差し込んで来て、その眩しい程の光の前に男女の老人が立っていてにこやかに美奈ちゃんと美奈ちゃんのママを見守っていた。
「お父さん、お母さん……」
美奈ちゃんが2人の老人に駆け寄って行く。
「おじいちゃんとおばあちゃんかむかえにきてくれたから、もういかなくちゃ。
バイバイ、ママ、大好きだよ……」
美奈ちゃんが2人の老人の下に駆け寄ると、お爺さんが美奈ちゃんを抱き上げる。
美奈ちゃんとお爺さんお婆さんの姿がだんだんと薄くなって行き、壁を突き抜けていた眩しい程の光が消えると共に3人の姿も消えた。
「美奈ぁー!」
美奈ちゃんとお爺さんお婆さんの身体がだんだん透けて行き消えるのを見ていたら、私も駅のホームにいた理由を思いだす。
私が記憶を取り戻した事に気が付いた女子高生が話しかけて来た。
「思い出しましたか?」
「はい。
朝、混雑するホームで電車を待っている時に後ろから押されてホームの下に転落、そのまま電車にひかれた事……。
それに父や母……両親の事や兄弟の事、働いていた会社、住んでいた住所、電話番号、全て思い出しました」
「ご家族をお呼びしますか?」
「いえ。
私が死んでからどれ程の月日が経っているか分かりません。
両親や兄弟たちには私から会いに行きます。
それから美奈ちゃんのように私も旅立つとしましょう。
長いあいだお世話になりました。
ありがとうございます。
失礼致します」
私は2人の姉妹に何度も頭を下げてからこの事務所を後にした。