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獅子浜夏物語  作者: ひお
2/5

おパンティーと生活力と、鯵カレー

「お嬢、」

 (人間持って帰ってきた……)

 お嬢が必死の形相で担いでいる青年は、本の中から飛び出したような狩衣を纏っていた。足首はひどく鬱血していて顔色もすこぶる悪い。守央はすぐさま青年を受け取った。


 医者として青年を放っておけないが、それ以上に、お嬢のことが気がかりだった。

 顔も腕も服も泥だらけ、いつも高いところで一つにまとめているお団子髪もぐちゃぐちゃだったから。


「お嬢は大丈夫なのか」

 可愛らしい顔を真っ直ぐに覗き込んだ。それは大人が相手でも気圧されてしまうような威圧感があったが、お嬢はしっかり頷いた。

「うん」

「何かされたか」

 抱える青年を顎で指すと、お嬢は首を横に振った。

「ううん。中将さんの前で倒れてたの、怪我してるから拾った」

「俺に嘘つくことないんだぞ?」

 更に真剣に問うも。お嬢は腰に手を当てて口を尖らせた。

「あたしが嘘ついたことないの、守央は知ってるでしょ?」

 お嬢はふんっ、と鼻息を荒くする。

 お嬢は強い。日々鍛えてるのを守央は知っていたから、襲ってきた男を返り討ちにしたのかと思ったのだが、違うようだ。

 ということは、レンジャーロールで担いだ時に汚れて、髪も乱れたのだろう。

「確かに。……ならいい、手伝ってくれ」

「うん」

「説教はそのあとな」

「ありがとう」

 見上げて笑うお嬢に、守央は呆れて眉を落とした。

「説教されんのに礼か?」

「この人を診てくれるからね」

「けが人は放っておけないってだけだ」

「命ある者を救ってくれる守央が大好きだから、説教くらいどんと受け付ける」

「んじゃー、今日の説教は超々超なげぇーのにしようかなぁ」

「ちょ、それは……」

 宿題あるし、テスト近いし。夕飯のお片付けも手伝うし、お風呂掃除もあるし――

 必死に弁明するお嬢をほほえましく見下ろす守央だった。



 その間も、ラジオは話し続けている。

『かつて東側にあった大国が終戦とともに民主主義の春を迎えて十五年。現在の人々の暮らしはどのような変化があったのか。現地と繋げて話を聞きます。ラスロ国の首都モセカウ在住のミーシャさんです。こんにちはミーシャさん。ズドラーストヴィチェ ミーシャ カーク ディラ?――』



 医者の顔になった守央は速足で工場に入っていく。

「テーブル頼んだ」

「あいよ」

 阿吽の呼吸で、後に続くお嬢は一斗缶を抱えた。お菓子や果物が落ちないよう注意を払って工場に運び込み、適当なところに下ろした。

 診察台に青年が寝かされるを横目で見ながら、背負っていた通学鞄を雑に落とすと、中からフェイスタオルを取り出した。

「守央、シャワー借りるね」



『ハラショー ズドラーストヴィチェ こんにちはゼル。カーク ディラ?』

『ハラショー 今日はよろしくお願いします』

『はい、こちらこそ~』

『今日は終戦記念日です、日本では各地で終戦記念の催しが行われていますが、ラスロ国ではどのような式典が行われていますか――』



「水しか出ないぞ」

「わかってるー」

「着替えはあるのか」

「ない。貸してくれる?」

「外に干してあるやつ、好きなの使え」

「ありがとう」

「おパンティーは貸せないぞ」

「おパンティーは貸してもらわなくて大丈夫。いってくる」

「しっかり泥落とせよ」

「あーい」

 靴下をポイと放り、裸足で出て行った銀色のドアが、ぎーぎー鳴って閉じた。



『ラスロ国内でも終戦記念を祝う行事が各地で盛大に行われています 独裁政権が終わった日でもある今日は、自由を勝ち取った記念に各家庭で作った伝統菓子プチーチエ・モロコーを食べる日となりました。 クリスマスと並んで大事な人たちと過ごす大切な日となっています』



