軽率な行動は慎みます
(…ここ、どこだっけ?あぁ、そっか…)
陽の眩しさを感じて目を覚ませば、見慣れない天井に数度ゆっくりと瞬く。
聞いたことのない鳥の鳴き声と、次第に冴えてきた頭に昨日の記憶が甦り、やはり見知らぬ世界に来たのだと身に染みて、ひとつ溜息をついた。
胸の内に長く燻り黒く焦げ付いていた感情が昇華した、ということなのか、ただただ疲れすぎていたのか、本当に久しぶりによく眠れた。
あの日以来ずっと、浅い眠りを繰り返しているうちに朝が来る、という睡眠サイクルだった。
むしろ眠りすぎたらしく、身体が少し重だるく感じる。
(父さん…ごめんなさい。許してくれる?)
しかし、やはり気持ちは晴れなかった。
後悔はないが、喜びもない。
やって良かったとは思うが、やるべきだったとは思えない。
葛藤する心ともう少し微睡んでいたいが、起きた方がいい時間だろう。
もそもそとベットから出ると、顔を洗いにバスルームへ向かう。
(髪、乾く前に寝ちゃったから…すごそう…)
あんまり寝癖が酷いとシャワーだけでも使わせてもらおうと、鏡を見て笑みが溢れる。
すとんと綺麗に落ち着いている。
何の手入れもせずに寝たため覚悟していたが、腰のあるしなやかな髪には、多少の絡まりも跳ねもない。
それだけで、先程まで鬱々としていた気分が少し晴れるのだから、リタはやはり妙齢の女性なのだろう。
ちょっとご機嫌で顔を洗うと、昨日、お風呂に入った時に脱いで藤の籠へ畳んで入れておいた服がない。
さて、どうしようかと寝室に戻るとクローゼットが目についた。
何か入っているとも思っていなかったので、昨日は開けることをしなかったが、もしやと思い、曲線を描く可愛らしい取手に手を掛けた。
(これ、着ていいってことかな?すごい…)
開けたクローゼットの中には、一目で上質と分かる、カラフルなドレスやワンピースが10着程仕舞われていた。
それに合わせた靴も幾つか揃っている。
本当に至れり尽くせりで恐縮してしまうが、一度甘えると決めたのだ。
遠慮なく着てしまえと、立ち襟が品のいい濃紺のワンピースと、少し踵の高い編み上げのショートブーツを選んだ。
着てみると着丈も身幅も丁度良く、襟、袖、胸元にあしらわれた繊細なレースが、シンプルなデザインを華やかにしてくれている。
背中側の留め具として、中央に縦一列にお行儀よく並んだ包み釦も愛らしい。
しかし、その包み釦があと三〜四個、自力では止められない。
(んー、どうしようかな)
他のも可愛らしかったが、普段、仕事着の多いリタには少しハードルが高い。
明るい色は着慣れていないと気恥ずかしいものだ。
出来れば、一番大人しい色をしたこのワンピースが着たかった。
「もしもーし。起きてる?」
別の服に着替えるか悩んでいたところに、ノックと共にリュカの声が起床の確認をしてくる。
「お二人とも、おはようございます。丁度良かったです」
「リタ…」
「はよー。丁度良かったって何が?」
扉を開けると、予想はしていたが、やはり白い魔物も付いてきていた。
朝からおやつを目にしてご機嫌らしい。
理由はさて置き、機嫌がいいのはいいことだと、自分も機嫌がいいリタは、にこやかにふたりを部屋へ招き入れた。
「朝食、呼びに来たんだけど…どしたの?」
「ありがとうございます。実は、少し困ってたんですよ。あっ、お洋服もありがとうございます。遠慮なく着させてもらったんですけど…釦が止められなくて。リュカ様、お願いできますか?」
くるりと二人に背中を向け、さらりとした長い髪を片側に寄せて釦を指差す。
「ばっ…!あんたな、こうゆうのはメイドを呼んでよ!!」
「リュカ、狡い…」
目の前に晒されたほっそりとした首筋と、釦のとまっていない隙間から少しだけ覗く白い肌に、リュカは慌てて顔を背けた。
無造作に低い位置でひとつに束ねられた、蒼く長い髪から少し覗く耳は真っ赤になっている。
リタとしては、中に下着も着ているし、むしろドレスのデザインによっては、きちんと着ても見えてしまう部分なので、特に恥ずかしさは無い。
昨夜のバスルームの方が、よほど心許なくて恥ずかしい。
大層おモテになりそうな見た目に反して、随分と可愛らしい反応につい微笑ましくなる。
「純情青年…」
「何か言った?」
「いえ、何も」
思わず口を突いて出てしまった言葉は、聞き逃してもらえたようだ。
顔を逸らしたままのリュカは、そのまま踵を返し扉へ向かう。
「とっ、とにかく、メイドを呼んでくるから、待ってて。白、廊下で待ってましょう」
「えぇー?いいですよー。たかだか釦数個でお手を煩わせるのも忍びないですし…侍女さんではないんですから。…では白様、申し訳ありませんがお願いしても?」
