Epilogue. 穂村鈴の信じる世界 (完)
実行委員であった富田の不祥事により激震が走った九組だったが、羽鳥先生の寛大な処置の結果なんとか展示自体は認められることになった。
もちろん厳重な管理の下、かつしばらくはトイレ掃除を受け持つことになったみたいだが、それくらいはご愛嬌だろう。
実のところ、穂村が昨夜持ってきたサソリは富田が逃がしたものではなかったようで、あれから俺たちはブラックライト片手に校内を駆けずり回ることになった。
なんとか無事に発見できたは良いものの、思わぬ残業に疲弊した俺は翌日の土曜を泥のように寝て過ごすハメになったのである。
しばらくはトイレ掃除をやらなくて良いというは、その対価としては十分だ。
「——ま、これでアイツらも学園祭に出店できるんだ。ユウレイの謎も解けたし、サソリも見つかった。万事解決して良かったな」
月曜日の放課後、いつものように部室へと足を運んだ俺は穂村にむかって言った。
「良かっただって?」
だが穂村は珍しく不満をあらわにすると、
「ちっとも良くないよ。ひとつ間違えればみんなを危険に晒していたかもしれない。まったく、自分が情けないよ」
「おいおい、何をそんなに怒ってんだよ? 別にいいじゃねえか、サソリも見つかったんだし。俺は面白かったぜ?」
夜の学校に入ったりサソリを捕獲したり、コイツと一緒にいると退屈はしない。だからこそ俺は推理部に入ることを決めたわけだし、穂村だって、自分の能力を発揮できる事件が起きるのを待ち望んでいたはずだった。
「いいや、面白くないね」
しかし穂村は腕を組みムスッとした顔で、意外な言葉を吐いた。
「——ボクは人を傷つける可能性のある事件は好きじゃないんだ」
「好きじゃないって……けどお前、探偵がそんなこと言ってどうすんだよ。お前が敬愛するホームズだって『近頃は犯罪がない』とかなんとか言って嘆いていたじゃないか」
反論する俺に、だが穂村は非難するような目を向けてきた。
「いいかい、モリタニくん。アレは十九世紀のロンドンの、しかもフィクションの話だ。フィクションとリアルは別物だし、フィクションでは好きなことでもリアルでは嫌いなことなんていくらでもあるよ」
「それにボクは彼を盲信しているわけじゃない。現代に住むボクたちの基準からすると眉を顰めたくなるような描写も多々ある。何度も言ってるけど、ボクは別に彼みたいになりたいわけじゃない。彼をさえ超える探偵になりたいんだ」
不遜な言葉を吐く穂村に俺は肩をすくめて、
「そうは言うがな、穂村。他所から見れば十分平和なはずのこの国でだって、人が殺されない日は少ない。ホームズを超えるような探偵になるためには、そういう事件も避けては通れないんじゃないのか?」
「……そうかもしれないね」と、しかし穂村鈴は寂しげに微笑んだ。「でもね、モリタニくん」
それから穂村はいつになく真剣な色をこめた声で語った。
「ボクはね、信じているんだ。たとえ今はなくなる兆しすら見えなくとも。いつの日か、世界から犯罪が消えてなくなることを。あの霧のように人々の心を悲しみや恐怖で覆ってしまう、憎むべき存在が完全になくなる世界が来ることを。ボクは信じているんだ。そんな世界で、ボクは些細な日常の謎を解決する存在でありたい——」
もちろん穂村が語ったのは理想論だ。人間がいる限り、人が人である限り、世界から犯罪がなくなることは決してないだろう。そんなことは穂村にだってわかっているはずだ。
だけど彼女は恥ずかしげもなく語った。まるで夢見る少女のようなその理想を。
結局のところ、俺はまだ穂村鈴という女のことを全然知らないのだ。
もっと知りたいと思った。探偵を志しながら、どうして日常の謎だけを解決していたいとハッキリ言えるのか。
「ボクも反省しなきゃいけない。日常にはどこに危険が潜んでいるのかわからない。ささいな見過ごしが生死に関わる事件に発展することもあるんだ。これからは何事にも迅速で対応するべきだね」
しかし焦ることはない。高校を卒業するまでまだ時間はたっぷりある。
だから、差しあたって取り組むべきは学園祭の出し物についてだ。もう三週間後に迫ったそれに向けて、俺たち推理部も何か出し物を考えなくてはならない。
俺はコーヒーを淹れるために席を立つ。
それから我ら推理部が誇るシャーロック・ホームズにとある企画書を突きつけようと思う。学園祭の出し物について、俺なりに考えてきた企画書を。
認められれば、きっと学園祭の目玉になると思うのだ。なぜならそれはウチの学校が誇る名探偵に関するものだから。
成功した暁には、依頼が山のように舞い込むようになるかもしれない。穂村が好むような、誰も傷つくようなことがない、日常における些細な謎に関した依頼が……。
俺はそんな妄想を抱きながら、キャンディの包装を解くのに苦心している探偵に、甘いコーヒーを差し出すのだった。
【推理部のシャーロック・ホームズ 短編 闇夜に浮かぶ光 完】