「さてと……俺も支度するかな」

 濃紺のスクラブに着替えて戻った守央は、毛布が掛けられた青年を見下ろして、ペンライトを手に取る。


 青年の艶のある黒髪は背中まで伸びていて、毛先は大雑把に削いでいることが伺えた。目を閉じていても目元が切れ長だとわかるくらい涼しい目元をしている。鼻も一本筋が通って、薄い唇は冷徹そうな雰囲気を醸していた。


 青年の瞳にペンライトを当てた守央は息を飲んだ。深い緑の瞳には七色に反射する光彩がうずんでいたからだ。幸い、調べようとしていた瞳孔は正常に機能していたから、余計なことは考えずペンライトを胸のポケットにしまった。



『プチーチエ・モロコーはどんなお菓子なんですか』

『アプリコットジャムを浸したチョコレートビスケット生地を層に重ね、コンデンスミルクベースのチョコクリーム、そそれから厚いチョコレートコーティングでできています。大変甘くてコクがあるケーキです』



 次に短冊形の録音機を取り出した。

 録音ボタンを押して、物を見るかのような冷えた瞳で青年を見下ろした。

「所見、男。年齢推定二十代半ば。関係ないけど気になるから付け加えておく、こいつ狩衣着てる、脱がせたら褌巻いてたりして。これから着物を切る」

 布切狭で狩衣を大胆に切り裂く。

 上着を取り去り、続いて履物を切り裂くと、なんと本当に褌を履いていて、守央の動きが一瞬止まった。その瞳にはいつもの人間味が戻ってしまっていた。

「っと……ほんとに履いてた。本気だな……えーと……とりあえずこれも切る」

 ザクっと景気よく褌の腰元を切って、はらりと取り去って毛布を掛けてやる。守央の瞳はまた、モノを見るような瞳に変わっていた。

「意識なし、瞳孔は開いてない。血圧……血圧、と」

 血圧計を取ろうと傍を離れると、先ほどのドアからお嬢が戻ってきた。守央の白いTシャツに、大きなスクラブを纏って。

 頭に巻いたタオルをキュッと締めたお嬢は、手を洗いながら言った。

「手洗ったら血圧やるね」

「助かる」

 守央は毛布をめくって上半身だけ出すと、所見の続きを始めた。

「呼吸」

 金属ベルトのアナログ腕時計を確認し。青年の胸元を見下ろす。



『アプリコットジャムの甘酸っぱさとチョコビスケットのほろ苦さが重なったのを想像しただけでおいしそうですね、想像だけで頬っぺたの内側がキュンキュンしてきちゃいました』

『日本の皆さんにも平和の象徴となったプチーチエ・モロコーを是非味わってほしいです――』



「10回。脈拍、」

 青年の手首に指を置き、腕時計を見やすいように軽く腕を上げた。

 その間、お嬢は青年の上腕に水銀血圧計の腕帯を巻いて、腕と帯の隙間に聴診器を差し込んだ。空気球のバルブを閉めたあと数回握ると、水銀の目盛りがのぼり始める。



『ということで、今回は特別にミーシャさんのご実家の秘伝レシピを教えていただきました。レシピは放送終了後、公民館にて配布します。ラスロ国の文化を体験してみてくださいね』

『作ってみてくださいね~』

『ミーシャさん、今日はありがとうございました』

『こちらこそ、ありがとうございました ダスヴィダーニャ』

『ダスヴィダーニャ』



 ある程度水銀がのぼったところでバルブをゆっくり開く。すると水銀は下がっていき、当てている聴診器からかすかに血管の音が届く。血流が弱まって聞こえなくなるまで水銀血圧計に真剣な眼差しを向けていた。

