Chapter1. 確率の問題
夏休みが明けたばかりのことだった。
俺たちは残暑厳しい部室のなかで思い思いに過ごしていた。
穂村はいつものように肘掛椅子に座って本を読んでいた。俺が淹れたコーヒーを飲みながら、ときおりページをめくっている。
なんの本を読んでいるのかと横目で表紙を盗み見てみると、どうやら『シャーロック・ホームズの冒険』のようだった。夏休みを挟んでも変わらないシャーロキアンぶりに俺はなんだか安心する。
穂村に触発されてというわけじゃないが、俺もまた本を読んでいた。流行りのライトノベルで、クラスメイトのKから面白いと勧められた本。ジャンルはラブコメで、まだ一巻めの途中までしか読んでいないが、キャラの心理が深く描写されていて悪くないと感じていた。
黙々と読書に励む俺たちのあいだに会話はない。きっと俺たちの様子を側から見れば文芸部にでも見えていることだろう。もしこの様子を見て推理部という部活だということを当てられる奴がいたとしたら、そいつはきっと超能力者か、あるいは観察力に優れた探偵に違いない。
しばらくページが擦れる音だけが部室内に響いていたが、ふいに本が閉じられる音が聞こえたかと思うと、穂村が透き通るような声で呟いた。
「——最近、夜になると旧校舎にユウレイが出るって噂されているようだね」
脈絡も何もない唐突な発言だったが、穂村がそんなふうに会話を切り出すのはいつものことだったので、俺は彼女の言葉に返答すべく口を開いた。
「へぇ意外だな。お前の口からそんな非科学的なモノの存在を肯定するようなセリフが出るだなんて」
仮にも推理部の部長らしく、科学を信仰しているらしい穂村からすればユウレイといった存在はなによりも嫌いそうなモノだった。
水と油、犬と猿、あるいは探偵と怪盗。言い方はなんでもいいが、とにかく穂村の口から出る言葉としてはいささか不釣り合いなセリフだった。
しかし穂村はゆったりとカップを口に運びながら薄く微笑んだ。
「いや、そうバカにしたものじゃないよ。もちろんボクだってユウレイ自体を信じている訳じゃないけどね。つまりは確率の問題なんだよ」
「確率?」
「そう、確率だよ。あり得る可能性のね」
残念なことに、凡人である俺には天才の思考回路を解きほぐすことはできそうになかった。いったい何を言っているんだコイツは?
「……俺にはお前の言いたいことがサッパリわからん。なんだよ、その確率って」
「ふむ。簡単なことだよ、モリタニくん」
しかし穂村は笑みを深めた。馬鹿にするようにではなく、我が意を得た教師のように。
「つまりは目撃されたユウレイという存在が本当に超常現象であるのか、はたまたただの自然現象に過ぎないのか、あるいは——」
穂村はそこでいったん言葉を切り、机の端に大量に積まれていた棒付きキャンディーをひとつ手に取った。それから無造作に包装をはぎ取ると、口に咥えてから話を続けた。
「——あるいは誰かが作為的に引き起こしている事象なのかのね」
ああ、まったく素晴らしい笑顔だよ。穂村の考えていることが如実にあわられでた表情だ。俺がここ古難高校に転校して来てすぐに起きた『白墨の習作』事件以降、俺たちはなんどか日常の謎ともいえる事件を解決してきたが、彼女の姿勢はまったく変わらない。
我らが推理部の部長は面白そうな事件の匂いを感じるといつも不敵な笑みを浮かべているのだった。
「……それで?」
俺は文庫本に栞を挟みながら訊ねた。長い話になりそうだという予感を覚えながらも、しかし面倒な事態に発展しないといいなと思いつつ。
「そんな噂を聞いたお前はどうするんだ?」
だがそれはまったく意味のない質問であり希望だった。形式的な疑問に過ぎない言葉。部室で話題にしてきた時点で、穂村の答えは決まっているのだ。
探偵という存在は自己中心的で、無鉄砲。それは古今東西あらゆる歴史が証明していた。
「愚問だね」
果たして穂村は言った。
「——むろん調査に行くよ」