「…うん、いいよ」
口元を手で抑え、拗ねたようにこちらを眺めていた白い魔物に頼むと、あっさりと了承してくれて一安心だ。
初めから此方に頼めば良かった。
「いいのかよ!お、俺は外で待ってるからっ!」
「はい」
動揺している割に急かす様子のない彼に、やはりいい人だなと、すでに閉められてしまった扉に、ふわりと微笑み返事をする。
「…リタ、君はいけない子だね」
釦を止めてくれている気配にじっとしていると、不意に背後から白い魔物に捕らえられた。
剥き出しの耳元で囁かれた、昨日より幾分か掠れ、低く感じる声におやっと首を傾げる。
朝だからなのか、それとも風邪なのか、ハスキーな響きに色気が滲んでいた。
「何か駄目でしたか?」
左の脇から右肩に、右の脇腹から左腰に回された腕に、ぎゅっと少し力が加えられる。
「うん。次からこういうことは私がやってあげる。他には頼まないで。リタは…美味しそうだから、気をつけた方がいい」
「……わかりました(うん。次からはメイドさんを呼ぼう)」
食人種決定な一言に、口元を寄せられた耳が、不機嫌に任せて齧られやしないかと、ひやひやしながら承知するも、白い魔物はまだ不満そうに囁く。
「それに…リタには白と呼ばれたくないと言ったろう?」
「でも、あまりお名前を呼んじゃ駄目なんですよね?」
「リタになら、いくら呼ばれても構わないよ」
「…その手には乗りませんよ?」
昨日、リュカに本名は簡単に呼ぶなと注意を受けたばかりだ。
本人にいいと言われても、そこに何が隠されているか分からない。
昨日も精神干渉の魔法を使って呼ばせようとしたぐらいだ。
やはり、避けた方がいいだろう。
「ふふ…残念。じゃあ、こうしよう。通り名を付けてくれるかい?」
「私が…ですか?」
「そうだよ。私の名は覚えてる?」
何処か期待を孕んだような問いかけに、こくりと首肯で応えると、嬉しそうに笑みを溢す気配がする。
少しご機嫌が回復したようで、よしよしと内心でほくそ笑んだ。
「いい子。じゃあ、それを元にするといいよ」
「それじゃあ、えっと…(セルディナメル…長くて、何処で切るか分からない名前だな。メル…女の子みたい、却下。ルディ…なんかなぁ。んー…)あっ、セナ!セナ様なんてどうですか?」
「セナ…うん、いいね。素敵な名前をありがとう、リタ」
「気に入ったなら、良かったです」
付けてあげた通り名に、満足したようで何よりだが、ご機嫌が全回復したなら離してはくれないかと少し身を捩って視線を合わせる。
よく晴れた日の水面のように透き通り、そこに様々な色の水彩絵具をそれぞれ筆の先だけ滲ませたようなセナの瞳は、抜群に美しい。
この世界にこれより綺麗なものはあるのだろうかと疑問に思う程だ。
離して欲しいことも忘れ、思わずまじまじと見入ってしまう。
「苦しい…」
「大丈夫ですか?」
セナはやはり体調が良くないらしい。
昨日も胸を押さえていたが、持病でもあるのだろうか。
リタを拘束していた腕を離し、その場で蹲ってしまった。
「立てますか?今日は、お部屋で休んだ方が良いかもしれないですね」
腰を屈め、そっとセナの頭を撫でるとぴくりと肩が揺れた。
寒気もあるらしい。
少しだけ癖のある、柔らかい髪の感触を楽しんでいた手を、そのまま肩まで撫で下ろすと、セナは俯いていた頭をゆっくりと持ち上げ、煌々しい瞳を細めて見上げてくる。
真っ白な頬に少し赤味がさしているので、熱があるのかもしれない。
やはり風邪かと、熱を見るため首元に反対の手を伸ばしたところで、扉がノックと同時に開いた。
「おーい、まだ?俺、お腹減って死にそ……」
扉から部屋を覗き込んだリュカが、中途半端な体勢で固まっている。
きっと体幹が素晴らしいに違いない。
感心しながらも、そのままセナの首元に触れる。特に熱はないようだ。
寧ろ、少し低いか。
「…リュカ、邪魔しないで」
「邪魔…?リュカ様、遅くなってすみません。セナ様の具合が良くないみたいで…あれ?大丈夫ですか?」
セナの体調の報告をするも、当の本人は立ち上がり、リュカを冷ややかに見ていた。
頬の赤味もすっかり引いている。
「…ね、待って、待って。セナ様って白のこと?」
「はい、気に入ってくれたみたいです」
謎の石化が解けたらしいリュカの問いかけに、ほわほわと笑って返すと、リュカがうんうんと頷いてくれる。
「へー、あんた、ネーミングセンスあるね。…って、そうじゃない!!!白っ!」
素知らぬ顔をしているセナと、頭を抱えるリュカを眺めながら、何やらまた何か仕掛けられたらしいと苦笑するしかなかった。