「86の58」

 聴診器を首にかけ、腕帯を外しながら報告をすると。守央は軽く息をついた。

「二次性低血圧の疑いありか。この怪我じゃ妥当な線だね……次は体温っと、」

 体温計を胸のポケットから出そうとすると、お嬢は青年の脇の下から体温計を抜き取った。

「三十八度四分」

 言いながら血圧計を元の位置に戻し、体温計を丁寧にケースに仕舞った。

「呼吸は浅い、体温が高い、顔色が悪く全体的に赤い、脱水症状が疑われる。顔、体、腕……」

 観察しながら今度は下半身側に折りたたんであった毛布を上半身側へ寄せた。下半身が露になったがお嬢は何も言わなかったし、守央も気にしていない。

「足に軽度擦傷、擦傷は主に左側に集中している。額に皮下血腫。左足首に腫れ、皮下出血、外反変形――」



『ここで一曲お送りします。ホットなサマージャズナンバー、Stan Getz · Charlie Byrd Samba Dees Days」

 サクソフォンの音色に合わせて軽快なサンバのリズムが工場に流れる。

 曲も後半になると音楽の音が小さくなってDJ是琉の声が重なった。

『世界的に環境への関心が高まっていた中での戦争勃発は私たちの暮らしを見直す契機にもなりました。

 先の戦争により壊滅した首都東京はかつての繁栄を取り戻すことなく、自然保護の拠点として動植物は手厚く保護されるようになって十五年。今は森が茂り様々な動物たちの住み処となっています』



「体の左側に擦傷と裂傷、打撲創が集中、枝や葉が付いて汚れている。ある程度の高さから落ちてきて、左側面を木に強打、それから地面に落ちたと考えられる」

 録音を停止し、青年の体は毛布に覆われた。

 一通り所見が終わったところでシャッターの外へ視線を流した。ひび割れた護岸に、強烈な西日が照っていた。

 コンクリートで固められた護岸は戦争が終わってから修復されていない。いや、その前から修復などされていなかった気もする。

 するとお嬢は言った。

「見立ては」

「左足首を骨折している。こいつが眠ってる間にオペだな」

「わかった。用意する」

「頼む」

 お嬢が奥にあるオペ室へ駆け込んでいくのを見送って、守央はその隣の部屋、事務所に入った。

 ラジオの音がかすかに聞こえてくる。



『開戦当時、化石燃料の船積み価格は異常高騰、日本政府のガソリン課税も五百パーセントを越え、追い打ちをかけるようにエンジンを積んだ車両に高い税金がかけられました。環境循環型社会を隠れ蓑にして資源の確保に走ったのです。結果、エンジンを積んだ自動車やバイクは姿を消しました。人々は自分の足、自転車、馬や牛を利用して物資を運ぶ環境へ移行しました。

 並行して発電事業も、当時の環境活動家、あるいは電力会社への富の集中を危ぶむ民衆の声によって大規模なデモ、抗議、襲撃によって破壊、閉鎖に追い込まれ、現在、公共の交通機関のみ電気機関を用いて稼働しています――』

『かつての暮らしには戻れなくなったことによって経済は停滞、未曾有の不況に陥り――』


 蝉が工場の柱に止まったのか、事務所の外でけたたましく鳴き始めた。

 机の引き出しに取り付けられている、数字とアルファベットの組み合わせで開く錠前を操作する。鍵の開いた引き出しには手のひらより大きい木の板がおさめられていた。板に開けられた穴には細くて頑丈なワイヤーが通されている。ワイヤーには数本の鍵が通されていた。


 遠くで聞こえるラジオ放送、DJ是琉の丁寧な語り口と蝉の声を聞き流しながら。木の板を提げた守央は事務所の隅に鎮座している金庫に、幾本かある鍵のうちの一本を挿した。

 大人が一人入れそうな、大きな金庫だった。慣れた様子で金庫のダイヤルを右に左に回したあと、鍵を回した。のったり開いた扉の中に、もうひとつ鍵穴の付いた扉があった。守央はまた、幾本かある鍵のうちの一本を迷いなく差し込む。鍵をひねると観音扉は簡単に開いた。三段ある棚には液体の入った小瓶が並んでいた。

 小瓶を一つ持って事務所を出ると、蝉の声とラジオの音がよく聞こえた。



『しかし、地質学者の安藤良治教授の今世紀最大の発見により希望の光が差したのです。今ではどこの家庭にもある、電気を貯められる鉱石、蓄電石です』



 ラジオと小瓶を持った守央が手術室に入ると、お嬢は作業しながら言った。

「もうちょっとで用意できるから」

 ガーゼ、消毒薬、点滴など細々したものを用意しているところだった。

「急がなくて大丈夫、今すぐ死ぬような怪我じゃないし。それよりもお嬢が怪我しないようにな」

 メスやハサミが並べられている台を眺めて、守央は爽やかに笑う。

「うん、気を付ける」

「あとは俺がやるから、清拭して連れてきて」

「わかった」

 部屋を出ていこうとするお嬢の背中に、思い出したように声をかけた。

「そうだ、明るいうちに裏山で添え木拾ってきてもらえるかな」

「がってん承知」

 バケツにお湯を用意して、青年の髪についた枝葉をおおまかに除去し床へ放る。床には青年が着ていた着物、それからねじった白い布が落ちている。他にも異物が付いていないか毛布を持ち上げて全体を確認した後。

「ちょっとふきふきしますヨォ」

 つぶやいて、タオルを絞った。



『今日のテーマは「愛」と「平和」 もうね、すっごくたくさんメッセージもらってて……放送中に読みきれるかなぁ、ってくらい。いつもありがとう。どんどん紹介していくね――』



 青年をオペ室に届けた後、お嬢は工場を出た。真っ暗になる前に添え木を探さなくてはならない。

 工場の裏手は集落の大手道、国道414号線が走っている。

 情緒ある風情の石畳が敷かれていて、人も馬も牛も荷車も、朝と晩に来る無人バスも、この道を使う。

 この石畳の下には大戦前の遺物であるアスファルトの道路が眠っている。

 大戦の始まる少し前、限りある資源の搾取としてアスファルト採取も槍玉に挙げられて世界世論が過熱、採取禁止となった。

 限りある資源の保護を各国が掲げ、輸出入、取引禁止となったものは数えきれないほどある。環境破壊、地球温暖化、気候変動の劇的な加速は人々の恐怖心と危機感を煽って、時代の大きなうねりとなって世界を覆ったのだった。


 アスファルトの輸入が途絶えてすぐ、その上から石畳を敷く工事が地域の行政や国によって行われた。

 当初沼津駅まで舗装するはずだった工事も、住民の声と努力によって今では伊豆長岡に抜ける放水路のトンネルまで、それから大瀬崎を越えて土肥方面へも石畳舗装が完了している。


 獅子浜のあたりは海と山の距離が近く、その間を縫うように石畳の街道が通っていること、石畳は欧風のそれを模して敷かれていること、これらが複合的に溶け合って、海沿いの石畳は独特の景観を生み出している。

 この景観を一目見ようと観光客が訪れるようになったことは、住民も行政も意図していなかった。うれしい誤算は海と山に挟まれた猫の額のようなのどかな漁村に活気をもたらして、住民は観光客を温かく迎えている。


 そんな414号線を挟んで南側が獅子浜、北側が小鷲頭山だ。

 石畳の街道を渡ろうと、左右確認したお嬢の前を、最終のバスが通り過ぎていった。時速四十キロで淡々と走る無人バスは超満員で、乗車口は開きっぱなし、乗客の背負っている大きな風呂敷包みがはみ出していた。


 バスが行くのを待って、お嬢は小走りで街道を横切る。『獅子浜認定 路地裏ガイド ガイドいたします 山田 電話055-931-××××』と書かれた看板が置かれた路地に入っていった。

 ここ一体の集落は土地が細長くて狭いせいで、家と家の間隔が狭い。車が通れる幅の道路は414号線と、集落の外郭に少しあるだけだ。


 住民は家屋と家屋の間に張り巡らされた路地を生活道路にしていた。

 生活道路と言っても、大人が二人並んでかろうじて通れるか通れないかくらいの道幅しかない。家屋の圧迫感もあって昼間でも薄暗い。他人の屋敷の風呂場などちょっと背伸びをすれば塀越しに覗けてしまうし、生活音も丸聞こえだった。

 それから、どの家も鍵をかけなかった。玄関も、勝手口も、窓も。就寝時だろうと外出時であっても。それは住民みんなが親戚のような集落では互いの家を行き来することも頻繁で、思いやりとお互い様、お陰様、という精神を住民たちが昔から大事にしていることが大きな要因だ。


 住民は薄暗い通路を毎日掃除して、殺風景なコンクリート塀にプランターの花を思い思いに飾ったり、知り合いを見かければ(ほぼ全員知り合いなのだが)お茶に誘ったりする。

 そんな迷路な通路へ探検に入った観光客が迷子になるのは常だったため、路地裏ガイドなる職が確立された。獅子浜地区が行う路地裏ガイド試験に合格した、獅子浜のエキスパートだけが認定路地裏ガイドとして観光客をご案内できるのだった。


 そうそう、それともう一つ。

 陰ながら集落の治安と秩序を保っている組織があることを忘れてはならない。

 それは獅子浜組と名乗り、一帯を仕切っている。昔からあるやくざな家業だ。


 迷路のような路地を抜けて山に入ったお嬢は、十分程で山から下りてきた。腕に木の枝を何本か抱えて工場に戻り、床を掃除して、ベッドを作って。そして枝をきれいに洗ったついでに、青年の着ていた服の洗濯を始めた。


 お日様の名残が夜の帳に沈んでいく間際だった。工場の外にある洗い場を照らす電灯がパッと灯った。

 洗濯板でこすっていた服を広げた。

「着物だよねぇ……? 牛若丸が着てそうな」

 首をかしげて、それから反対にかしげた。

「繕えばまた着れるかな」

 慢性的に物資が不足している今、衣服を購入するのは年に一度程度。誰しも着たきり雀で、穴が開けば繕って大事に着ている。本当に着られなくなったときは雑巾や焚きつけに使って、服はその役目を終えるのだった。

 それを不便だと嘆く者はいない。潤沢に物資があった戦前に比べてちょっと足りていないというだけで、困る程度ではないからだ。

 注文すれば時間はかかっても必ず手に入るのだからそれまで待てばいいだけのこと。

 戦前と比べて時間の概念が緩やかになっていると感じる人が増えている、という統計を外国の有名な大学が出したのは数年前のことだ。


 その時。銀色のドアが開いて、若い男が出てきた。

 前髪長めのショートカットで、目袋が大きく、厚めの唇で、二十歳になったばかりの、その名を矢部是琉という。

 是琉が着ている濃紺のTシャツには、放射状に並んだ三匹の魚と、その下にajidesと白インクで胸元に大きくプリントされている。お嬢は是琉がこれ以外を着ているのを見たことがなかった。

「あ、お嬢。守央さんの手伝い? お疲れ様です」

 洗濯物をちらりと見て、是琉は人懐こい笑みを見せた。


「うん、守央の負担が少なくなるようにと思って」

「ってことはさ、さっきオペ室覗いたんだけど、もしかして……あれはお嬢が?」

「そ。私が拾ってきた」

「普通に病院連れていかなかったんだね、今回はまさかの人でしょ、あれ」

「救急車呼ぼうかとも考えなくもなかったんだけど……なんか、呼ばないほうがいいなって。第六感が」

「組同士の抗争から逃げてきた感じだったとか?」

「そういうんじゃなくて。着てるものが妙だったから」

 洗っている途中の洗濯物を広げて見せると、是琉はまじまじと覗き込んで目を丸くした。

「かっこいい、それ着物?」

「だと思う。草鞋も片方落ちてたの。褌も履いてたみたいだし……」

 洗濯物が浮かぶたらいに視線を落としていたお嬢は、ぱっと顔を上げた。

「見つけた瞬間に、生粋のレイヤーやっていう回答は受け付けられなかったんだよね」

「獅子浜に生粋のレイヤーが現れたらキヨシさんが黙っているはずないから、その線は消えたも同然だね」

 くすっと笑う是琉は、海に向かって大きく伸びをした。

「是琉もお疲れさま。今日の放送も素敵な声だったよ。メッセージたくさん読んだから遅くなっちゃったんでしょう?」

 お嬢は陽が落ちた空を見上げる。是琉がこの時間まで放送を延長するのはたいてい、リスナーとのやり取りが盛り上がった時だ。

「すべて紹介しきれなかったよ、ざんねん」

 申し訳なさそうに。けれどどこか満足げな是琉を見ていると、お嬢は心が温かくなる。

「今頃公民館には獅子浜マダムがケーキのレシピを求めて押し寄せてる頃だね。キヨシがもみくちゃにされてる姿が目に浮かぶよ」

「プチーチエ・モロコーね。想像しただけで情熱的に甘そうで食べてみたくなるよね。ふふ、キヨシさんの現状が想像に容易いよ」

 お嬢と是琉の脳裏には二次元しか愛せない四十路のブラックハッカー――配りもの係を担当しているキヨシ――が、ケーキのレシピを求めて襲い来る獅子浜マダムに公民館前でもみくしゃにされて、最終的に抜け殻になるまでの場面が浮かんでいた。

「ラスロ語を熱心に勉強してたのは今日のためだったんだね。ズドラーストヴィチェ、是琉」

「ハラショー ズドラーストヴィチェ、お嬢」

「ハラショ~」

「もう覚えちゃったなんてお嬢の吸収はすごいな」

「そんなことないよ。耳コピってだけ。是琉のほうがよっぽどすごいよ。……って、洗濯やっちゃわないと」

「お手伝い頑張ってね」

「うん」


 ⁂


 洗濯を干し終わって工場へ戻ると、オペ室の灯りは落ちていた。

 代わりに、壁際の一角がカーテンで仕切られて、中で明かりが灯っている。その中に守央の影を認めたお嬢は、添え木を抱えて声をかけた。

「守央、添え木いくつか拾ってきたよ」

「おー、ありがとう。入っていいよ」

 中へ入ると、患者衣を着せられた青年がベッドの上で眠っていた。額にはガーゼが貼られ、手足に包帯が巻かれている。点滴が繋がって、ベッドには尿の袋が下げられていた。

 守央は脈を計っていた手をそっと離し、青年を見下ろしたまま言った。

「今は安定してる。とはいえ脱水も気になるから一晩経過観察」

 守央の言葉を聞くが早いか、お嬢は言った。

「あたし見るよ」

 と、守央は間髪入れずに返す。

「宿題は」

「これからやる」

「テストは」

「ここで勉強できるし」

「夕飯の片づけは」

「窓掃除で後日対応」

「風呂掃除は」

「草むしりで堪忍してもらう」

「明日の学校は」

「ここから登校する。ジャージ洗って干したから明日には乾く」

「おパンティ二日続けて履くのか?」

「あー……」

 ここまでお嬢は素早い回答をしていたが、さすがにおパンティに関しては口ごもった。そんな様子を守央は軽く笑うと、プラスチックチェアと一斗缶を持ってきてベッド脇に置いた。

「椅子と一斗缶があれば、勉強できるだろ?」

「できるできる。ありがとう」

「添え木巻いといてやって。飯持ってくるから、なんかあったらすぐ呼んで。次郎さんには俺から話とく」

 説教は飯の後なー。守央は言い残してカーテンの向こうへ姿を消した。


 ⁂


 時折波音が聞こえる静かな工場は、海風がカーテンを揺らす。

 夜は海風が蒸し暑さを和らげてくれるから、お嬢は勉強に集中していられた。


 工場のドアが開いた音でお嬢は我に返った。壁の時計を見上げれば、そろそろ二十時だった。

 カーテンを揺らして入ってきた守央は、カレーのいい匂いを連れてきた。

「夕飯と着替えね。今日はカレーだって。先に着替え渡しておく」

「色々ありがとう」

 渡された巾着は妙に大きかった。それに中身がもぞもぞ動いている。

 もしかしてと思って中を検めてみると。紺碧の毛色をして鹿のような角が生えているコツメカワウソ風の生き物が飛び出した。

「ンッ!」

「ぅわっ、ウメ!」

 巾着の入っていたおパンティーと靴下とシャツがウメに押し出されて宙に舞う。ブラジャーを角に引っ掛かけているウメはお嬢の肩に駆け上がって頬をすり寄せた。

「ンッンッン~ッ」

「付いてきちゃったの?」

 角にかかったブラジャーを取ってやり、下着を拾いながらお嬢が聞くと。あんなに喜びを爆発させていたウメの動きがピタッと止まった。

「……ウメ?」

 ウメは眠っている青年をじぃっと見下ろしていた。

「この人ね、今日中将さんのところで拾ったの。ずっと意識がなくてね、守央が怪我を手当てしてくれたんだ。所持品がなくてどこの誰かもわからないんだけど、着物を着ていてね、草鞋を履いていたみたいなんだ」

 お嬢の説明を聞いていたウメは吠えるように鳴いたかと思えば。ベッドへ飛び移り、青年の頬を両手で挟んでムニムニと揉みはじめた。まるで、起きろと言わんばかりに。

「んぎぃぃぃぃ!」

「ウメ、この人は今安静にしていないといけないの。ムニムニはこの人が起きたらにしよう? ね?」

 お嬢が言い聞かせてみるが、ウメはやめようとしなかった。

 しかし、呼び掛けても青年が目を開けないので、ウメは青年の首元で丸くなって目を瞑ってしまった。

「ウメも落ち着いたみたいだし、冷めないうちに食べよう。俺は働きすぎておなかと背中がくっつきそうだ」

「そういえば私もお腹すいてた」

 目の前の海で釣れた鯵を使った、汁気の少ないカレーは、お嬢の家の定番だ。

 トマトの酸味が爽やかなルゥが絡んだご飯を匙に乗せて、お嬢は言った。

「お父さんとお母さんなんか言ってた?」

「いや。特には。いつものことだし、拾ってきたのが人ってことは言ってないし。また動物だと思ってるだろうな」

 カレーを口に運ぶ守央の瞳が、ベッドで寝ているウメに移る。

「だろうね。二人には明日報告するよ」

「健闘を祈るよ」

「そうだ、守央の説教を聞かないと」

「食事時に説教聞いたら食べた気しなくないか」

「カレーを食す最高潮に幸せな気分と相殺させたいの」

「なるほどね。じゃあ始めるぞ」

 カレーを食べながら。守央の説教が始まった。

「虫に始まって、爬虫類、魚類、哺乳類、まだ動物だった頃はいい。よりによって人を拾ってくるとはどういうことだ。こいつが何者かわかってるならまだしも、意識のない男だぞ。それに着物で、褌を巻いて、はだしで、床屋でカットしてない髪型で、バッキバキに足首骨折してたぞ? 少なくとも一日水分取ってないし。最近ようやく拾い癖が落ち着いたと思ってたのに」

 ここで言葉を切って。匙でお嬢を指すように振った。

「なぁお嬢……

 こいつは人だよ、人。

 誰だよこいつ、

 着物褌裸足野郎に治療費を払う生活力はあるのか、

 人だからきっちり請求するぞ

 俺の治療費は高いからな、

 払えないって言っても無駄だ、

 耳そろえて払ってもらう、必ずだ」


 話を終えてカレーをほおばる守央へ、お嬢は恐る恐る聞いた。

「治療費は……いくら請求するの?」

 守央はずん、と手のひらを突き出した。指はきっちり開いている。

「五万円?」

 守央は首をゆっくり横に振る。

「五十万?」

 またもや横に振られ。

「五……百万?」

「正解」

 守央はにやりと笑う。それは常闇にぽっかり口を開けて、気づかずに落ちた人を食らう沼のような、黒い笑みだった。爽やかがチャームポイントである守央だけに、その落差が激しくてお嬢の背筋は凍り付く。

「これでも一桁負けてやってんだぞ。俺ってどんだけ優しいんだよ」

 自分を褒めたあの笑顔……嗚呼、守央はマジだ。間違いない。


「生活力……」

 不安げに青年へ視線を投げかける、お嬢だった。


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